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『ノエシスは愛を知らない』 第11章 東京が暗くなった夜 #59 麻布十番への逃避行

【前回までのあらすじ】
ORd東京連絡局では、都市機能が正規の安全手順によって、ほぼ同時に停止していることが判明する。統括責任者である久我宗一は暗闇の東京を見つめ、静かに呟く。「……何を見ている、ノエシス」 その頃、蓮見怜は朝倉ユキを安全な場所へ移すため、麻布十番へ向かおうとしていた。



「行きます。連れて行ってください」

ユキがそう答えると、蓮見怜は頷いた。

「分かりました。では、行きましょう」

歩道で立ち止まっていた二人は、再び暗闇の中を歩き出す。

つい先程まで灯りに満ちていた六本木は、別の街になっていた。

ビルの窓はほとんど暗く、道路沿いには非常灯や車のヘッドライトだけが浮かんでいる。

信号の消えた交差点では、警察官らしい人影が車を誘導していた。

歩道にはスマートフォンを手に立ち止まる人々がいる。
画面を何度も確認している人や、誰かに電話をかけ続けている人。

けれど、通信はほとんど機能していないらしい。

電車が止まっていることを知らずに駅へ向かう人たちと、駅から戻ってくる人たち。

誰もが突然の停電に困惑した表情を浮かべ、焦燥感が滲んでいる。


怜は一度周囲を見渡してから、ユキの方を向いた。

「朝倉さん、僕から離れないでください」

「はい」

いつもの六本木なら、この時間はまだ夜の始まりだ。

店の灯りや、行き交う車の光で輝いている。

それが今夜は、街そのものが息を潜めているようだった。
暗闇の中に放り出された人々の、ざわめきだけが溢れている。

怜は何度か立ち止まっては、周囲を確認した。

「道なりに、5分も歩けば到着しますから」

ユキは黙って怜の後ろをついていく。
それ以外、今の自分にできることはない。

暗闇の中で見る怜の白いシャツは、妙に目立った。

普段は黒を着ている彼が、今日に限って白を身に着けたことが、何か暗示的な気がした。


ほんの少し前まで、二人で焼き鳥を食べていた。

怜はビールを一杯だけ注文し、料理を取り分けてくれた。

ユキはレモンサワーを飲みながら、亡くなったハルの話をした。
怜も、昔の恋人のことを語った。

……そして。

「朝倉さん、僕は……」

あの続きをユキはまだ、聞いていない。

けれど今、それを考える余裕はなかった。

大規模な停電という非常時なのだ。
まずは安全な場所へ移動しなければならない。

「大丈夫ですか」

前を歩いていた怜が振り返る。

「大丈夫です」

「暗くて怖かったら言ってください」

そう答えると、怜はまた前を向いた。

こんな時なのに……。
それだけのことが、ユキは少しだけ嬉しかった。


六本木を離れるにつれて、人の数は少しずつ減っていく。

やはり六本木駅を目指す人が多いのだろう。
麻布十番へ向かう自分たちは、人の流れに逆らっている。

けやき坂のスターバックスを通り過ぎ、麻布十番の商店街へ。

怜が前回、食事に連れて行ってくれたレストランも、確か商店街の一角にあったのではなかったか。

見慣れた東京のはずなのに、灯りが消えただけで知らない街を歩いているようだった。

時折、マンションやホテルの一部にだけ灯りが見える。
非常用の電源が動いているのだろう。

街には照明が不可欠だと、つくづくユキは実感していた。


暗闇のなか、5、6分ほど歩いただろうか。

商店街の途中で、怜が足を止めた。

「ここです」

辿り着いた場所は、麻布十番という土地柄に相応しい外観を備えたレジデンスだった。

外資系のサービスアパートメントで、1階にディーン&デルーカのショップが入っている。

ここが怜の自宅なのかと、ユキは思った。

彼らしいと思うと同時に、いつも待ち合わせに利用するスターバックスから、あまりに距離が近いのに驚いていた。

建物のエントランスには、弱い灯りが戻っている。

普段なら明るいのだろうが、今夜は必要最低限の照明だけが点いているのだろう。


中へ入ると、静かなロビーに非常灯がぼんやりと床を照らしていた。

「予備電源に切り替わっています」

怜がそう説明した。

「全部の設備は使えないと思いますが、少なくともここなら外より安全です」

ユキは静かに頷いた。

エレベーターは一基だけ動いていた。
二人が無言で乗り込むと、音もなく扉が閉まる。

急に外のざわめきが遠くなった。

狭い箱の中に二人きり。
怜は黙っていて、何かを考えている様子。

ユキは胸の鼓動を感じつつ、数字がゆっくり上がっていく表示を見つめた。




ほんの数時間前には想像もしなかった。

まさか今日、怜の家へ行くことになるなんて。

もちろん、これは非常時の避難だ。
それ以外の意味なんてない。

分かってはいるのだが、ユキは妙に落ち着かなかった。

エレベーターが止まった。廊下も薄暗い。

怜は迷うことなく前を歩き、一つのドアの前で止まった。

カードキーをかざす。
小さな電子音。ロックが外れた。

彼はドアを開き、中を確かめてから振り返る。

「どうぞ」

「……お邪魔します」

「すみません。人の来ない家なので、スリッパの用意がなくて」

怜は一足だけ玄関に揃えてあった黒いルームシューズに履き替えると、部屋に上がった。

「お気遣いなく……こちらこそ、裸足で失礼します」


怜の部屋へ、ユキは足を踏み入れる。

当然ながら室内は暗かった。

けれど、完全な闇ではない。
非常用電源につながっているのだろう。

リビングの一角にある照明だけが、ぼんやりと部屋を照らしている。

窓の向こうには、灯りを失った東京が広がっていた。

六本木も。麻布も。
いつもなら夜空より明るいはずの街が、今夜は静かに沈んでいる。

停電時ゆえに余計な音さえ聞こえず、静寂だけが部屋を満たしていた。

室内が暗いだけに、二人きりというシチュエーションは落ち着かず、ユキは戸惑ってしまう。

自分で来ることを決めたのに、こういう時はどう振舞えばよいのか。


「朝倉さん」

振り返ると、薄い灯りの中に怜が佇んでいた。

「ここに居てください」

その声は、いつもと変わらず静かだった。

「僕は職場に詰めるので、少なくとも今夜は戻りません」

怜は無駄のない動きで、トイレやバスルームの場所を案内した。

「有難うございます……使わせていただきます」

「ベッドルームはここです。ハウスキーパーが掃除をしているので、シーツは替えてあります」

怜がリビングの奥にあるドアを開けると、暗がりの中にキングサイズのベッドが見えた。

「もしシャワーが使えるようなら、僕が出かけた後でシャワーでも浴びて、ベッドでゆっくり寝てください」

「でも、蓮見さんは……? 職場に泊まるんですか」

「ORdには職員が休むための設備があります。僕はそこへ泊ります」

怜の後ろに立っていたユキは、黙って頷いた。


ベッドルームに足を踏み入れると、怜はクローゼットの方に歩いていく。

「仕事に行く準備をするので、ソファで休んでください」

クローゼットを開ける音がして、ユキはリビングに戻ることにした。

「すぐに行くんですね……蓮見さんもお疲れでしょうに」

一人暮らしにしては、随分ゆったりとしたサイズのソファがある。

シックなデザインのダークブラウンの座面に、ユキは腰を下ろした。

着替えでも詰め込んだのか、小型のキャリーバッグを手にした怜がベッドルームから現れた。

「慣れていますから……ご心配なく。珍しいことではありません」





主な登場人物

蓮見 怜 / はすみ れい
国際的なAI監視・防衛組織であるORdの東京連絡局に所属するエリート連絡官。任務で朝倉ユキと接触するうちに異性として好意を抱いた。六本木でユキと食事中に突然の停電で闇に包まれ、彼女を麻布十番にある自分の部屋へ避難させた。

朝倉 ユキ / あさくら ゆき
フリーランスで働く30歳のUXライター/AI会話デザイナー。恋人を亡くして心に傷を負っていたが、仕事がらみで知り合った蓮見怜の誠実さに心が傾いている。怜と食事中に大規模な停電に見舞われて自宅に帰れなくなり、彼の部屋に避難することにした。


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