りり医師による保険医療批判の考察──内科系指導医の視点


はじめに──医クラを揺るがす「直美」宣言

2026年3月29日、医師クラスタに激震走る。藤白りり医師が、初期研修を終えてすぐに美容医療に進む、いわゆる「直美」をYouTubeで宣言した。

参考媒体1:https://www.youtube.com/watch?v=g1xBSKeujA0

りり医師は、美容医療に進む理由とともに、保険医療の専攻医にならない理由を赤裸々に告白した。その論点は、日本の医療が抱える構造的ジレンマを突いた示唆に富むものであった。

本稿では、りり医師の進路選択の是非について問うことは一切しない。

本稿の目的は、彼女が我々に投げかけてくれた「保険医療の適性がないと判断した理由」や「保険医療の問題点」について考察することで、若手医師や医学生が、キャリアやプロフェッショナリズムについて考えるための視座を提供することである。

筆者紹介:内科系の専門医・指導医・医学博士。現在はクリニック勤務医。


論点1. 高齢者医療

「病気を繰り返すうちに寝たきりになってしまう方も少なくない」
「医療の力で長生きを実現することは、人々を幸せにしているのか自信を持てなくなった」

参考媒体1

この赤裸々な吐露は、高齢社会における日本の医療が抱えるジレンマを浮き彫りにしている。しかし、ここで深掘りするのは、「日本の高齢者医療の在り方」ではなく、高齢者医療に限らず持つべき医師の「マインドセット」の話である。

「貢献」と「幸せにする」ことは完全に別

現場で医師に求められる仕事とは、「患者の背景や希望、目の前の医療情報とリソースを統合して得られる最適解を提案し、同意を得て実行すること」である。このことを以て医師の「貢献」とみなせるが、この行為の中にはどこにも「患者を幸せにする」ことは含まれていない。

なぜか。医療行為の結果、最終的に患者や家族が幸せを手にするかどうかは「患者と家族の課題」であり、「医師の課題」ではないからだ。これをアドラー心理学では「課題の分離」と呼んでいる。

高齢者でも新生児でも、医療行為が滞りなく行われた結果、それに喜ぶ人もいれば中には喜ばない人もいる。はじめは喜んでも、後から「こんなはずではなかった」と思われることだってある。その「感じ方」は、医師とは切り離された個人の環境や考え方に依存する。

仮にもし医師が、「私が診察した患者は、みな幸せでなければならない」とすれば、「幸せの押し売り」とも言うべき越権行為とみなされる。

課題の分離ができないことによる危険性

ここで述べた「課題の分離」については、筆者が専攻医時代に生産年齢患者の難治症例に遭遇した際、心理的ストレスを克服する上で身につけた思考法である。

真面目な医師ほど「この患者が良くならないのは自分の責任だ」と感じてストレスや自責の念を抱きがちだ。しかし、全ての予後不良症例についてこのように感じれば、医師の心身がもたなくなってしまう。それは「患者への共感を欠く」という話ではなく、「あらゆる情報や議論を踏まえて、最善と思われる医療を提供することが医師の使命である」という事実と、「その先でどのような転帰が訪れるか」は最終的には誰にも分からないという医療の限界と現実を踏まえた、プロフェッショナリズムだと考えている。

寝たきりや死を「幸せではない」とみなすことの限界

全ての人間がいずれこの世を去ることを踏まえると、加齢に向き合い、寝たきり患者や終末期患者についてどのように治療やケアのプランを考えるかは、医療の本質そのものである。
言うまでもないが、治癒だけではなく苦痛緩和やACP(アドバンス・ケア・プランニング)も医療に含まれる。

これらは「若さや健康」という期間限定のパラメーターのみで一刀両断できるものではない。「避けられぬ老いと死にどう向き合うか」という根源的な問いと姿勢なくして、高齢者医療や終末期医療を語ることは難しい。

りり医師は、後述の論点2で述べるように「美容医療はだいたい遺伝や加齢によるもの」と述べている。しかし、高齢者医療こそ、まさに加齢によるものである。
あらゆる医師に問われているのは、加齢や死という不可避の事象に対して、どう接し、どう貢献するかという視座である。


論点2. 生活習慣病

「あまり健康に興味の無い患者様も多い」
「頑張っている人を応援したい」
「美容医療はだいたい遺伝や加齢によるもので、患者様の悪い行動が原因になっているわけでもない」

参考媒体1

本章では、2つの重要な論点を提示する。

(2-1)患者のSDH評価の重要性

一つは、SDH(Social determinants of health:健康の社会的決定要因)、すなわち「患者が健康に気を遣えない社会的要因(教育・就業・生活環境・社会環境など)」に対しても医学的評価の土台で考えるという視点である。

喫煙、飲酒、過食や不規則な生活を止められない背景には、教育や家庭環境、経済的事情、夜勤や当直などの職業上の制約、解消困難なストレス、精神科的な介入の必要性などが隠れていることが多々ある。限られたリソースと時間でこれらの全てにアプローチすることは困難なことも多いが、その背景に想いを巡らせて患者介入に役立てるのがプロである。

また、SDHが病態に関与するのは、糖尿病やアルコール性肝炎などの慢性疾患だけではない。腹痛、便秘、悪心、下痢、胃潰瘍、不眠、喘息の増悪(発作)、発作性の不整脈、ニキビなど、さまざまな急性疾患や一過性症状がSDHの影響を受ける。そこまで勘案して医療介入を行うことで、より質の高い医療を提供できると考えられる。

(2-2)生活習慣病と美容医療に共通する患者への「共感困難性」

図1. Nano Banana 2を用いて作成。


注:本節の主張は、生活習慣病や美容医療における一部の側面を述べたに過ぎない。

生活習慣病でも患者が努力している場合はある。


美容医療でも診断基準が存在するケースや、明らかに病的な状態を扱うケースはある。

本節の図説要旨を図1に示す。

「健康に興味の無い患者」
「美容医療はだいたい遺伝や加齢によるもの」
この二つの対比は、美容医療へ進むもっともらしい動機付けに見えるが、実は大きな落とし穴が潜んでいる。

生活習慣病の診療と美容医療には、共通する患者側の要因が存在しうる。それは、「患者の認知と現実の間にあるギャップの大きさが、医療的介入の必要性を増大させていること」である。一見別々に見えるこれら二つの文脈は、実は根源では同じフレームで説明できる。

具体的に考える。
生活習慣病の場合:
まず、生活習慣病で自身の生活を変えようとしない人たちには、「生活習慣を改善する必要性を理解できない」「必要性を理解できても、実行するための遂行能力が欠如しているか、嗜好品などによる欲求実現を優先する」人がいる(注:努力している患者も多くいる)。結果として、生活習慣病が悪化し、医療介入の必要性が大きくなってしまう場合がある。この状況で、「頑張っている人を応援したい」と言うのは、医師にとって「患者の認知と行動基盤が合理的かどうか」という、主観的な視点になってしまう。

美容医療の場合:
一方、美容医療においては、「病気ではないが、患者が自分の身体的特徴を改善させたい」という、「現実とあるべき自己認識のギャップ」「患者が今の自分の外見を変えたいかどうか」という主観的な評価軸が患者を受診行動に向かわせる(注:美容医療でも病的な状態を扱うことはある)。生活習慣病のように明確な診断基準が存在しない場合もある。医師が「手術の必要はありません。今のお顔が綺麗ですよ」と言っても、患者が「とにかく変えたい」と言えば、医師は介入せざるを得ないこともある。患者の要求が医師の「主観的な判断基準」から逸脱すれば、「自分が手術すべきと思う人を応援したい」というように、主観的な患者の選別につながるリスクがある。

両者の共通点:
このように、医師は、生活習慣病では「努力しない患者に関わりたくない」、美容医療では「手術適応とは思えない患者に関わりたくない」として、どちらの文脈でも「患者の認知と行動が医師の共感できる範囲外である」という共通の苦悩を抱えながら、患者を選別することになりかねない。

解決策:
この問題を解決するには再度、「課題の分離」が必要になる。
患者の行動や要求が医師の主観から見て共感できるかどうかは、あくまで「患者の課題」でしかない。
プロである「医師の課題」とは、「患者の行動や要求を踏まえた上で、臨床情報を客観的かつ冷静に分析し、介入可能な要素を提示し、同意を得て実行すること」だ。保険診療でも美容医療でも同じである。医師の課題に、「患者の考えに医師から主観的に共感する」ことは含まれない。(注:医師の課題として、客観的に患者へ共感することが必要な場合は多々ある。例:SDHに配慮した治療方針の提案など。)

職業選択の文脈において、「患者の悩みに共感できるかどうか」を起点にすること自体は否定しない。しかし、どんな分野でも、「あらゆる患者の悩みに主観的に共感できる医師」は理論的には存在し得ない。だからこそ「課題の分離」が必要になる。


論点3. 保険医療における医師の評価制度

「大学病院で高度医療をすればするほど給料が安くなる」
「指名制がない」
「目に見える分かりやすい評価制度や報酬がないとモチベーションが上がらない」

参考媒体1

これらは、保険医療における構造的問題を射抜いた正論だと筆者も感じている。

特に、「大学病院で高度医療をすればするほど給料が安くなる」のは非常に大きな問題であり、若手医師が医局を敬遠する最も大きな理由の一つと考えられる。この点については、筆者の下記の記事で詳説している。

▶︎ Youは何しに大学医局へ?──残れる医師、残らない構造

一方で、全てが正しいとも思わない。
たとえば、専門医や指導医を取得した先には、私立病院でスキルや肩書きに応じた高額報酬をもらったり、開業して地域住民から「指名してもらう」という道筋もある。いずれの道に辿り着くのも容易ではなく、健康リスクや経済的リスクもあるが、努力が開花するステージが全くないという訳ではない。

いずれにせよ、評価制度が厳しい労働環境と釣り合っていないというりり医師の指摘は、少なくない若手医師が抱きうる問題点である。
医療制度を設計する側は、持続可能な医療制度を実現するために、どんな痛みを伴った改革をするべきか、議論し押し進める必要がある。なお、筆者の意見は下記の記事で述べている。

▶︎ “捨て駒”医師の告発──自浄なき病院経営が招く医療崩壊


論点4. キャリア選択について

「(大学病院では)良い意味でも悪い意味でも、自分の10〜20年後が見えてしまう」
「自分の新しい可能性をどんどん開拓していって、10〜20年後、自分が想像もできなかった自分になるのが楽しい」

参考媒体1

筆者は、「無知」と「想像できない」ことは紙一重であると考えている。
りり医師が無知であるとは、全く思っていない。

あくまで一般論として、医業に関わらず、人が新たな業界や分野へ転身・転職する際、これまでの分野の経験的知識と比較して、異業種の経験的知識が不足するという「情報の非対称性」は避けられない。この状況は、ダニング・クルーガー効果(無知ゆえの過信や楽観)として、未経験の異業種に対する楽観を生む可能性があることを指摘したい。

たとえば、初期研修医修了時点で、保険医療における経験値は学部実習2年+初期研修2年で4年間積み上げている。これに対して、美容医療の経験値はゼロだ。保険医療で感じた構造的な限界や労働環境のように、美容医療にも、華やかなSNS発信の裏にある泥臭い積み上げやクレーム対応、「直美医師のキャリアの発展性」という構造的限界があるかもしれない。

ここで大事なのは、どんな分野であろうと、社会に貢献するための知識と技能を学ぶことがキャリアの本質であると言うことだ。

保険医療でも美容医療でも、誠実で正しい医療を行うには、目の前の患者に「介入・貢献」するためのスキルだけが頼りになる。患者を目の前にして、医師は、年齢、経歴、学歴、試験の成績、SNSのフォロワー数、全て関係なく「患者にどう貢献できるか」というものさしで価値を判断される。極めてシビアな世界だ。

筆者は、このように医師が臨床経験を積むときに直面する職業的技能の重要性について、「将棋の対局」と同じだと思っている。将棋では、一度盤面を挟んで相手と対峙すれば、年齢、国籍、言語、経歴、身体能力はすべて関係なく「ルール内で、相手の玉をいかに早く詰ますか」のみが評価基準になる、極めて明確な世界だ。
ただし、それはスキルという側面から切り取った際のたとえであり、医療には将棋のように絶対的な勝利基準や正解がないことの方が多い。また、医療では基準自体が日々アップデートされる。

あくまで筆者個人の考えを述べると、自分のキャリアにおいて、「先が想像できないかどうか」は重要ではない。筆者のキャリア選択の価値基準は、持続可能性を前提としつつ、「自分の人生全体における社会貢献をいかに最大化できるか」である。押し売りするつもりは一切ないが、このような意見もあると思っていただければ十分だ。

この章では最後に、イチローの金言を引用したい。

小さいことを積み重ねることが、とんでもないところへ行くただひとつの道だと思っています。

https://vitup.jp/「小さなことを積み重ねることが、どんでもない/#google_vignette

おわりに──メタ視点によるりり医師の発信の意味論

最後に、りり医師の今回の発信そのものの意味論についてメタ視点で考察したい。

りり医師が発信した保険医療の限界や構造的問題点や、保健医療に対して動機を保ちにくい理由は、内容の妥当性に関わらず、若手医師が直面するリアルな葛藤として医師クラスタに問題を提示してくれた。
結果的に、医師クラスタで直美や保険医療の問題点に関する議論が活発になったことは、非常に有意義なことであった。その意味で、りり医師はまさにインフルエンサーとして貢献した。

筆者についても、本稿で新たな視点に至り、それを読者に提示するきっかけを得られたことは、りり医師がもたらしてくれた貢献の一つだと感じている。

りり医師へ敬意を表しつつ、彼女の今後のご活躍を祈りながら、筆を置く。

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