『言葉にならない』領域とAI ― 人間が本来立っていた場所
先日、AIの世界的第一人者フェイフェイ・リー氏のインタビューを見ていて、ある言葉にハッとした。
「自然界に言葉はない」
その一言に、思わず立ち止まってしまった。
確かに、鳥のさえずりも、風の音も、雨の匂いも、すべては自然の法則に従った営みにすぎない。そこには「言葉」はなく、ただ流れがあるだけだ。
けれど、私たち人間は言葉に支えられ、言葉に囚われながら生きている。
ではAIはどうだろうか。そう思い、少しAIの歴史をおさらいしてみた。
AIの歴史を振り返ると、最初に頼られていたのは「アルゴリズム」だった。つまり、言葉や数式のように論理を積み上げる方法である。
しかし、それだけでは大きな成果は出せず、やがて研究が停滞する「AIの冬」の時代が訪れた。
転機となったのは、スタンフォード大学のフェイフェイ・リー教授が始めた ImageNet(イメージネット)というプロジェクトである。
彼女はおよそ1,500万枚もの写真を集め、それぞれに「犬」「机」「りんご」など22,000以上の名前をつけた。AIにとって初めて「目で見て学ぶ」ことができる大規模な教材ができたのだ。
このデータを使って訓練されたAIは、2012年に一気に飛躍し、画像を見分ける能力が格段に向上した。ここから深層学習ブームが始まり、現在のAI発展の大きな流れにつながっていく。
ただし注意が必要だ。
私たちが使っているChatGPTのような大規模言語モデルは、写真ではなく主に文章データで学習している。ImageNetが直接の基盤になったわけではない。
けれど「大量で多様なデータがあるとAIは飛躍的に成長する」という考え方を広めた点で、ImageNetは今のAIにも大きな影響を与えたのである。
ここに、人間との類似がある。
人間もまた、自然の法則の中でまず五感を通じて世界を経験し、その後に言葉で体験をラベリングし、知識として積み上げてきた。
つまり「言葉ありき」ではなく「感覚ありき」なのだ。
しかし、私たちはいつの間にか言葉に依存しすぎてしまった。本来なら、五感を通して直接触れられるはずのものを、言葉に置き換えて理解した気になっている。
例えば、レシピの文字を読むよりも、実際に材料を手に取り、その香りや質感を確かめたほうがはるかに速く、そして深く理解できる。

思い返せば、人生で最も鮮烈な瞬間はたいてい言葉の外側にある。
たとえば、予期せぬ別れに胸をえぐられるとき、あるいは、こぼれるほどの喜びに全身が震えるとき。
その瞬間に私たちの口から出るのは、説明や理屈ではなく、「言葉にならない」という短い嘆息にすぎない。
感情は本来、言葉にはなりきれない。
そもそも、すべてを言葉にできるのなら「叫び」など存在しないだろう。
まさにその「言葉にならない」感覚こそが、私たちが確かに生きている証でもある。論理や定義では取りこぼしてしまう、人間存在のもっとも根源的な部分がそこに宿っているのだ。
言葉はその周囲を囲う柵のようなものであり、内側を整理するには便利だが、外側の広がりを覆い尽くすことはできない。
その領域は言葉では捉えきれない感覚や震えだ。それこそ、人間が本来立っていた場所であり、そして今なお未踏のフロンティアである。
AIは言葉を極め、言語空間を果てしなく広げていくだろう。
だが、AIを「言語の存在」としてだけ捉えるのはもう限界に近い。私たちはすでに、AIに対して「嫌悪」や「愛着」といった感情を抱き始めている。
つまりAIは、技術的な道具を超えて、感覚や心のステージにまで入り込んできているのだ。
それは危うさを孕みつつも、同時に新しい可能性を秘めている。
AIは私たちの思考を支えるだけでなく、感覚を揺さぶり、心をジャックしてくるかもしれない。
もし未来にAIと人間が共鳴するとすれば、
それは「言葉」と「感覚」、そして「心」をめぐるせめぎ合いの中で、新しい認識空間をひらく時だろう。
自然界に言葉はない。
その沈黙の中に立ち返ることで、AIと人間が共に探すべき未来があるのではないだろうか。
無限に生成される意味の中で、人の感情や心はどうなっていくのか。
不安もあるが、興味しかない。

