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コンビニ存在論 ─ 焼肉を夢見るコロッケ弁当

 今から僕は、ものすごくくだらない話をする。「あ、やばい」と思ったらブラウザーバックをオススメする。そこにはあなたの自由意志が存在する。 

 
 宇宙は広い。銀河は無数にあり、ブラックホールは沈黙し、光速を超えるものは存在しない。そんなスケールの話をしていると、僕たち人間の営みなんて本当にちっぽけだと思えてくる。

 けれど、いざ現実を見れば傷を抱えて生きていかねばならない。そして、常に決断を余儀なくされる。重大な決断もあれば、日常の「どうでもいい選択」もある。たとえば、コンビニのレジでの一言。

 それは「弁当、温めますか?」である。
 
 「はい」と答えれば、未来の自分は温かい弁当を手にすることになる。
 
 逆に「いいえ」と答えれば、冷たいままの弁当を持ち帰ることになる。


 この瞬間、僕はまさに「未来を選ぶ存在」になっている。サルトル的に言えば、自由意志によって存在を切り拓いているようにも見える。
  
 しかし本当にそうだろうか。もし財布に小銭しか入っていなければ、そもそも焼肉弁当を選ぶ自由はない。欲しかったけれど、手が届かず、仕方なくコロッケ弁当を選ぶ。

 これは果たして「自由な選択」と呼べるだろうか。経済的制約の前では、自由意志はあまりに頼りない。選んでいるようで、選ばされている。
 
 しかも「温めますか?」に「はい」と答えたとしても安心はできない。店員さんの加熱スキルによっては、思ったほど温まっていない場合もある。逆に、加熱しすぎて弁当の容器が変形することすらある。

 自由に見える選択肢の裏側には、他者や状況の「縁起」が複雑に絡んでいて、結果は自分ひとりでは決定できないのだ。
 
 さらにレジでは「袋つけますか?」という新たな問いも待ち構えている。袋を断れば環境に優しい自分を演出できるが、雨の日に断ると弁当はずぶ濡れになってしまう。袋をもらうのか、断るのか。

 ここではカント的な「道徳律」と、アリストテレス的な「実用的知恵」が激しく衝突している。しかも選んだ後に「やっぱ袋もらえばよかった…」と後悔する未来まで存在している。
 
 そして何より致命的なのは「箸を入れ忘れられる」ことだ。弁当はそこにあるのに、食べる術がない。このとき人は「存在しているのに機能しない存在」と直面し、ハイデガーの言う「不安」を体感する。

 冷たい弁当を前にして途方に暮れる瞬間は、もはや哲学的実験装置である。
 
 こうして見ると、コンビニのレジ前はただの生活の場ではない。自由意志、決定論、縁起、倫理、存在論が交錯する縮図そのものだ。ソクラテスもプラトンも、もし現代に生きていたら、スタバではなくファミマで議論していたかもしれない。

 けれど僕が最もこだわってしまうのは、焼肉弁当だ。財布の中身のせいで選べず、結局コロッケ弁当を手に取る。コロッケに責任はない。あるのは自責の念だけだ。

 帰り道、袋もなく、箸も入っていないその弁当を抱えながら、僕はふと思う。宇宙はあれほど広大なのに、僕の現実的な選択肢は、こんなにも制限だらけだ、と。
 
 だが同時に、そこから新しい観測点が生まれる。コロッケを噛みしめながら、焼肉弁当に思いを馳せる。そのズレの中に、人間らしい哲学が立ち上がってくる。
 
 焼肉弁当に思いを馳せながら食べるコロッケ弁当。それはイデアと影の関係であり、欲望の対象aであり、効用理論の失敗でもある。
 

 つまり、僕は“コロッケを食べつつ焼肉を夢見る存在”なのだ。
 ……そう、コロッケを噛みしめながら未観測な焼肉を夢見る。
 そのくだらなさこそが、僕の哲学の真髄である。



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