ホラー小説 紙魚のしおり 後
前編はこちら
その日以来、私は毎晩、本を開いた。
内容自体は相変わらずつまらない。だが余白に浮かぶ文字が、私を引き込んで離さなかった。確認せずにはいられなかったのだ。
それは私の行動を追いかけるだけでなく、ほんの一歩だけ先回りしていた。
《彼女は書きかけのメールを削除した。なぜか送るべきではないと感じたのだ》
《駅のホームで、隣に立つ誰かを妙に不快に思い、一歩離れた》
私は書かれたとおりに行動した。だがそれは文字に従ったわけではない。自分の判断でそうした。そのはずだ。
それなのに既に紙の中にその描写がある。どちらが先だったのか分からなくなっていった。
しおりはいつも本の中に戻っていた。机の上に置こうと棚に挟もうと、朝になればページの間に戻っていた。
引き裂こうとしても駄目だった。紙のような感触のそれは裂けも燃えもせず、ただ、しぶとく戻ってきた。
やがて夢にもしおりが現れた。
銀の鱗がわずかに光を返し、ゆっくりとページを這っていく。それが通った後には、黒い文字が這うように浮かび上がっていく。
《今、この夢を見ている。ページをめくる音が、鼓膜の裏で響いている》
目を覚ますと私は本を抱いていた。胸の上で開かれたページは、昨夜閉じた場所ではなかった。
《眠っている間にも、誰かがページを捲っていた》
もう読みたくない。そう思ったはずだった。
なのに手はページをめくっていた。めくるたびに余白の文字は増えていく。まるで私の「思い直し」さえ予定されていたかのように。
《彼女は怖がっている。けれど、それはもう遅い。怖がることもまた計画の内に感じられた》
背後から視線を刺されるような錯覚。でもこれは錯覚ではない。ページが、しおりが、私の内部へと視線を差し込んでいる。
気づけば独り言が増えていた。口に出して確認しないと、自分の行動が本に書かれていたのか、それとも本を見てそうしたのか、区別がつかなくなっていた。
「私は私だ。私は、自分の意志で考えて動いている」
言えば言うほど、その声が自分のものに思えなかった。録音して再生してみた。聞こえてきたのは、かすれた低い声。語尾がほんのわずかに引き伸ばされていた。
──まるで、誰かが口真似をしているような。
本の中に知らない人の名前が現れはじめた。「相川」「黒嶺」「高瀬」──誰だ。知らない。けれどその文字を見るたびに、なぜか懐かしさと嫌悪がこみ上げた。
夢に彼らが現れた。私の顔をした彼らが、ひとつの鏡を囲んでいた。
笑っていた。私の声で。
けれど、あれは私ではなかった。私の顔を借りた別の何かだった。
気づけば家中の鏡をすべて外していた。スマホのカメラにもテープを貼った。自分の顔が自分のものではない気がした。見たくなかった。
しおりは日に日に柔らかくなっていた。
頬に、首筋に、無意識に押し当ててしまう。心地よさなどないのに肌に触れると、しおりはまるで体温を持っているようだった。
ある日、不意に目に入ったガラスの反射。
──映ってしまった。
背中に、鱗のような模様が浮かび上がっていた。魚か、爬虫類か分からない、それはきらきらと銀色に光っていた。
「どうして」と呟いた瞬間、舌にぬめりを感じた。少し長くなっていた。歯の裏に触れる感触が違っていた。
恐怖のまま本を抱えて図書館へ走った。受付にいた司書に本を投げるように差し出した。
「これ、返します…!もう……もういらない…」
司書はそれを受け取り、静かに目を細めた。
「……しおりは?」
その声を聞いた瞬間、吐き気が込み上げた。録音で聞いた、あの「私に似た誰かの声」だった。
私は走った。後ずさりして、階段を駆け下り足をもつれさせ、転んだ。
膝を打ちつけ痛みに呻いた。
それでも胸ポケットにしおりは戻っていた。
その夜。
右手の指が五本ではないことに気づいた。六本目がある。関節がひとつ多い。鱗のような皮膚に覆われていた。
声を上げて泣いた。叫んだ。自分の声が自分のものではなかった。
返したはずのあの本は、いつもの場所にあった。開かれたページに、こう記されていた。
《彼女はもう自分が何者だったか思い出せない。ただ、「読まれている」という感覚だけが残る》
捨てられない。何をしても、戻ってくる。燃やしても、埋めても、手放しても──必ず戻ってくる。
これはきっと初めてではない。私は誰かの続きを、なぞっているのではないか。
ページの一番最後に、こう書かれていた。
《しおりは読者を選ばない。ただ、誰かが空いた席に座るだけ》
──では私は、誰の「あと」だったのだろう。
沈むように意識が落ちていった。
発見は三日後だった。指は五本で、鱗もない。
遺体に異常は見られなかった。死因は不明。
本もしおりもなかった。
また、ひとつ席が空いた。
──次は。
いいなと思ったら応援しよう!
面白いと感じていただけたら、コストのかからないフォローとスキをくださると嬉しいです。
よろしくお願いします。