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昭和を旅する⑤ 最果て急行「宗谷」の冬ーーー 函館から稚内まで、11時間の昭和旅

雪の函館駅に、三つの北海道が並んでいた

冬の函館駅には潮の匂いがあった。青森から青函連絡船に乗り、津軽海峡を越えて、ようやく北海道へ着く。函館駅のホームには、さらに北海道の奥へ向かう始発駅だ。

連絡船から流れてきた人と荷物が、今度はホームでわかれていく。函館は本州からの到着駅でもあり、同時に大きな分岐点でもあった。

函館駅のホームはまっすぐではない。まず青函連絡船の桟橋に向かって延びた線路が曲がり、その影響で駅全体が曲がっているからだ。私もその連絡船で海を渡って、ここへ来た。

11時20分着の連絡船から降りた乗客を待ち、曲がったホームに3本の列車が並んでいた。
4番線には、網走行きの特急「おおとり」。3番線には、釧路行きの特急「おおぞら3号」。そして2番線に、稚内行きの急行「宗谷」である。本州から来た乗客は、ここで北海道の道東へ、そして北の果てへ分かれていく。いま考えても、なんという旅情深い駅だったのかと思う。

私が乗るのは、2番線の急行宗谷。
朱色とクリーム色の急行色をまとったキハ56系気動車である。もちろん普通車で四人掛けのボックスシート。リクライニングなどない。防寒対策として窓ガラスはやや小さくし、二重窓になっている。床は木製で、窓下には小さなテーブルがある。それがこれから稚内まで乗って行く列車であった。

函館駅で、「道内時刻表」と昼飯用に一番安い幕の内弁当を買った。貧乏旅行の学生にはそれで十分だった。この頃、私はカメラマンを目指していた。だから旅の相棒はボロいニコンF2だった。黒い塗装はあちこちはげ、角には真鍮の地肌が見えていた。弁当と道内時刻表とへこんだニコン。それを抱えて、私は2番線の急行宗谷へ乗り込んだ。

函館駅でそれぞれの行き先を目指す、おおぞら、おおとり、宗谷(左)

隣のホームにいた「おおぞら」と「おおとり」がそれぞれ先発し、駅は少し静かになった。

そして2番線も発車ベルが鳴った。
昭和の駅に響くのは、少し荒いベルである。車掌の笛が続く。デッキのドアがガラガラと閉まり、短いタイフォンが鳴る。ゆっくり動き始める。ガタン、ゴトンと車体が揺れ、ホームの人影が後ろへ流れた。宗谷はすぐに速度を上げるわけではない。広い函館駅構内の複雑なポイントを、ひとつずつ渡って、次第に加速していく。

走り出してから、宗谷の長さが見えてくる

函館発稚内行き。北海道の大地を縦断する急行である。しかも長万部からは函館本線のいわゆる「山線」へ入り、倶知安、小樽を回って札幌へ向かう。さらに旭川、名寄、音威子府、幌延を経て、日本最北端の稚内まで行く。函館から稚内まで一本の列車で走り続けるのである。
多くの人にとっては、呆れ返るような列車だったかもしれない。特急ではない。速くもない。車内はボックス席。昼前に乗って、降りるのは夜の10時45分である。
だが、私にとっては、その呆れ返るところが魅力だった。
北海道の端から端へ、体を列車に預けて行く。
その不便さの中に、旅の芯があった。

車内に、国鉄のオルゴールが流れる。「アルプスの牧場」である。続いて車掌の案内が入る。旭川止まりの車両があること、稚内まで行く乗客への案内、そういう放送だったと記憶している。なぜか車両のことを「くるま」と呼ぶ。そこがなんとなく優しい。

七飯を過ぎ、仁山の勾配にかかると、函館の市街地から少しずつ離れていく。低い家並みが遠ざかり、遠くの山が次第に大きくなり、やがて大沼の湖畔に出る。
冬の大沼は、旅の序盤でありながら、もう北海道の奥へ入っていく予告のようだった。車窓に白鳥を見ながら、膝の上の道内時刻表を開く。函館本線のページから始まり、やがて山線とページは移る。急行宗谷は、走るにつれて時刻表のページも変わっていく列車だった。
だから、ページの端を折っておく。
次に見る場所をすぐ開けるようにしておく。いまどこを走っているのか。次はどこへ停まるのか。
現在地は、窓の外と紙の時刻表で確かめるしかなかった。
時刻表は、単なる冊子ではなく、北海道の中で自分の位置を知るための道具だった。

大沼を過ぎ、森で海岸へ出る。
宗谷は噴火湾に沿って右に大きな弧を描き進む。冬の海は青いというより、重い灰色をしていた。雪がプツリと切れたその場所に波が押し寄せる。

長万部、2分停車。
宗谷は広い構内を抜けて左に別れる線路を選び函館本線・通称山線に入る。ここから倶知安、小樽を回って札幌へ向かうのだ。いまなら遠回りに見えるかもしれない。だが当時の小樽は経済都市や港として大きな存在感があった。函館本線はその小樽を避けるわけにはいかなかったのだ。

いくつもの峠を超えていく山線

峠にかかると、床下のエンジンが唸りだす。キハ56の床下では2基のDMH17が全開状態になるのだ。気動車は自分でエンジンを抱えて走る列車だった。勾配にかかれば、音は重くなる。速度が落ち、天井から黒い排煙が吹き出す。

目名峠、倶知安峠、稲穂峠、オタモイ峠。列車は峠とトンネルを重ね、S字カーブを抜けながら小樽へと向かうのだ。

冬の日はそろそろ傾いてくる。
小樽着は15時57分。
停車は2分である。
函館を出て、もう十分に旅をした気がする。それでも、まだ札幌にすら着いていない。
ここで時刻表を見直すと、函館の隣のホームにいた特急たちの速さも見えてくる。「おおとり」も「おおぞら3号」は室蘭本線、千歳線へ回ってそろそろ札幌に到着する時間だった。宗谷は山線経由で札幌着は特急たちより遅い。それでも、ものすごく離されるわけではなかった。宗谷は山を往く急行でありながら、しぶとく特急を追っていた。

札幌、最後の補給基地

札幌着は16時30分。停車は5分である。「おおぞら」も「おおとり」も、もちろんもういない。札幌に集まった優等列車は再び散って、それぞれの北海道へ向かうのだ。

北海道で最大の駅札幌。
様々な人の声が聞こえ、ホームも明るい。宗谷もここで多くの人が乗降し、空気は入れ替わる。小樽、札幌の2つの駅で客の大半が変わり、乗り通す人は少なそうだ。

ホームに降りて売店で、晩飯の弁当を買う。ビールも買う。サントリーのミニ樽型ウイスキーや南京豆まで袋へ放り込む。この先は、もう補給基地がない。大げさではなく、そういう気持ちだ。昭和の長距離急行では、食べ物をどう確保するかも旅の一部だった。

発車すると、札幌の街の明かりが窓の外を流れていく。
温かい車内で冷たいビールを開け、2つ目の弁当を食べる。

ボックス席の小さなテーブルに、弁当、缶ビール、道内時刻表、文庫本。隣の座席にはニコンF2が転がっている。
外は雪。車内は暖房で温かいが、窓ガラスのそばだけが冷える。肩と腕だけが、北海道の冬を忘れさせてくれない。

札幌を出た宗谷は、岩見沢、滝川、深川を経て旭川へ向かう。ここから先は完全に夜の列車になっていく。道内時刻表のページをまた折り、次のページを開く。函館から札幌までで一日が終わってもおかしくない。それなのに、宗谷はまだ北へ行く。急行という名前のまま、夜の北海道へ入っていく。

更に北上する

夜の宗谷本線へ

旭川発は18時33分。宗谷はようやく自分の名前を持つ線路へ入る。ここから宗谷本線である。宗谷としては故郷に帰ったような気持ちであろうか。名寄、音威子府、幌延を越え、稚内へ向かう長い北の線路だ。

比布を過ぎ、塩狩峠へかかる。
窓の外に雄大な雪景色が広がっていた、と書きたいが夜である。塩狩峠は目で見る場所ではなく、音で感じる場所だった。DMH17が重く唸り車体が小刻みに震え出す。勾配にかかったことは体でわかる。遠くの町明かりが少しずつ下に落ち、二重窓に映る自分の顔だけが、こちらを見返していた。

塩狩峠で思い出すのは三浦綾子の小説だ。明治時代、塩狩峠で客車の連結が外れて逆行・暴走した。乗っていた鉄道職員の長野政雄が線路に飛び込み、身を挺して乗客を救ったとされる話をもとにした小説である。宗谷の車内でその地名に触れると、夜の窓に、読んだ時の記憶が重なった。暗くて何も見えないのに、そこだけが妙に深く感じられた。

積雪期の滑り止めのためにキハ56系は木製の床になっていた

名寄を過ぎるころには、人も減り、ボックス席を一人で使えるようになってくる。向かいの席に足を投げ出す者がいる。体をねじって3席を使い、どうにか横になろうとする器用な人もいる。誰かのいびきも聞こえてくる。網棚の荷物は暗く沈み、吊られたコートだけが列車の揺れに合わせてわずかに動いていた。

私は窓際に座っていたが外はほとんど見えない。二重窓に自分の顔が映り、その向こうで雪だけが横へ流れていた。列車の灯りに照らされた雪が、一瞬だけ白く浮かび、すぐ闇に消える。景色を見ているというより、闇の中を進んでいることだけを見ていた。

この頃の私は、報道カメラマンになりたいと思っていた。だが、その足がかりなど何もない。どこかの社に入るのか。そもそも入れるのか。来年の自分が何をしているのかさえ、まるで見えていなかった。床下でDMH17が唸る。車体が揺れる。宗谷は吹雪の原野を、ただ北へ突っ走っていく。その感じは、自分の見えない未来へ運ばれていくようでもあった。

車内でできることは限られていた。
文庫本を読む。週刊誌をめくる。時刻表を開く。弁当を食べる。眠ろうとして、眠れず、また窓を見る。いまのように手元の画面で時間を消すことはできない。時間はそのまま目の前に残っている。だから、こちらもその時間と付き合うしかなかった。退屈で、寒くて、長い。だが、その長さこそが旅だった。

列車交換で宗谷は短く停まる。停車時間は1分か2分である。ホームへ降りる。空気が一気に刺さる。ホーム脇に積もった新雪を、サントリー樽型ウイスキーのフタである小さなカップへ詰める。すぐ車内へ戻り、暖房の効いたボックス席で、その雪にウイスキーを注ぐ。即席のオンザロックである。
いまなら衛生がどうとか言われるのかもしれない。だが、あの頃の北海道では、ホームの雪まで旅の道具だ。
文庫本は南京豆の皿になった。

コップ付きの樽型ウイスキーは便利だった

音威子府といえば、黒いそばである。寒いホーム、湯気、黒い麺。北海道の鉄道旅を知る人なら、その名前だけで何かが立ち上がる地名だと思う。しかし急行宗谷の停車は2分である。残念ながら食べられない。宗谷は待ってくれない。黒いそばは、別の旅へ残しておくしかなかった。

幌延を過ぎるころ、道内時刻表の中の地図も、いよいよ北海道の先端に近づく。窓の外には、天塩川や、シベリアのような原野、利尻富士もあるはずだが何も見えはしない。そもそも雪も降っているのだ。見えていたのは、駅の灯り、小さなホーム、雪をかぶった線路、そしてすぐ戻ってくる闇だった。それでも、見えない外側に、広い原野があることはわかる。列車はその中を走っている。時刻表と、一瞬流れる駅名標がどこまで来たのかを教えてくれた。

二重窓に映る自分の顔。夜の闇を横へ流れる雪。ホームで拾った新雪のオンザロック。実に静かな時間が流れていく。

稚内 22時45分

稚内着は22時45分である。
本当に長い、尻も腰も痛い。

最後のブレーキがかかり、車体がゆっくり揺れると宗谷は稚内駅に滑り込む。ホームの灯りの中に、雪が少し舞っている。
降りた人々は、皆どこか疲れていた。大きな荷物を持つ人、帽子を深くかぶった人、肩をすぼめて歩く人。終点だから、歩く方向はひとつである。皆、列車を背にして、改札の方へ向かってくる。

稚内は、かつて樺太への入口だった町である。だが、この夜の私に見えていたのは、歴史の説明ではなく、暗いホームと、雪と、長い旅の終わりだった。ホームには「日本最北端の駅」を示すものがあったはずだ。しかし、そこに立って感慨にふける余裕があったかどうかは覚えていない。覚えているのは、体のどこかに染み付いたディーゼルエンジンの唸りだけだ。

11時間かけて稚内に到着した宗谷は完全に凍てつく

改札を抜ける。

人の少ない待合室を出れば、雪が降り続ける暗い駅前である。

宗谷を降りた人々は、帽子やフードを被り、重い荷物を持って、雪と闇のまだらな中へ消えていく。
私には、決まった行き場はなかった。
寒い。
駅近くのどこかに、宗谷の客を当てにしている赤ちょうちんの一軒ぐらいあるだろう。そう思うしかない。私は重いリュックを背負い直し、ニコンをぶら下げて歩き出した。

おまけ

イメージです   路線図などは適当です

おわり

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