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「僕は珈琲」(読了)

 片岡義男さんの「珈琲三部作」の一作。三部作の「珈琲とドーナツ盤」に続いて二作目を読了。
 欧米のものについて書いていることがうわべの知識でないのは、英語とアメリカが片岡さんのバックボーンにしっかりとあるからだと思った。そのバックボーンから滲み出ているものが格好良さなんだろう。
 昭和の終わりに成人になった僕にとって、喫茶店で飲む珈琲(片岡さんに倣いあえてカタカナではなく漢字の当て字で)は、やせ我慢を強いられ、背伸びして飲むものだった。四六時中温め放しのファミレスの珈琲も飲み続けるには我慢が必要だろう。
 インターネット、SNSによって世界が狭くなった令和の現在の珈琲事情は片岡さんにはどう映っているのだろうか。
 珈琲は昔に比べて美味しくなったし、バラエティに富んでいる。コンビニの珈琲に凌駕されてしまった昔からの喫茶店は少なくないだろう。やせ我慢しないと飲めない珈琲を出す喫茶店は恐らくとっくに淘汰されてしまっていると思う。味は二の次で格好つけるための小道具的なものだった珈琲が、しっかり飲料として確立されたのではないだろうか。
 珈琲がないと一日が始まらず、職場にも自分で豆を挽いて淹れた珈琲を持って行っている。自分のところで珈琲豆を焙煎している珈琲屋からしか珈琲豆は買わない。
 「珈琲三部作」を読みながら飲むのにピッタリの珈琲はなんだろう?と途中から考えながらこの「僕は珈琲」を読んだ。
 今の時点で、昔の神保町が舞台の話でも、割と最近の話でも合う珈琲がひとつ見つかった。いくつかある「自分のところで珈琲豆を焙煎している珈琲屋」の珈琲だが、その珈琲の珈琲豆は売っていない。限られたイートインスペースでその珈琲を飲みながら読むか、テイクアウトしてどこか別の場所で飲みながら読むか・・・。
 僕にとっては三冊目に当たる「珈琲が呼ぶ」は文庫ではすぐに入手できる。しかし、単行本の初版が欲しい。単行本の初版探しに時間がかかっている。見つかるまであと何杯珈琲を飲むことになるのだろう。

向き合いながら珈琲を一杯飲めそうな帯の裏面に書いてあるフレーズと本文からの抜粋。

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