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大切な言葉は大体『朝倉宗滴話記』の中にあるvol.4-12「嘘の城」

「墨俣一夜城は嘘の付城」

信長、秀吉の事例から朝倉家が国吉城攻略の為にとった付城戦術もまんざらクルクルパーな訳でもないとわかって頂けたと思われる。しかしながら、実はこの付城戦術はさほどポピュラーなものでもないのだ。織田信長や羽柴秀吉が付城戦術を使ったという記録は結構見つかるものの、その他の大名に関してはあるにはあっても、そう多くはない。
付城というと稲葉山城攻めの為に木下藤吉郎こと後の豊臣秀吉が築いた墨俣一夜城が有名だが、近年ではその存在が疑問視されているくらいだから、戦国時代後半から現れた新戦術の可能性もあるのだ。

ちなみに墨俣一夜城の伝説がどのようなものかというと…。

昔、昔の事じゃった。
墨俣一夜城は「織田信長」が美濃国の戦国大名「斎藤龍興」(さいとうたつおき)を攻略する際に造らせた城。織田信長が家臣達を集め、当時まだ敵地であった墨俣に砦を作るように命じたのじゃった。
最初にその役目を買って出たのは「佐久間信盛」(さくまのぶもり)で、60日かけ3,000人の兵で造ると宣言。ところが、現地に赴いて8割がたできあがった時点で斎藤勢が押し寄せ、未完成の砦を壊して兵糧弾薬を奪っていったのじゃった。
失敗した佐久間信盛に代わって、築城の任務を引き継いだのは「柴田勝家」(しばたかついえ)じゃった。柴田勝家は期限を60日とし、5,000人の兵を引き連れて墨俣に向かったんじゃ。しかし、佐久間信盛と同様、8割がた完成したところで敵襲を受けてしまったのじゃった。
ここで名乗り出たのが豊臣秀吉じゃ。
豊臣秀吉は、500人の兵で7日間あれば、墨俣に砦を築けると宣言。織田信長以下、家臣一同は驚いたんじゃが実は豊臣秀吉は事前に入念な準備をしていたんじゃ。
野武士であった「蜂須賀小六」(はちすかころく)の協力のもと、美濃国の山中で伐採した材木が墨俣の上流に用意されておっての。
一方の斎藤軍は、築城がはじまっても「また完成間近の砦を壊しに行けば良い」と油断しており、すぐに様子を見に行かんかったんじゃ。ところが、4~5日後に城が完成したとの連絡が入るんじゃ。驚いて10,000の兵で攻め寄せるも、蜂須賀小六が待ち受けていて邪魔をするんじゃ。こうして、首尾良く墨俣一夜城を完成させた豊臣秀吉は、その手柄をきっかけに出世街道をひた走っていったのじゃ。
めでたしめでたし。

と、こんなような話である。

ところが信長にとっても、秀吉にとっても重要なこの事件について、太田牛一信長公記をはじめとする良質の史料には、全く記載がないのである。
この墨俣一夜城伝説は、江戸時代に入って大衆講談や大衆軍記物語などによって広まった物語。そのもととなったのが、愛知県江南市の旧家に伝わる「前野家文書」だと言われている。ただし、この文書自体は江戸時代の中期に成立したとされており、真偽が不明な記述があるという意見もあるのである。
しかしながら、近年、作家の司馬遼太郎が、この伝説をその著作などで紹介した為に爆発的に広まったのである。

墨俣一夜城の話は置いといて…
付城など築かなくても、敵の支城が何らかの形で味方になれば、それが付城の役割を果たす事もあり得る。また付城を築くにしても膨大な手間と労力がかかる。兵力の損傷を防ぐという事には有効だが、財政的な面から割に合うのかという疑念から付城を築かない武将がいても不思議ではないのである。
(朝倉家による国吉城攻略の為に造営された付城は懲罰の側面が強いように感じられる。これについては後程詳述する)


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