インド、コルカタで生活した日々のこと
帰る日を決めない旅の終わりのことで思い出した、あの旅の後半の日々のこと。
忘れつつあるから忘れないうちに思い出せる事柄を書いておこうと思う。
20代最後の日々のこと。
インドのあちこちを旅して、最終的にコルカタにやってきて、マザーテレサの施設へ、私は毎日ボランティアに通っていた。
1人で飛び込みで行って、どうしてもホスピスで働きたいのだと伝え、それが許可されて、カーリーガートと呼ばれる「死を待つ人の家」に通わせてもらうことになった。
サダルストリートという安宿街の安いゲストハウスで1週間ごとに宿泊費(家賃)を払って更新するような感じで宿泊していた。
朝ごはん(と言っても遅く起きてブランチ的な感じ)は、サダルストリートのBLUE SKY CAFEという当時バックパッカーやボランティアの人たちがたむろしているような場所があって、そこでよくフレンチトーストを食べていて、ラッシーが特に美味しくて1日に2回ほど飲んでいた。
毎朝そこのオーナーとちょっとお喋りして、インドの新聞を必ず持ってきてもらい、何か面白い映画がやっていないかとかをチェックするのが日課だった。

それからメトロに乗ってカーリーガート駅まで行き、ボランティアに通った。
ボランティアの仲間の中では、半年のボランティアを何回も繰り返しているベテランの人と、入ってきて1ヶ月くらいの人との、ちょうど中間くらいの存在として私は日々働いていた。というか過ごしていた。
ボランティアが終わったら、ボランティア仲間たちと屋上でチャイを飲んでビスケットを食べながら、隣にあるカーリーガート寺院を眺めたりお喋りをする時間を過ごした。ボランティアは悩んだり迷ったりすることも多く、ナーバスになりがちではあったが、このチャイタイムがいい切り替えになっていた。
私は、最初の頃は、コルカタのサダルストリートにある安宿なのにめちゃくちゃ広いニューヨークセレブみたいな最上階の部屋(最上階と言っても3階で、安宿で格安だった、1泊500円しなかった)で1人で生活していて、その広さを自慢していたら、しばらくして体中ダニにやられまくったため、ボランティア先の看護師さんについてきてもらいドラッグストアで薬を買いに行き、協力してもらって、大慌てですぐ近くのシーク教の人がやっている清潔な宿に引っ越しするという騒動があった。私は昔からどこに行ってもこういう地味な騒動を巻き起こす。

新しい宿はパレスという名前で、宮殿感は皆無のボロさだったが中はすごく清潔感があった。(今久しぶりに写真を見たらとても清潔には見えなくて驚いている。)
私のパレスは、1泊100ルピー(300円弱だったかな)の格安個室で、映画「パラサイト」の半地下みたいな場所で、窓がなくて日当たりなどという概念のない部屋で(遊びに来たボランティア仲間がドン引きしていた)、半地下なおかげで扇風機を回すだけで涼しくて良いし、テレビは意外とよく映るし、ダニもいないし、お気に入りだと、仲間たちによく話していた。
「日当たりの良い最上階の宿のVIPルームにあんなにもダニがいて、なぜ窓のない半地下の宿のベッドに虫がいないのか意味が分からないよ」、「この二つの部屋がほぼ同じ値段なのもどういうことなの」とよく仲間から笑いながら言われていたし、私もそう思う。
窓がないと雨が降っていても外に出るまで分からないこととか、外へ出た時に暑さにびっくりすることや、ターバンを巻いたシーク教の宿の主人が無口で無愛想な表情だけどむちゃくちゃ優しいとか、なぜか当時、ボランティア後のチャイタイムで話す私の生活のエピソードは、話す度にオランダ人やイギリス人のお仲間から爆笑をかっさらっていた。


ボランティアの帰りは、大概、歩いてオクスフォード書店に寄っていた。
当時、エアコンが効いているお店でタダで過ごせる場所と言えばここくらいしかなかった記憶。
蒸し暑いコルカタの街を歩いて汗だくになり、わざわざ本屋に寄り道して体を一気に冷やす。インドや世界の写真集を見たり、インドのゴシップ誌を見たりして、お金を使ってもいいかと思える日は本屋の2階にあるカフェで冷えたアイスティーを注文し飲んで過ごした。
お金は宿泊費も食費もすべて含めて1日平均千円(350ルピーくらいの時代だった気がする)でやり繰りするというルールを自分で決めていて(1ヶ月3万円が予算)、千円の中から宿代100ルピー(300円)を引いて、残ったお金で朝昼晩のごはん、メトロ代を捻出していた。
そんな中で、このエアコンの効いたカフェcoffee dayのアイスティーは1日の宿代よりも高かったのだから悩みどころであった。ご飯代を抑えて飲むアイスティーは超高級な飲み物だったが、値段の中にはこの場所の快適さの分も含まれていたと思う。外は40度を毎日超える気温の中、なんせ、ここがコルカタで1番涼しい場所だったから、400円以上の価値は充分にあった。
それからできるだけ本屋とカフェで長居して、日記を書いたりして、夕方、サダルストリートに歩いて戻り汗だくになり、水のシャワーを浴びて洗濯をする。部屋に干して扇風機を回せば一瞬で乾くから毎日同じ服を着て次の日もボランティアに行く。人生で1番「明日、何着ていこう?」と悩まない日々だった。
ドライヤーなどはもちろんないから、濡れた髪のままサダルを散歩するのが夕方の日課。
本屋のカフェに寄らない日は、調べ物をしにサダルにあるインターネットカフェへ行った。伝説宿パラゴンの近くに今でも超有名人なサトシという日本語ペラペラのインド人がいて、あまりそういう人とフレンドリーにならない私はよそよそしくチラ見の半会釈くらいの感じで通り過ぎていた。
サダルの突き当たり付近にあるチャイ屋で、なぜか毎日私を待っているネパール人の男友達が私に「ハイ」と手を挙げ、一緒に晩ごはんを食べながらベンガル語を教えてもらったり、疲れてる時はちょっと喋ってそのままその場で「また明日」と言って別れたり。
今思えばネパリの彼は、サダルストリート限定の私のボーイフレンドだった。どうやって仲良くなり毎日過ごすことになったのかは全く覚えていないし、帰国してからもしばらくメールのやり取りをしていたが、なぜだか分からない。今覚えているのは、彼の家がネパールのルンビニの近くだったということくらい。
ネパリの彼とまた明日ねと別れた後は、BLUE SKY CAFEにまた寄り、いつも誰か知り合いがいるので一緒に晩ご飯を食べたり1人で食べたりした。
この店のメニューはカレーはもちろん、西洋料理、中華料理、イスラエル料理など何でもあり、私はカレーに飽きた時にフライドライスや、オムライスを作ってもらってケチャップとマヨネーズを両方かけてもらうカスタムをして注文していた。1ヶ月もするとケチャップでハートを描いてくれるようになっていた。知り合いがいる時はカレーをシェアして食べたりしながらそれぞれの国での自分の以前の生活の話をしたりしていたと思う。何を話していたのか覚えていないけど、チャパティをちぎりながら一緒に笑っていた数人の人たちの顔は覚えている。
お腹がいっぱいになったら、チャイを飲みながら日記の続きを書いて、オーナーや知り合いに、おやすみまた明日、と言って店を出る。
BLUE SKY CAFEの隣の隣にある我が宿の半地下の部屋に戻って、テレビをつけて夜のインド映画かハリウッド映画を見ながら天井の巨大扇風機の風を浴びて眠りにつく。そんな1日。
ボランティアの休みの日は、仲間に誘われて中華料理を食べに行ったり(醤油の味が懐かしくてたまらなかった)、コルカタ近郊の観光をしたり、時々無料で開催されるインドの伝統音楽のコンサートなどを見たりした。
1人で図書館や公園、マーケット、プラネタリウム、意味なくハウラー橋などに行ったりしていたが、そのうちそれも飽きてきた。
シャンプーや日焼け止めを買い足したり、水を買い足したり、ティッシュペーパーを買い足したりという生活用品の買い物をした後、サダルストリートに一軒だけあったインターネットカフェへ行き、並んで順番を待ち、日本語の打てない大きなデスクトップのパソコンからローマ字で日本にいる恋人やしめちゃんに長文のEメールを送ったりするのが休日だった。



あとは何をしていたんだろう。思い出せない。
スマホやGoogleマップなんかはもちろんない時代だったから、ひたすら歩き回って一度見かけたケーキ屋を探すのに半日かかったこともあった。
ビビッドすぎる色合いの生クリームがとけていてどのケーキも美味しくはなかったけど、それでもあの時代のインド、コルカタでケーキを食べれたのは感動だった。今でも暑い日は、あのコルカタで食べた、クリームが半分溶けているようなケーキのことを思い出す。コンビニもスイーツも何もない場所と日々に、なけなしのお金で買ったケーキ。
迷って2度と行くことのできなくなったハイクラスなカフェなんかもあった。私の毎日着ているヨレヨレなインドで買った服とクロックスでは入るのが憚られるようなカフェだった。
一度運良く見つけても二度と行けない場所というのが、この時代には溢れていた。特に方向音痴な私の世界では。その不便さが今や懐かしくもある。
時々、そうやってインドの中での贅沢をしながらも、毎日同じような繰り返しの中で知り合いが増えていき、コルカタ、サダルストリートで、私は長旅の末の暫しの定住。つまりは生活をしていたのだと思う。
そんな生活を送っていた私に、そろそろ旅を終えようと思い立ち、この日々に別れを告げる時が来たのだった。
その話はまた。
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