大切な言葉は大体『朝倉宗滴話記』の中にあるvol.4-13「略奪ランド国吉城」
「国吉略奪ランドだった可能性」
織田信長、羽柴秀吉も行った付城戦術について、小谷城攻めや三木城攻めはともかく、国吉城に関するそれについては国吉城攻めの為に築いたというよりは、単に刈田狼藉の為に築いたのではないかという側面も見え隠れする。それというのも『佐柿国吉之城粟屋越中以下籠城次第』には国吉城が攻められたという記述もあるにはあるが、朝倉軍が大勢徘徊して、アレを取って行った、コレを持って行ったという記述もかなり目立つからだ。
恐らく当初は守護職である武田家の意向に沿わない、ひいては親戚筋である朝倉家(義景の父、孝景の正室は若狭守護大名、武田家の武田元信の娘である)の意向に沿わない国吉城城主、粟屋勝久(武田義統の弟、信方を擁立するという事件を起こしている)に一泡吹かせる為の刈田狼藉だったのが、敦賀の地侍にとって美味しい収入源になった事で、秋になると敦賀の地侍達がこぞって訪れる、スリル満点の略奪テーマパークと化していた可能性が高いのだ。もし『佐柿国吉之城粟屋越中以下籠城次第』の連年、国吉城に朝倉軍が押し寄せたという話を信用すれば、ではある。
ただ総合的に勘案して、付城を国吉城近くに築くという、当時現れ始めた付城という新戦術を用いて、粟屋勝久の動きを制限し、その間隙をついて武田家の本拠地である後瀬山城に迫るというやり方もあり得なくもないとは分かって頂けたと思われる。従来だと若狭攻略の為に国吉城を攻めたが、あまりに落ちないので、業を煮やした朝倉義景が国吉城を素通りして後瀬山城を攻略して武田元明を連れ去った事になっているが(『佐柿国吉之城粟屋越中以下籠城次第』にもそのように書かれている)、武田家の要請で粟屋勝久を懲らしめる為に連年、刈田狼藉を繰り返すも、あまりの武田家の弱体ぶりに武田家そのものを従属させる事に方針転換をしたと考えた方が、この場合に関しては辻褄が合うようにも思われる。
それにつけても、朝倉宗滴の一日で三城落とすというのは(いささか話を盛っているかもしれないが)信長、秀吉のやり方を見ても、宗滴は天才的な軍略家だと言えなくもないのでは?といえるのである。
