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大切な言葉は大体『朝倉宗滴話記』の中にあるvol.4-11「秀吉の付城戦術」


「羽柴秀吉による三木の干殺し」

織田信長の部下である羽柴秀吉も、三木城を落とす為に付城戦術を行なっている。
天正6年(1578年)3月29日に秀吉は三木城包囲を開始。織田方の上月城救援のために派遣した軍勢と信忠の軍勢で6月から10月にかけて神吉城・志方城・魚住城・高砂城を攻略(救援軍は支城陥落後に引き上げる)し、更には三木城に対峙する平井山(三木城の北東約2km)本陣と包囲のための付城を築いたのである。
別所長治に味方する毛利氏や荒木村重などの戦国大名が、包囲されている三木城を助けるために食料を陸路や海路から運び込もうとするも、秀吉によって築かれた30以上の付城によって完全に包囲されていたため失敗したと言われている。また秀吉は10㎞の間に二、三箇所くらいの付城を築き、さらには付城同士を塀や柵でつなぎ、それを二重三重に築いていたと言われている。
天正8年(1580年)1月、三木城内の食料は既に底をつき「三木の干殺し」状態が続いていた。一方の織田軍は三木城内の支城を攻撃、6日に長治の弟友之が守る宮ノ上砦を、11日に長治の叔父、別所吉親が守る鷹尾山城(友之が守っていたという説もある)を攻略、吉親の居城・山城構(新城)も織田方に奪われて、残るは本城のみとなる。14日、織田方に付く別所重宗(長治の叔父、吉親の弟)からの城中への勧告により城主一族の切腹で城兵の命を助けるという条件がでる。別所氏はこれを受け入れ、17日に長治一族が切腹し、1年10ヶ月に及ぶ篭城戦が終了したと言われている。(吉親はこれを潔しとせずに、吉親は自分の首が信長の目に晒されることを恥であると考え、三木城に放火した、それを見た家臣は吉親を取り押さえ、殺害したと言われているが、実際は長治らとともに自害していたことが明らかにされている。)
もし、三木城の城兵が500程度であれば、秀吉も付城戦術など採らず、一気に、攻め立てた可能性大だが、三木城には7,000の城兵が立て籠っていたと言われ、であれば力攻めは容易ではない。なおかつ相手が別所長治という名将であれば、尚更である。秀吉は当に奥の手を使ったのである。


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