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昭和を旅する⑥ ボンネットバスと女性車掌

今日は当たり

遠くから近づいて来るバスが、ボンネットバスだと当たりだった

私の幼少期には、まだボンネットバスが走っていた。

住んでいたのは東京都と神奈川県の境だったので、よく乗ったのは東急バス、京浜急行バス、川崎臨港バスである。昭和40年頃、都心部の道路は今ほど車で埋め尽くされてはいなかった。それでも子どもにとって、バスに乗ることは特別だった。日常の乗り物というより、どこか少し遠くへ連れていってもらうものだった。

停留所の向こうから、丸い鼻先を突き出したバスが近づいてくる。すでにボンネット型は数を減らし始めていたから、それが来ると今日は当たりだと思った。

今のバスのような平らな顔ではない。車体の前に長いボンネットがあり、その先に縦長のラジエーターグリルが付いている。丸いヘッドライトは左右の泥よけの上に付く、まるで大きなトラックの後ろに客室を取り付けたような姿だった。
不格好なのだが、どこか愛嬌があった。

乗降口には、中央から二つに折れながら開くドアが付いていた。「折戸」と呼ばれるもので、開くと左右へ折り畳まれ、乗り口が現れる。今の自動ドアに近い形だが、当時は車掌が扱うものも多かった。

子どもの足にはステップが高く、車内へ入るだけでも少しよじ登るような感じがした。

オレンジ色の耳

一番楽しみだったのは、腕木式の方向指示器である。

交差点が近づくと、車体の横からオレンジ色の「耳」が、ぴょこんと飛び出す。今のウインカーのように点滅するのではない。パタンと横へ出て、曲がり終わるとまた引っ込む。

私は窓の外よりも、その耳ばかり見ていた。

まだかな。

そろそろ出るぞ。

交差点の少し手前で、とうとうオレンジ色の腕木が飛び出す。それだけのことが、子どもには面白かった。

横に耳を出す アポロ式ウインカー

雨の日には、一番前の席に座りたかった。大きなフロントガラスの向こうで、ワイパーが左右に動く。雨粒でぼやけた町が、ワイパーの通った瞬間だけ鮮明になり、またすぐに水の膜に隠れていく。その繰り返しを、飽きずに見ていた。

横向きのビニール張りのロングシートでは、子どもは靴を脱ぎ、座席の上に膝をついて外を眺めた。
商店の看板や電柱、路地の入口が、窓の外を次々に後ろへ流れていった。

夏のビニール座席は、半ズボンの太腿にべたりと貼りついた。車体が揺れると、窓ガラス、床、折戸、吊り革が、それぞれ別の音を立てた。

ガラガラ、ガリッ、ぷわーん

運転席には迫力があった。

今では信じられないほど大きなハンドルを、運転手さんが身体ごと使って回している。床から伸びたシフトレバーは長く、停車中もブルブルと震えていた。

前に積まれたディーゼルエンジンは、アイドリングの間もガラガラと鳴り、車体全体を細かく揺らしていた。運転手さんがクラッチを2度踏んで、大きくシフトレバーを動かす。ギアがうまく合わなければ、「ガリッ」「ギャーッ」という音が車内に響いた。

あれが昔のバスの音だった。
前方に人や自転車がいれば、運転手さんが警笛を鳴らす。

ぷわーん。

今の電子音とは違う、少しくぐもった音である。町の通りでも、山道でも、その音は遠くまで残った。

もう一人の乗務員

バスには、もう一人の乗務員がいた。

車掌である。

女性が多かった。
紺色の制服を着て、小さめの制帽を少し斜めにかぶっている。肩からは、大きながま口のような料金バッグをたすき掛けにし、その中には切符の束、回数券、釣り銭が入っていた。手には金属製のパンチを持っている。

子どもの私には、運転手さんと同じように特別な仕事をする人に見えた。

実際、その通りだった。
車掌さんの居場所は、車体左側の折戸の脇にあった。
乗客が乗り終えると、入口と車体の左側を確認し、折戸をガタンと閉める。

「発車、オーライ」

少し高く、鼻から抜けるような声だった。

当時はマイクも車内スピーカーもない。エンジンの音と窓ガラスの震えに負けず、車内の一番前から後ろまで声を届けなければならなかった。だから、あの独特の高い声になったのだろう。

停留所が近づくと、車掌さんが呼びかける。

「お降りの方はいらっしゃいますかー」

降りる人は、

「降りまーす」

と答える。

今のように手元のボタンを押せば済むわけではない。黙っていれば、降りる人はいないものとして通過してしまう。乗り物に乗るにはコミュニュケーションが必要だった。

アナウンスをし、折戸を開閉し、窓から顔を出して側方確認と忙しい

揺れる車内で切符を売る

バスが走り出すと、車掌さんは料金バッグを身体の前へ回し、揺れる車内を歩いてきた。

左手には分厚い切符の束、右手にはパンチがある。
「どちらまで」と行き先を聞き、切符を抜き、金属音を立てて穴を開ける。現金を受け取り、バッグの中から釣り銭を出す。舗装の悪い道では、車体が大きく揺れた。それでも車掌さんは、足を開いて身体を支え、乗客から乗客へと移っていった。

あの車掌さんたちは、今思えばずいぶん若かった。

中学校を卒業して採用された人もいたという。15歳や16歳で制服を着て、車掌として働き始めた女性もいた。昭和40年頃には高校を卒業して入った人もいただろうが、それでも多くは若い女性である。

子どもの私には、すっかり大人に見えた。

しかし実際には、今の高校生ほどの年齢で、揺れる車内を歩き、現金を扱い、ドアを開け閉めし、大きなバスの安全まで支えていた人もいたのである。

揺れる車内で切符の指定場所にパンチで穴を開ける職人技

「踏切停車願います」

当時は鉄道の立体工事が進む前で、あちこちに踏切が残っていた。しかも郊外には警報機も遮断機もない踏切も多かった。そこに高速で列車が近づいてくるのである。
遠くから汽笛や警笛が聞こえてくる程度で、突然に交差通過するのであった。
今思えば、恐ろしい。

「踏切停車願います」

車掌さんの声で、バスが踏切の手前に止まる。
車掌さんはガラガラと折戸を開ける。丸めた赤い旗を手にして軽やかにステップを降りた。線路の左右を見て、安全を確かめ、手と笛で運転手へ進めの合図を送る。
赤い旗は、非常時以外は広げてはならない。

その動作には迷いがなく、子どもの私には、ただ格好よく見えた。

車掌は切符を売るだけの人ではなかった。
運転席は右側にあり、乗降口は左側に一つという車体が多かった。運転手が見にくい左側と後方を見るのも、車掌の仕事だった。

後退するときには車外へ降り、障害物や側溝を確かめながら、「バック、オーライ」と運転手を誘導した。
笛を「ピッ  ピッ  ピッ」と吹き、最後に長く「ピーーー」と吹いて止めた。修学旅行のバスガイドもこれは同じだった。

踏切での確認、後退時の誘導、ドアの扱い、発車の合図は、単なる親切ではなく、当時の運輸規則に定められた仕事だった。当時のバスは二人で動かしていたのである。

遮断器、警報機無しの踏切は珍しくなかった

蒸気機関車からボンネットバスへ

地方都市の駅前には、何台ものボンネットバスが並んでいた。

蒸気機関車が汽笛を鳴らし、白い煙を残して駅を出ていく。改札からは、大きな荷物や風呂敷包みを抱えた客がぞろぞろと出てきて、そのまま駅前のバス乗り場へ向かった。

紺色の制服に小さな制帽をかぶり、大きな料金バッグを提げた女性車掌が声を張る。

「山中温泉行きでございまーす」

湯治客らしい年寄り、学生、買い出し帰りの人たちが、その声に引かれるように集まってくる。車掌は行き先を繰り返し案内し、荷物を持った客を乗せ、老人に手を貸し、切符を売り、発車時刻を確かめる。
折戸を閉める。

「発車、オーライ」

バスは駅前を離れ、商店の並ぶ町を抜け、川沿いの道から山へ向かった。

鼻先が崖へ飛び出す

子ども心に、田舎の山道を走るバスの動きは忘れられない。

ボンネットバスは、今の大型バスより全長が短い。それでも当時のつづら折りはすさまじかった。急なカーブを曲がるたび、丸い鼻先が崖の上へ飛び出しているように感じた。

窓のすぐ外は谷である。

運転手さんは大きなハンドルを何度も何度も回し、車体はエンジンをうならせながら坂を上っていく。ときには道の上へ張り出した木の枝が、ガサガサと屋根をこすった。

国道ですら、まだ未舗装の区間が珍しくなかった。
晴れれば、後ろに白い砂ぼこりを長く引く。雨が降れば、たちまち泥道になる。深いわだちにタイヤを取られ、車体は大きく左右に揺れた。

山道ですれ違う車にも、その土地の暮らしが乗っていた。

食料品を積んだ三輪トラックが来る。郵便局の赤いミゼットが来る。木材を積んだ大型トラックも来る。どれも遊びの車ではない。山村の生活に必要なものを運ぶ車だった。

ガードレールもなく、待避所以外ではすれ違えない

警笛で相手を探す

峠道には、「警笛鳴らせ」の標識がいくつも続いていた。

見通しの利かない急カーブへ差しかかるたび、運転手さんがクラクションを鳴らす。

ぷわーん。

山の向こうから、返事のように別の警笛が聞こえることもあった。

互いに相手の位置を探り、どちらが待避場所まで進むのか、どちらが下がるのか、そのタイミングを測っていたのである。

道は狭く、対向車が来ても簡単にはすれ違えない。どちらかが少し広い場所まで下がるしかなかった。

バスが後退するときには、車掌が外へ降りる。
崖や側溝、後輪の位置を見ながら、笛を吹く。

運転手は大きなハンドルを回し、車掌は車体の外から進路を見る。何度も切り返しながら、ようやく対向車を通す。

故障も普通にあった

当時のバスは故障もした。

長い峠道を登り続けると、ラジエーターから白い湯気が立ち上る。
公衆電話も無線機もない。応援も呼べない。
運転手はボンネットを開け、車掌は銀色のバケツを持って近くの沢や民家へ走る。

乗客は誰も怒らない。むしろ外へ降りて景色を眺めたり、「押そうか」と声を掛けたりする。
何人もの手でバスを押し、ようやくエンジンが目を覚ます。ディーゼルがガラガラと回り始めると、車内から自然と拍手が起きたという話も聞いた。

今では考えられないが、それも昭和の路線バスだった。

バスに酔う人たち

当時は、乗り物に慣れていない人も多かった。

しかも道は悪い。未舗装の路面は上下に揺れ、つづら折りの峠道では車体が右へ左へと傾く。車内にはディーゼルの匂いがこもり、窓ガラスは震え続けた。

バスに酔う人は、とても多かった。

窓を開けて顔を外へ向ける人もいた。途中の休憩所に着くなり、しばらく動けなくなる人もいた。

峠を越える長距離の路線バスは、途中の茶屋やドライブインでトイレ休憩を取ることがあった。水道の脇には、鎖でつながれたアルミのコップがぶら下がっていた。それで誰もが水を飲んだ。ペットボトルなどなかったからだ。

売店にはサイダーやジュースなどの飲み物や、アンパン、ジャムパン程度のパンやせんべいなどが並び、外では古雑誌や先月の漫画を露天のように広げて売る人もいた。

旅の途中にぽつんと現れる、小さな生活の広場だった。

雪の山村をつなぐ

雪国には、四輪駆動のボンネットバスもあった。

冬はスパイクタイヤに履き替え、さらにチェーンを巻き、雪深い山道を低いギアで登っていった。

床下で「ジャン ジャン ジャン」と鎖を鳴らしながら、山間部に暮らす年寄りを町の病院へ運び、学生の通学を助け、山奥の湯治場へ客を送り届けた。

自家用車など夢のまた夢の時代であった。
田舎では、町と山村を結ぶ生命線だった。

雪と泥の3桁国道  タイヤチェーンはお客さんのイスの下に常備

バスの顔が平らになった

ボンネットバスは、もともとトラックに近い構造だった。
車体の前にエンジンがあり、その後ろに客室が載っている。

丈夫で作りやすい反面、長い鼻先の分だけ客室が短くなる。また、エンジンの音、熱、振動が運転席の近くへ集まった。

その後、エンジンを車体後部へ置くバスが増えていく。
前方まで客室として使え、乗客を多く乗せやすくなり、運転席付近の熱や騒音も減らせた。

こうして丸い鼻先は消え、バスの顔は平らになっていった。
理屈はそうだが、バスの顔はつまらなくなった。

「発車オーライ」が消えた

車体の変化と並んで、もっと大きな改革が進んだ。

ワンマン化である。

それまで運転手と車掌が分担していた仕事を、運転手が一人で担うようになった。運賃箱、整理券、降車ボタン、自動ドアなど、車掌の仕事の一部は機械に置き換えられた。

運転をしながら客扱いをし、停留所を案内し、運賃を収集し、ドアを開閉し、安全を確認するのである。ワンマン化は、単に車掌を一人減らしたという話ではない。バスの運行そのものを変える大きな改革だった。

道路は舗装され、峠道は広くなった。自家用車が増え、山村の暮らしも変わった。

いつだったのかは覚えていない。ふと気がつくと、車掌さんはいなくなっていた。

「お降りの方はいらっしゃいますかー」という、あの少し高い声は聞こえなくなり、代わりに運転手さんのマイクを通した案内や、録音されたテープの音声が流れるようになった。折戸は消え、自動扉となり、降車ボタンを押せばバスは止まる。便利になり、安全にもなった。会話は減った。

車掌さんが立っていた場所には、しばらく人のいないスペースだけが残っていた。しかし紺色の制服も、大きながま口の料金バッグも、折戸から身を乗り出して左側を確かめる姿も、そこにはもうなく、なんだか淋しい場所だった。

運転手さんが前方とミラーを見て、車掌さんが左と後ろを見る。二人で一台のバスを動かしていた時代は、いつの間にか終わっていた。

丸い鼻先のバス、ガラガラ鳴るディーゼルエンジン、ギアの音、雨の日のワイパー、ビニールの座席、踏切へ降りていく紺色の制服、峠に響く警笛、砂ぼこりを上げて山へ向かうバス。そして「発車、オーライ」という、あの高い声。
消えていったもののすべてが、昭和だった。

さらば車掌さん

おまけ


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