「キングオブノーマル ─ 普通を決める不毛な戦い」
僕は知りたいことがある。
世の中に頭がいい人がいるのなら、ぜひ聞きたいことがある。あなたの頭脳を、お借りしたい!!
「70億人の中で、最強に普通の人とは誰か?」
その人物を特定したいのである。
そうすれば、キングオブノーマルを中心とした、ノーマルによるノーマルの社会が実現する。
もちろん、それがどれほど無謀でバカげた問いかけかはわかっている。
だが、どうしても確かめたかった。
そこで僕はまず、思考実験から入ろうと思った。
世界中で選手権を行い、真の普通を決めようとする試みだ。
名付けて、「普通選手権 キングオブノーマル」だ。
とりあえず競技が必要なので、普通代表のようなものを用意しいた。
第一種目:朝食
この競技は、世界で一番「普通な朝食」を決めるという種目だ。
日本人「ご飯と味噌汁!」
アメリカ人「トーストとコーヒー!」
インド人「カレー!」
フランス人「クロワッサン!」
他にも「ソーセージ!」「ヨーグルト!」「サラダ!!」と色々と飛び交っている。
議論は大荒れになった。
「パンなんて非常食だろ!」
「いやいや、味噌汁こそマイナーだ!」
「インドではカレーが普通に決まっている!」
「クロワッサンは芸術だ、これこそ普通だ!」
結果、延々と争いが続き、誰も納得しなかった。
そこで出された最終手段は、多数決。
そして勝ったのは、圧倒的なSNSプラットホームパワーで、アメリカの「トーストとコーヒー」が選ばれた。
表彰式とカオス
こうして『キングオブノーマル』は決まった。だがその王冠は、多数決という虚しさを材料にして鈍く光っていた。
表彰台に立ったのは、バターを塗った一枚のトーストと、紙コップのコーヒー。溶けかけたバターは、形になることを拒むようにじわじわと流れている。
だがその瞬間!!
「ちょっと待った!」という声が飛ぶ。
「1位になったら“特別”やん!それ、もう普通ちゃうやろ!」
会場が静まり返る。
すると前列から、子どもの声が聞こえた。
「僕は……味噌汁もクロワッサンも好きだよ!」
続いて別の声が叫ぶ。
「俺はカレーも納豆も好きだ!」
やがて観客たちは一斉に、自分の愛する朝食を叫び始めた。
トースト、オートミール、バナナ、ソーセージなど、会場はカオスに包まれる。そして最後は抽象度が限界を突破した合唱が始まった。
「朝食! 朝食! 朝食最高ーー!!!」
大会は、大合唱のうちに幕を閉じた。
哲学者フーコーが見た「普通」
笑いの渦が収まったあとに残るのは、ただひとつの疑問だ。
結局、「普通」とは何なのか?
フランスの哲学者ミシェル・フーコーは、「普通」とは自然に存在するものではないと語った。
それは 権力によって作られた規範 であり、人々を管理するための線引きにすぎない。
学校では「普通の子ども」と「落ちこぼれ」が分けられ、病院では「正常」と「異常」が診断される。
そうやって社会は“普通”というラベルを使い、人を安心させる一方で、外れた者を排除してきた。
もちろん、「普通」が全部幻想だからといって、生命や安全に関わる基準まで「普通じゃなくていい」とは言えない。
「普通じゃない」運転や「普通じゃない」衛生管理は、人を危険にさらす。
だが、それ以外の多くの「普通」は、ただの安心の言葉であり、しばしば他人を縛るための装置にすぎない。
「普通」を決めようとするほど、それは不毛な争いに転じ、最後は虚無にたどり着くのだ。
それはまるで、雲の境界線を探すようなものだ。
どこかにある気がしても、手を伸ばした瞬間に形を変え、指の間からすり抜けていく。
それでも人は「普通」に惹かれる。
なぜなら「普通」とは、群れから外れない安心であり、比較から逃れる安定であり、社会を予測可能にする秩序だからだ。
人は誰しも、目立ちすぎることよりも、安心して呼吸できる日常を望むのだろう。
結局、人間はそれぞれの棲み分けの中で生きるしかない。
深く考えても、浅く笑っても、辿り着く答えは同じなのだ。
そして新たな大会へ
こうして「普通選手権」は幕を閉じた。
争いをやめれば、キングオブノーマルは逆転して「みんな違って、みんないい」になる。
