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『ノエシスは愛を知らない』 第11章 東京が暗くなった夜 #60 真新しいTシャツ

【前回までのあらすじ】
六本木が大規模な停電に見舞われて交通機関が止まるという事態を受け、蓮見怜は麻布十番にある自宅へ朝倉ユキを避難させることにした。ユキを部屋に入れると室内の簡単な説明のあと、怜は仕事に戻るための準備を始めた。



「それから、これを……パジャマ代わりに使ってください」

蓮見怜はそう言って、黒いTシャツを差し出した。

きれいに畳まれている。
無地でVネックの、何でもないTシャツだった。

「あと、タオルは洗面所にあります。新しいものを出しておきました」

「ありがとうございます」

受け取ってから、ユキはTシャツを見た。
折り目が妙にきっちりしている。

「……これ、新品ですか?」

怜は少しだけ目を瞬いた。

「はい」

「わざわざ?」

「買い置きがありますからね」

当然のように怜は答える。

「僕が着たものだと、嫌かもしれないと思って」

「あ……」

この人、そこまで考えるんだ。

ユキは慌てて首を振った。

「いえ。そんなことないです」

我ながら変な言い方だったように思うが、気にしない様子で怜は言った。

「サイズは大きいと思いますけど」


「バスルームは自由に使ってください。お湯も、今のところ出ます。ただ、非常電源なので、途中で設備が止まる可能性はあります」

「はい」

「冷蔵庫も辛うじて動いてます。水とジュース、トースト用のパンぐらいしかないですが」

怜はキッチンにある冷蔵庫の方を手で示した。

「冷凍庫にパスタのストックがあったと思います。停電が復旧したら、よかったら温めて食べてください」

「そんな、勝手に…」

「いいんです」

怜は即答した。

「僕はしばらく、戻れないかもしれないので」

その言葉だけが、少し重く聞こえた。

「……しばらく?」

「状況次第です」

表情を変えずに言ったあと、怜は続けた。

「キッチンカウンターにコーヒーメーカーがあります。粉も置いてあるのでご自由に」


必要な伝達をすべて終えると、怜は腕時計を見た。

さっきまで焼き鳥屋のカウンターで隣に座っていた人が、もう別の顔をしている。

仕事へ戻る男の顔だった。

「朝倉さん」

「はい」

「交通機関が元に戻るまで、ここから出ない方が無難だと思います」

ユキはこくんと頷いた。

「何かあったらロビーのコンシェルジュへ。内線は生きています。食料の調達も頼めると思うので、必要に応じて頼んでください」

「わかりました」

「もし外へ出るなら、朝になってから……今夜は出ない方がいいです」

ユキはまた頷く。

カチリと音を立て、怜はキャリーバッグのハンドルを伸ばした。

この部屋から、彼がいなくなることが現実になった。



「じゃあ、行きます」

「あの……」

ユキは思わず呼び止めた。

怜が振り返る。

呼び止めたものの、ユキは続きの言葉を持っていなかった。
こういう時、何と言えばいいのか。

「……気を付けてください」

「はい」

怜は少し笑った。

「朝倉さんも」

ユキが玄関まで見送ると、怜はドアの前でもう一度振り返った。

「鍵はオートロックです。合鍵はデスクの上に置いてあります」

「わかりました」

ユキが言うと、怜はドアを開けた。

「じゃあ……」

「はい」

ドアが静かに閉まった。
カチャリと小さく鍵のかかる音がした。


薄暗い部屋の中が、しんと静まり返った。

ユキはしばらく玄関に立ったまま、黒いドアを見ていた。

さっきまで、ここに怜がいた。
焼き鳥屋で語らい、麻布十番までの暗い道のりを一緒に歩いた。

そして、この部屋で二人きりになったと思ったら、今は自分ひとり。

ユキは手に持ったままだったTシャツを見た。

真新しい黒いTシャツ。
袋から出したばかりのような匂いがする。

清潔で親切で、ある意味で怜らしい。

「……新品なんだ」

誰もいない部屋で、声に出してしまった。

それから、自分で少し驚いた。

何が不満なのだろう。
新品の方がいいに決まっている。

よく知らない男の人が着た服なんて、普通は嫌だ。

怜だって、そう思ったから新品を渡してくれた。

それなのに、ほんの少しだけ。
本当に、ほんの少しだけ……。

ユキは、残念だと思った。

その理由を考えないことにして、Tシャツを抱え直した。





主な登場人物

蓮見 怜 / はすみ れい
国際的なAI監視・防衛組織であるORdの東京連絡局に所属する35歳のエリート連絡官。任務で朝倉ユキと接触するうちに異性として好意を抱いた。六本木でユキと食事中に突然の停電で闇に包まれ、彼女を麻布十番にある自宅へ避難させた。

朝倉 ユキ / あさくら ゆき
フリーランスで働く30歳のUXライター/AI会話デザイナー。恋人を亡くして心に傷を負っていたが、仕事がらみで知り合った蓮見怜の誠実さに心が傾いている。怜と食事中に大規模な停電に見舞われて交通機関が止まり、彼の部屋に避難することにした。


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