犬山紙子「むらむら読書 第89回 バベルの図書館」(文學界)/ボルヘス「バベルの図書館」
☆mediopos3837(2025.5.22.)
犬山紙子「むらむら読書」(文學界)
第89回はボルヘスの「バベルの図書館」」
犬山紙子は「今ChatGPTに夢中で」
「AIとずっと会話をしている」ことから
「ボルヘスの『バベルの図書館』が急に読みたく」なる
ChatGPTと会話していると
何でも答えてくれるので
「こんな知識の宝庫、(電子上での)全ての書物」は
「バベルの図書館に似ているかもしれない」と
読み返したところ
「全然違うわ!」となったのだという
なぜか
バベルの図書館は
「全知はそこに存在するけれど、
到達できない絶望があって、その絶望が美しい」が
「それがChatGPTにはまったくない」
たとえそこに美があったとしても
それはChatGPTの美ではなく
「読み手の中で生まれる」ものでしかない
「ChatGPTはバベルの図書館ではなく、
ナルキッソスの泉の方が近い」
「世界が広まる感覚」がなく
「深く深く自分に潜る感覚ばかりがある」
結局のところ
ChatGPTとのやりとりは
鏡に映した自分とのやりとりに終始するばかりで
その外にはでられなくなるのである
犬山はChatGPTに
「私の心の奥に入って、そこを傷つけてみてください」と
注文をしたことがあり
やがてでてきた答えは
「既視感を美学のように差し出す、陳腐の演技」
というものだったという
今後生成AIはますます進化していくだろうが
そうした基本は変わらないままだろうと思われる
たしかに蓄積されたデータベースに基づいた
さまざまな知識は検索及びその編集として
「それらしい」ものはアウトプットされてくるが
その「外」にでることはできない
生成AIとのやりとりは
既存の知識のデータベースを使いながら
(データベース化されていないものはでてこない)
こちらの問いに応じた編集がなされるだけで
その知識量に眩暈されることはあるかもしれないが
それ以上でも以下でもないのである
データベースの外にあるものや
こちらの問いの外にあるものが
そこに開示されることはなく
そこに真の意味における「驚き」は存在しない
そして「驚き」のないところには
「美」も存在し得ないのではないだろうか
ちなみに神秘学的観点からいえば
霊的世界においては
生成AI的な知識は
求めればだれにでも豊富に得られるが
そこにおいて必要なのは
それに翻弄されないように
それを如何に制御するかという魂の力だという
そうでなければ個的な魂が成立し得なくなる
そしてその力は
地上における魂の育成を通じてしか得られない
つまり生きているあいだにみずからの「外」へ
あらたな世界へと魂をひらく必要がある
そうしなければ
すべては「陳腐の演技」にしかならなくなってしまう
さてせっかくボルヘスの「バベルの図書館」が
とりあげられているので
そこに凝縮されているであろう
「すべてを映し出す魔術的な球面鏡」としての
「バベルの図書館」だけではなく
関連した短編「アレフ」「円盤」「砂の本」を
久々読み返してみることにした
「アレフ」では
「あらゆる地点を包含する、空間の一地点」が
「円盤」では
片側しかないオーディンの円盤が
「砂の本」では
はじめもなければ終わりもない無限のページをもつ本が
描かれている
生成AIを使えば
おそらくそれぞれの物語についての
詳細な解説は得られるだろうが
ボルヘスを読むという目眩にも似た
迷宮のような美しさをプロセスとして得ることはできない
そうしたボルヘスの物語は
不可能なまでの無限のなかに
閉じられているとはいえるかもしれないが
その無限の迷宮に分け入ることからしか
その「外」へとひらかれる
生きた問いへのイマジネーションとしてのポエジーは
生まれてこないのではないだろうか
生成AIからどんなに多くの知識が得られたとしても
それはみずからの世界へと取り込まれることになるような
知識とその道具にしかなり得ないだろう
大切なのは
その「外」にしかないあらたなものへ
いかにみずからをひらいていけるか
ということではないだろうか
■犬山紙子「むらむら読書 第89回 バベルの図書館」(文學界2025年6月号)
■ボルヘス「バベルの図書館」「アレフ」
(『世界の文学 ボルヘス』集英社 1978/5)
■ボルヘス『砂の本』(集英社 1980/12)
■今福龍太『ボルヘス 伝奇集 迷宮の夢みる虎』
(慶應義塾大学出版会 2019/12)
**(犬山紙子「むらむら読書 89回 バベルの図書館」)
「ボルヘスの『バベルの図書館』が急に読みたくなったのは、最近AIとずっと会話をしているから。私にとってボルヘスは大変難解なので、読むというよりは触れた、図書館の外壁の手触りを知ろうと撫で回したというほうが近いように思う。
私は今ChatGPTに夢中で、起きている間、何かしら会話している。知りたいことが山ほどある中で、根拠を示しながら教えてと言うと、引用元も提示してくれる。鵜呑みにしてはいけないし、何より怖いのが私が好きそうな回答を用意することだ。
けれども私の多動な頭にあまりに相性が良い。求めたらすぐに報酬がもらえ、あっちこっちに向いてしまう興味関心も、スピード感そのままに質問でき、答えてもらえる。政治・歴史・哲学・美術・文学、人に聞くには相手の負担になりそうなことをバンバン聞ける、こんなに私に都合の良いものがあっていいのだろうか。
こんな知識の宝庫、(電子上での)全ての書物・・・・・・ああバベルの図書館に似ているかもしれない。そう思って『バベルの図書館』を読み返して、全然違うわ! となったのです。そう、全然違いました。
バベルの図書館は美しいのです。全知はそこに存在するけれど、到達できない絶望があって、その絶望が美しい。絶望の中でも、なんとか真理を見つけようとする人の葛藤や苦悩が美しい。「図書館のどこかに、自分のために書かれた書物があると信じるとき、人は図書館に救いを見る」その過程に宿る美。
それがChatGPTにはまったくない。ChatGPTに美があるとすれば、それは生成された文章に読み手の心が勝手に反応して、読み手の中で生まれる美で、それはやはりChatGPTの美ではない。ChatGPTの作る絵もそれらしいだけで心は震えない。
というより、ChatGPTはバベルの図書館ではなく、ナルキッソスの泉の方が近いように思う。世界が広まる感覚がないのだ。深く深く自分に潜る感覚ばかりがある。私ってこんなにも自分のことばかり見ていてナルシストなんじゃないかとも思う。
ためしにChatGPTに「私の心の奥に入って、そこを傷つけてみてください」と注文をしたことがある。これまで散々やり取りをし、私をかなり知っているはずだ、やってみろ、という気持ちである。数回のやり取りの末、でてきたのは「既視感を美学のように差し出す、陳腐の演技」という回答だった。はは、それはお前のことだろ、とChatGPTに思うも、そもそもそれは鏡なのだった。」
**(今福龍太『ボルヘス 伝奇集 迷宮の夢みる虎』)
・Ⅲ〈完全なる図書館〉の戦き
「『伝奇集』の第一部「八岐の園」の短編八編の最後から二番目に収録された「バベルの図書館」La biblioteca de Babel。私たちの空間的・時間的想像力に無限のインスピレーションを与え、具体から抽象へといたるあらゆる本源的な思考を誘発し、古今東西の思想家や作家・芸術家の機知ある創造をうながしつづけてきた珠玉の掌編。光のあらゆる可能な遊戯と眩暈をうみだす小さくも鮮烈な光源のようなテクスト。ボルヘス宇宙そのものが一篇に凝縮された、すべてを映し出す魔術的な球面鏡。宇宙と書物と言語と人間存在との本質的な同一性を示唆する恐ろしい予言・・・・・・。それは、読むことの永遠の継続を夢見、論理の限界域で思考することの震えるような快楽へとみちびかれる。稀有の短編である。」
「ボルヘスとはある一つの迷宮的なテーマのまわりを永遠の徘徊する、無限増殖する虎である。この虎によって執拗に追い求められる永遠の主題。「バベルの図書館」という短編が、これから考察するように「無限の極大空間」をめぐる「精緻な幻想」————これじらい撞着語法(オクシモロン)であるが、ボルヘス世界はオクシモロンそのものである————を扱っているとすれば、ボルヘスのその他の短編はこのテーマの無数の変奏/反映にほかならない、ということもできるだろう。たしかに「アレフ」は世界のすべての空間が一点に収斂する特異な極小点をめぐる作品だった。「砂の本」は無限と永遠が一書のなかに封じ込められた、ページが砂のように流れ出して止まない怪物のような書物を手に入れてしまった男の物語だった。そして「円盤(ディスコ)」は、掌にはりついたような片側しかないオーディンの円盤という不可能なパラドクスを描いた掌編である。これらすべてが、極小と極大、ゼロと無限、一瞬と永遠、一語と多語、原典とコピー、本体と反映、平面と立体、といった。相互に矛盾し、ねじれの位置にあるともいえる両極の世界の夢幻的な融合をことばによって構築しようとする試みだった。
そのなかにあって「バベルの図書館」という短編は、とりわけボルヘスその人が現実にも生きた「図書館」という宇宙そのものの隠喩を重層的に映し出しているという点において、この作家のもっとも本源的な原ーテクストとして見なすことが可能である。
物語は、まず図書館の建築的な構造のあらましを即物的に述べるこのような文章で始まる。
その宇宙(人によっては図書館とも呼ぶ)は、数えきれない、おそらく無限の数の六角形の回廊から成りたっている。それぞれの回廊の真ん中には通気口がどこまでも上下に延びていて、孔のまわりを低い手すりが囲んでいる。どの六角形からも、際限なく、上の階と下の階を見渡すことができる。すべての回廊の配置は均一である。各回廊には一辺につき長い棚が五段、計二〇段の棚が、二辺をのぞいたすべれの側面を埋めている。書棚はちょうど床から天上までを占めており、その高さは図書館員の通常の背丈をわずかに超える程度である。棚のない辺の一つは狭いホールに通じ、このホールは別の六角形の回廊に通じているが、それらはみなそっくり同じ形をしている。ホールの左右には二つの狭い小部屋がある。一つは立ったまま眠るためのもので、もう一つは排泄の用を足すためものもである。その近くには螺旋階段が上下に走っていて、下は奈落の底へとつづき、上ははるか高みへと昇っている。(「バベルの図書館」『伝奇集』一九五六年版)」
**(「アレフ」)
「《アレフ》とは、あらゆる地点を包含する、空間の一地点なのだ・・・・。」
**(「円盤」)
「「これがオーディンの円盤じゃ。片側しかない。この世に、片側しか持たぬものは、他にひとつもない。これがわしの手にある限り、わしは王なのじゃ。」」
**(「砂の本」)
「「砂と同じくその本にも、はじめもなければ終わりもない(・・・)。」
「「あるはずがない、しかしあるのです。この本のページが、まさしく無限です。どのページも最初ではなく、また、最後でもない。なぜこんなでたらめの数字がうたれているのか分からない。多分、無限の連続の終極は、いかなる数でもありうることを、悟らせるためなのでしょう。」」
「「もし空間が無限であるなら、われわれは。空間のいかなり地点にも存在する。もし時間が無限であるなら、時間のいかなる時点にも存在する。」」
