昼めし忘れて―赤帽おじさんやって来る
2014/1/2 日月潭
船が着いたのは、日月潭に点在する港のひとつ──伊達邵という集落だった。
船に乗ったあとの午後のこと。
🚗「貸切タクシー日月潭へ行く|ちょいワル運ちゃんと、對啊の午後」
のつづきです。


タクシーの運ちゃんはやっぱり待っていて、僕らが見えると手を振って合図をした。運ちゃんは一軒のお店に入り僕らも後ろに続いた。地元の民芸品などを扱っているお店で、原住民の衣装や置物、お茶などが所狭しに並んでいる。奥のカウンターにおばあちゃんがひとり座っていた。年輪の描かれた木のきりかぶの椅子に腰を下ろすと、目の前の小さな湯呑みにお茶が注がれた。透き通った茶色のお茶から静かな香りが立ち上った。

すると突然、おばあちゃんが僕に日本語で話しかけてきた。
「日本から来たの?じゃあこれをあげるから持って帰って家族で食べなさい。身体にいいんだよお」
後ろの冷蔵庫から何かを取り出して僕に見せた。聞くと天然素材の健康的な食べ物らしい。突然のことでもあったし、僕はそもそも保存できる冷蔵庫なんて持ち歩いていなかったので、いいよいいよとお断りをしたら、今度は酒を飲んでいけと言う。
ラベルには小米酒と書かれている。原住民の酒である。別の湯飲みに注がれた小米酒をチビリチビリと舐めた。とろっと甘くて乳酸菌のような酸味がある。おばあちゃんはサオ族と言った。子供の時代に日本の教育を受けて育ったという。

1時間後に運ちゃんと待ち合わせる約束をして皆と別れた。路地には食堂や露店、土産物屋が軒を連ねている。

そのうちの一つに店先で肉を焼いているお店があった。鉄板に放り込まれたぶた肉、ねぎ、ニンニク、唐辛子から蒸気が飛んで、こっちにまで、こんがりと焦げた脂の匂いが、香ばしく漂ってくる。



僕はぶた肉の鉄板焼きと、ついでに鉄板の上に吊るされている鶏肉炙りを注文した。どこかベンチに座ってゆっくり食べようと思った。
ビニール袋のなかの熱が手のひらにじんと伝わってくる。船着場の近くにひさしのついた丁度よいベンチが見えたので、そちらに向かって歩いていると、後ろから声をかける人がある。振り返ると赤い帽子をかぶったおじさんが僕に何か言っているようだ。途中、どこかでゴミを捨ててしまって注意されているのかと思ったけれど、僕はゴミを捨てた覚えはない。うっかり赤信号を渡ってしまったのかとも考えてみたけれど、このあたりに信号機はない。僕は台湾の言葉がさっぱりなので、何を言っているのか、何を返事したらいいのか、分からないのである。心当たりがないもんだから、自分は何も知らないと首を振って、やりとりを打ち切ってしまった。
ベンチから眺める湖に正月のやわらかい太陽が反射して、寝そべった犬が気持ちよさそうにひなたぼっこをしている。飼い主は缶ビールを飲みながら仲間と笑いあっている。
のんびりした埠頭のお昼の風景に、身も心もゆらゆらと同化しようとしはじめたとき、呼ばれる声で目を覚ました。声の主はさっきの赤い帽子のおじさんだった。おじさんは言葉が通じないもどかしさにやり場のない寂しさを漂わせながら、しかしその目には僕に何かを訴えたいという必死の気持ちが読み取れた。
再び現れたときのおじさんの表情は、あきらめとも決意ともつかない、どこか懸命なものだった。話している内容は相変わらず分からなかったけれど、おじさんの指は、僕の持っている食べ物の袋と、僕がさっき来た方向を交互に示した。
僕は、分からないまま、なんとなく、おじさんについていくと、そこは果たして、ぶた肉の鉄板焼きと鶏肉炙りを買ったお店だった。店先のカウンターには持ち主のない袋が所在なげに置かれ、僕は今になってやっと事の次第を理解したのである。注文したはずの鉄板焼きを持ち帰ってくるのを忘れていたのだ。今手にしているのは鶏肉炙りの袋それだけであった。赤い帽子のおじさんはホッとしたような顔つきになって、ニンマリ笑うと自分の持ち場に帰っていった。お店のおばちゃんは笑いながら鉄板焼きが入った袋を僕に渡した。
あのとき、僕が行ってしまった後で、おばちゃんは注文を受けたはずの品がカウンターの上に忘れられていることに気がついた。しかし注文の多いお昼の時間である。料理から手を離すことはできない。困ったおばちゃんは、たまたま近くにいたおじさんに声をかけた。
「黒縁のメガネをかけて、くすんだ色のトレーナーを着た、腹がぽっこり出ている男を探してきておくれ」
おじさんはそれらしい男を見つけたものの、キョトン顔の男には何を言ってもさっぱり通じない。あげくに首を振られてしまったものだから、おじさんはがっくり肩を落として、もう一度お店に戻り、細かい部分までを注意深く確認した。確信を得たおじさんは、今度こそと、再び僕を探し出して説明を試みたのであった。
僕は、申し訳ないと思う気持ちと、ありがたいと思う気持ちが入り混じって、しばらくのあいだ、胸の中にモヤモヤしたものがつかえたままだった。
ベンチに戻り袋から箱を取り出してふたを開けた。ぶた肉とねぎとニンニクと唐辛子の鉄板焼きは、それぞれがほどよい塩味を染み込ませていて、肉には噛みごたえがあっていい感じに辛味が効いている。

これはビールだ。パーツのひとつひとつが、完全に、ビールに向かって全力疾走していくべき味を構成していた。僕はすぐにふたを閉じ箸を戻して袋にしまった。7-11はさっきのお店の通りで見ていた。台湾ビールの缶には二種類のサイズがあって、僕はもちろん大きいほうを選んだ。

三度目に腰を下ろしたベンチの上で、プルタブを開ける音がぷちんと鳴った。犬がしっぽを振ってこっちを見ている。
たしかに、あれはビールの味だった──忘れ物を取りに行く午後の、ホロ苦い味。
📍伊達邵(イーダーサオ)碼頭
──忘れ物とビールの午後は、この港から始まり、この港に還った。
旅の忘れ物も、ちゃんと見つかる。そんな港が、日月潭にはある。
いや、あった。
そして、このあと── 三人で歩いた、もうひとつの午後がはじまる。
🌈『三人で歩いた日月潭|ファインダーの外側にあったもの』📸
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遠く過ぎた旅の風景を、いま言葉にしています。
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