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「コスパ、タイパと、認知の檻」

 ふと思った。

 コスパとタイパという言葉があるが、コスパにはそもそも時間の概念が含まれているはずなのに、なぜわざわざ「タイパ」という新しい言葉が生まれたのだろう。気になったので、少し深掘りしてみたい。

 この二つの言葉が登場した時代には、大きな隔たりがある。その背景を整理してみよう。

 1980年代後半、日本は不景気の影響で「無駄を省く」ことを迫られていた。人件費やコストに見合うだけの成果、つまり費用対効果が強く求められるようになる。

 この時期に、「コストパフォーマンス」という概念が定着し、それを略した「コスパ」という言葉が生まれた。

 やがて「コスパ」は一般化し、ネットスラングとしても広まっていく。家電やグルメ、趣味など、あらゆる分野で使われるようになり、社会は「コスパ」という物差しで価値を測るようになっていった。

 そして2020年頃、映画やYouTubeの倍速視聴、ショート動画の台頭が始まる。この流れの中で若者の間から生まれたのが「タイムパフォーマンス」、略して「タイパ」だった。

 整理してみると、やはりコスパには時間の要素も含まれている。しかしタイパは、コスパの一部というよりも、「時間そのものの効率化」を主眼にした別の切り口として現れたようだ。

 2022年には三省堂の「今年の新語大賞」に選ばれ、メディアを通じて一気に全国区へ。こうしてタイパは、コスパと並べて語られるようになり、「コスパ・タイパ至上主義」という、いかにもキャッチーな言葉が完成した。

 そこに「若者の特徴」というラベルを貼れば、あっという間に時代の象徴のようにパッケージ化される。まさに資本主義の得意技である。

 ここから、少し視座を変えてみたい。

 今から約7万年前、僕らの祖先であるホモ・サピエンスは、「虚構を共有する力」によって他の人類を圧倒し、覇権を握った。

 虚構とは、「存在しないものを言葉で共有する能力」のことだ。詳しくはユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』を読んでもらうとして、ここでは要点だけ押さえる。

 神話、宗教、国家、お金。こうしたものはすべて、共通認識の上に成り立っている。お金を皆が信用しなくなれば、それはただの紙切れになる。

 つまり、虚構は種を超えて大人数で協力するための物語であり、人類の最強の武器だった。

 しかし、いつからかその武器は、人類同士で奪い合う道具になった。
かつては肩を並べてマンモスを狩っていたのに、いつの間にか部族を作り、マンモスの取り分を巡って争うようになった。

 そして現代では、その「マンモス」が形を変えている。
奪い合う対象は物や食料ではなく、人の認知そのものになったのだ。

 SNSでは、フォロワーや再生回数、いいねの数が、まるで狩りの獲物のように扱われる。誰かの注目を奪えば、自分の部族(アカウント)を肥やすことができ、逆に奪われれば衰退していく。

 こうしてデジタルの狩場で、終わりなき認知の奪い合いが続いている。

 コスパもタイパも、その檻の格子の一本にすぎない。
 
 この格子は、キャッチコピーという形で組み上げられている。以下にまとめてみた。

  • 即時理解性:複雑な現象を、わずか3~5文字に圧縮し、大衆の脳に負担なくインストールする。

  • 意味の先回り:先に名前を付けてしまえば、その概念は「そういうもの」として固定され、他の可能性が閉ざされる。

  • 認知ロック:名前によって見方が固定化され、以降の議論や判断も、そのラベルを前提に進んでしまう。

 こうして私たちは、気づかぬうちにその格子の中で物事を測り、思考し、行動している。便利でキャッチーな言葉は、評価の軸を檻の形に変え、私たちの視界を切り取ってしまう。そしていつの間にか、私たちはその檻の中でしか世界を見られなくなっていく。

 ここまで書いてきて、ふと思う。

 この文章自体も、檻の中から旗を振っているようなものかもしれない。
結局、僕もまた「認知合戦」に参加しているのだ。

 だからこそ、時には檻の外から世界を眺めることが必要だと思う。

意味を付ける前の状態に立ち、ラベルの外側に広がる未観測の景色を観る。

 そこでは、コスパもタイパも、檻も、ただの通りすぎる風景になる。

 今日も、言葉が生まれる前の静けさに身を委ねてみる。



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