ホラー小説 紙魚のしおり 前
市民図書館の奥に、人の手が長らく触れていない棚がある。
分類ラベルは剥がれ落ち、目録にも載っていない古い本たちが、埃をまとって身を寄せ合っている。
私は、何の気なしにその中から一冊の随筆集を抜き取った。紙は黄ばみ、綴じも緩んでいた。なぜそれを手に取ったのか、自分でも分からなかった。
その本の間に、しおりが一枚、挟まっていることに気づいた。
異様なまでに薄く、妙に柔らかい。指先にほんのりと湿り気があり、まるでかすかに呼吸しているような感触だった。
色はくすんだ銀。うっすらと鱗のような模様が浮いており、わずかに光沢を残している。
誰かの忘れ物だろう。かなりの年季が入っている。
本自体の古さと傷みもあって、持ち主はもう探してさえいないのではないかと感じた。
そうだとしても。
見ぬふりをするのや持ち帰るのは憚られたので、カウンターで司書に渡した。
「はぁ」と気の抜けたような、無関心な返事が返ってきた。
持ち主など現れないと分かっているのだろう。私だってそう思っている。
まあいい。私は自分の気が済んだことにして、そのまま本を借りて帰った。
家で読み進めてみると、内容は拍子抜けするほど平凡だった。
冴えない日常の記録、淡々とした人間関係、心に残るような描写もない。
だが三分の一ほど読んだところで、ページの間に何かが挟まっているのに気づいた。
……しおりだった。
あの司書に渡したはずの。
いや同じものとは限らない。たまたま似たようなしおりが、偶然挟まっていただけかもしれない。奇怪な出来事を前に、それを認めず否定しようとした。
だが──色も質感も、あの奇妙な呼吸のような感触も、まったく同じだった。
司書が気まぐれで戻した可能性を考えたが現実的には無理がある。名前を聞かれたわけでもないし、どの本を借りたかを覚えている様子もなかった。あの調子では、しおりのことなど気にも留めていなかったはずだ。
そっと指先でしおりに触れる。やはり、わずかにぬるい。
湿り気を帯びた絹のような手触りが、指先から神経の奥へとしみ込んでくる。
何気なく、しおりが挟まっていたページを開いた。
たまたま、だとは思う。だが、その一節だけが、まるで別人の筆になるような、異様な文体だった。
《昨日の自分が、自分ではなかったように感じることがある。服は同じでも、皮膚の下で何かが裏返ったような気がするのだ》
その一文を読んで、しばらく身動きができなかった。
まるで、誰かが私の感覚を先回りして書き記したかのようだったからだ。
奇妙な一致に戸惑いながらも、私は読み進めた。
ページをめくるたび、しおりはまるで意志を持っているかのように、ついてくる。閉じて戻しても、また気づけば挟まっている。ページの温度が、じわじわと上がっていくような気がした。
翌日、出勤の電車内でもその本を開いた。気になって仕方がなかった。
車内の雑音の中、ふと気づくと、ページの余白に細い文字が浮かんでいた。
《この日、彼女はふとした思いつきで図書館の奥へと足を踏み入れた》
それは私の行動を、正確に──しかも過去形でなぞっていた。
驚いてページを繰るとその先にも数行、見覚えのない文が書き加えられていた。
印刷ではない。インクの濃淡があり筆跡の揺れもある。誰かが後から書き足したような、それでいて、どこか見覚えのある筆跡だった。
……いや、これは、まさか。
ありえない…。私の字だ。
《その夜、彼女はしおりのことを考えながら眠りについた。夢の中でも銀の鱗が蠢》
慌ててページを閉じたが、その文字達は私を捉えて離さなかった。
後編
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