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「自分探し」に感じる違和感の正体

こんにちは。のむらです。

note初投稿です。
よろしくお願いします。

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♦︎自分探し??

いわゆる「自分探し」で
インド等どこか遠くへ行く人がいますね。

でもなんかこの言葉、
違和感ないですか?

今回はその違和感について、
言語化していきます。

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いわゆる「自分探し」では、
上に書いたインド旅のように、
外へ外へと「自己/自分」を探しに行きますよね。

「わたしって何者なんだ?」という問いを携えて。

でも待ってください。

「わたしって何者なんだ?」
と問いかけている時点で、

既に問いかける「わたし」=自分がいる…?

この「わたし」を発見したのは
デカルトという哲学者です。

よく聞く

「我思うゆえに我あり」

とは実はこの意味です。

近代の哲学は、この「わたし」を
とても大切なものに据え、
鍛えて行くべきものと考えました。

反対に、

この個人的な「わたし」から
離れて行こうとしたのが仏教ですよね。

そうなると、

何か違和感、、
というかズレを感じませんか?

既に、
「内」にわたしがいるのに、
「外」を探そうとするのが、
よくある「自分探し」の行動だからです。

ほんとうは

"内"にあるのに
"外"にあると考えるこのズレ。

これが、
「自分探し」に感じる
違和感の正体ではないでしょうか?

この自分探しの動機って、

「もっと人に認められるような、
よりすごい本当の自分がどこかに居るはずだ」

と考える、
現在のありのままの自分を
受け入れられない気持ち
に端を発している気がします。

それはつまり、

もっと他者に認められたいという

「欲」

しかしそれは、

やはりその欲の発生源である
「強い自我/自分/自己」が
既にあるということです

そしてその背後には、

そのように
「ありのままの自分ではいられない」
と感じさせる
厳しい競争社会の存在があるわけですね

もちろん夕焼けに、
キラキラと朱色になった
ガンジス川を見て感動し、

自分を見つけた!

と思う人もいるかもしれません
(実際に見たことありますがとてもきれい)

けれどもそれは、
それに反応した皮膚の内側の、
既にあった「わたし」に
気づいただけかもしれません。

自分探しには
何か違和感を感じる
といいましたが、
それは自分探しの本当の意味が、

「既に内側にある自分に
気づくきっかけ探し=自分探し」

なのに、
外へと志向するからでしょう。

その様子はまるで、

眼鏡をおでこに掛けているのに、
「どこいった??」
と探しまわる姿みたい

        ****
♦︎と思いきや、自分とは外にもある?

「自分探し」
に対する違和感について
話してきました。

が、
ここで覆すようですが、

"自分"なんて
本当は無いのかもしれないし、

そもそも
内/外で考えるのが
野暮かもしれない。

つまり、

    他人も木も川も森も全部自分
        =(独立した個人の)自己はない

のかもしれない。

と考えると、
覆すようですが、
ある意味自己が外にあるとも
言えるでしょうか。

花や星、
親や友達を見ている時、
すなわち自分を見ているわけですね。

しかし、
現代の多くの人にとって
自己というものが
確かに感じられるのも事実です。

自己とか自我というと
すごく大層な感じがしますが、
ほんとうのところはどうなのか、
気になりますね。

自己について
鋭く深く探求した人に、
大庭健さんという
倫理学者の方がいます。

より深く考えたい方は
ぜひその方の本を読んでみてください。

長いのに読んでくれてありがとう

そんな私の「自己」について
紹介した記事です↓

要は自己紹介ですね笑 
よければ見てみてください

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