【創作ミステリー】スノードームの祈り⑨白峯あかり:陽だまりの人
創作ミステリーの続きです。事件に向けての大きな転機となる出来事が起こり、犯人の白峯と被害者の石黒の関係はここから変わっていきます。
どうぞお楽しみください。
前回→⑧南雲靖久:スノードームの夢 後編 〜聴取/白峯あかり〜
次回→⑩南雲靖久:追憶
白峯あかり:陽だまりの人
ピアノと石黒さんを手離せず、ずるずると日々を重ねていた頃。
図書館の仕事を続けていた私は、何が変わるわけでもないまま、惰性のように毎日を過ごしていた。
ピアノを弾けば、石黒さんは相変わらず褒めてくれた。
ピアノを弾く私を、彼は大切にしてくれた。
そこに嘘はなく、本気ばかりが込められているから、私は諦めようにも諦めることができなかった。
だけど——変わり映えのない関係に、私の想いはどんどんとすり減っていった。
いくら待っても、石黒さんが奥さんと別れて、私を見てくれる日なんて来ない。
そんな実感がじわじわと湧きはじめ、時間と共に心が熱を落としはじめていた、そんな時だった。
私が、晴真さんと出逢ったのは。
「すみません!閉館ちょっと待ってください!!」
ある日の夕方。閉館時間が来て館内を閉めようとしていたその時、ひとりの男の人が慌てて駆け込んできた。借りた本を3冊手に持ち、急いだ足取りで返却カウンターへとやってきた彼は、息を切らしながら私の前に本を置いた。
「これ、返却です!」
息を切らしながらも、丁寧に。その礼儀正しさに好感を抱きつつも、私はおずおずと口を開いた。
「あの……そんなに急がなくても、時間外返却ポストがあるので、そこに入れていただければ大丈夫ですよ?」
余計なことかと思いつつも案内すれば、彼は少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「あ、いや、返却もなんですけど、どうしても続きが借りたくて。この探偵シリーズ、一冊完結タイプだと思ってたら次の本に続くやつだったんですよ。気になるところで終わってて、どうしても先が読みたくて」
続きを借りられますか?と尋ねられて、私は検索用のパソコンで調べてみた。けれど、ちょうど彼の読みたいと言った本は貸出中だった。
「……すみません。貸出中みたいです」
「え!?そんな!!」
大げさなほどにショックを受け、太めの眉を大きく下げた彼は、心底悔しそうに肩を落とした。
「ええ……引っ張ってた死体の謎、わからないままなのか……ていうか、続くならなんで前編後編ってタイトルに書いておかないんだよ……」
本の内容を呟く彼が、あまりにもしょんぼりとしていて。そんな様子に思わず頬を緩めた私は、彼の助けをしたくなってパソコンのキーボードを打った。
「もしよかったら、貸出予約を受け付けましょうか?今借りてる方が返却されたらご連絡がいくように出来ますので、登録されていきますか?」
ハッと顔を上げた彼は、間髪入れずに「ぜひお願いします!」と声を上げた。申込書を差し出すと、背の高い彼は、低いカウンターに向けて腰を大きく曲げて。真剣に記載するその姿もどこか微笑ましくて、私は彼の下向く顔と手元を、じっと見つめてしまっていた。
「書けました。これでいいですか?」
突然上げられた顔が私を見る。思いっきりぶつかってしまった視線を慌てて逸らした私は、申込書を確認するふりで顔を隠した。
——ついじろじろ見てしまった。変に思われていないかな。
考えすぎだと思いつつも、盗み見るように目線を上げると、そこには穏やかに私を待つ彼がいた。
別に、なんてことないことなのに。私はなぜかあたたかいものを感じながら、パソコンに予約を登録していった。
『結城 晴真』
申込書には、少しクセのある丁寧な字で、彼の名前が書かれていた。
——晴の字が、なんだか似合うな。
彼の人柄と勝手に結びつけながら、私は打ち込みを終えた。
「……登録が終わりました。返却されましたら、ご連絡を差し上げますね」
「ご親切にありがとうございます。楽しみに待ってますね」
親切もなにも、ただの仕事なのに。当たり前のことなのに、それでも彼が笑ってくれたのが嬉しかった。
——だからだろうか。私の頬にも、自然と笑みが浮かんでいたのは。
「ご利用、ありがとうございます」
いつもよりも明るい口調で言えば、彼——晴真さんは、一瞬ぽかんとしたような顔になった。
——そして、すぐに満面の笑みになって。
「また、来ますね」
そう言って、晴真さんは足取り軽く帰っていった。
——その日をキッカケに、私たちは会話をするようになった。
次に彼が来たのは、予約をしていた本を借りに来た時だった。
まとめて3冊。「今度は完結してるのを確認しました!」なんておどけながら、彼は貸出カウンター越しに笑っていた。
「このシリーズ、ここで終わりなんですね。楽しく読んでたんだけどなぁ」
貸出手続きを待つ間、晴真さんはガッカリとしたようにひとりごちていた。話を持ちかけられているのかイマイチわからず、私は曖昧に微笑むばかりだったのだけど……同時に、ふとした疑問が頭をよぎった。
——この本の続きがないのなら、もう図書館に来ることはないのかな。
そう考えている自分に驚いた。いつもカウンター業務をしているけれど、来館する人がまた来るかどうかなんて、気にしたことがなかったから。
私は、なんだかソワソワしていた。黙っていられなくて、思わず本を差し出しながら、「もう読みたい本はないんですか?」なんて探るようなことを言ってしまった。
無意識に飛び出した言葉に、私は気まずくなった。でも彼は、途端にパッと顔を輝かせた。
「いえ、他の本も読んでみたいのでまた来ます!読書するのにハマってるので、これを機にいろんな作品探してみたいなって思って……だから、また来ます!」
勢いよく答え返した彼に、私はぽかんとしてしまって。
——少し遅れて、笑い声がこぼれた。
「……ふふっ。また来ますって、2回も言ってますよ?」
笑ったまま指摘すれば、晴真さんは「あ」と小さく声を上げて慌てふためいた。
恥ずかしそうにあわあわする彼は、どこか幼い少年のように純粋で。そんな決まりきらない自然体の様子が、私にはとても愛らしく思えた。
——そう。この時はまだ気づいていなかったけれど、私はすでに、彼に惹かれ始めていたのだ。
熱を失い、冷えかけた心が、陽だまりにぬくもるように。
晴真さんの存在は、私に心地良さと安らぎをもたらしてくれた。
——彼は、私にとって、すぐに特別な存在になった。
図書館に彼がいないか探してしまう。
本の整理をしながら、「どんな本が好きなのかな」と考えてしまう。
ただの図書館勤務員と来館者という関係は遠く、知人としかいえないような関係だったけれど、それでも晴真さんは来るたびに私を見つけてくれた。
「また借りに来ました」なんて言いながら、気さくに笑いかけてくれた。
それだけで、十分幸せだったのに——
「あの、白峯さん。もしよかったらなんですけど、今度お休みの日にでも……お茶とか、どうですか?」
ある時そう誘われて、私は都合の良い夢でも見ているのかと思った。
でも、瞬きも忘れて見つめた彼の顔は、とても真剣で。
赤くなって固まった頬と、強く直向きな瞳に感じたのは——彼の誠実さ。
それを受けとめた時、私は自然と笑顔で頷いていた。
「……はい。喜んで」と。
——それから、晴真さんとは、度々プライベートで会うようになった。
仕事終わりやたまに合う休みの日にご飯やお茶をしたり、散歩をしたりと、私たちは会うたびに穏やかな時間を過ごした。
彼は、私がピアノを弾いていることを知らなかった。
私は大学での挫折を含め、昔から弾いていたことを明かし、今もピアノを続けていると彼に伝えた。演奏動画を見せたら、「すごいね」なんて感心していたけれど、ピアノを弾く私を特別に扱うことはなかった。
——ピアノを弾く私を、私の一面として受け入れてくれる。そんな彼の心の広さに、私はなぜか、救われるような気持ちを覚えた。
——彼との会話は、他愛のない話で溢れていた。
読んだミステリーがとんでもトリックだった話。
コンビニの新発売のドーナツの話。
仕事で失敗した話。
表情豊かに語る晴真さんの話には、飾らない「彼」がたくさん詰まっていて、私は会話を交わすたびに彼のことが好きになっていった。
でもそれは、人として。
私が好きなのは今も石黒さんただひとりで、晴真さんは良い人だなって思っているだけ。
——そう、思っていたのに。
「白峯さん。好きです。俺と付き合ってもらえませんか」
告白された瞬間、何もかもがひっくり返った。
——曇りのない秋の夜空に、きらきらと星の光が瞬く日だった。
公園でも散歩しませんかと誘ってきた彼は無口になって、私たちは長い時間黙ったまま歩き続けた。
どうしたんだろうって思いながらも、そんな時間さえ嫌じゃなくて。私は空を見上げて歩きながら、初めて弾いた「きらきら星」を思い出していた。
小さな音の記憶が、不意に胸の奥で揺れた。
——告白は、その次の瞬間のことだった。
その時の私はまさか好きになられるなんて思っていなくて、晴真さんにとって私は友人なのだと思い込んでいた。
でも、違った。好きという素直な言葉が、知人ではなく、友人でもなく、もっと特別な想いなのだと告げてきた。
それは、間違いなく——恋という名前で。
喜びに震えると同時に——石黒さんの顔がよぎった。
私は、彼に応えられなかった。
たしかに嬉しいと感じていたのに、頭の中をぐるぐると回るのは石黒さんとの思い出ばかりで、晴真さんへの返事は形にならなかった。
心が、ふたつに割かれたような気がして。
分かたれた想いをとっさに選ぶこともできず、私は苦しみに穿たれながら、掠れた声で答えた。
「……ごめんなさい。ずっと、忘れられない人がいるの」
——その時初めて、晴真さんに石黒さんのことを伝えた。
楽器屋で出会ってから、ずっと好きだったこと。
けれど想いを伝えられないまま、彼は結婚してしまったこと。
それでも諦めきれず、今も一緒にいること——
溢れ出る涙を流しながらも、私は精一杯の誠意を伝えたくて、必死に晴真さんへと向き合った。
彼は少しだけ辛そうな顔をしていて——でも、それでも私の言葉の続きを待っていてくれた。
「結城さんは本当に優しくて、良い人で、一緒にいると、私まで楽しくなれて……だから、好きだって言ってもらえて、すごく嬉しいんです。でも……今の私は、結城さんだけを想うことができないから……」
「付き合えません」と——最後の一言は、いつまでも出てこなかった。
突き放すにはもう、彼の存在は大切すぎて。
往生際悪くしがみついてしまう自分が、ひどく卑しい人間に思えて仕方がなかった。
晴真さんは、泣きじゃくる私を静かに見つめていた。
そして——彼は、すべてを受け入れた。
「……俺、待っててもいいかな」
揺るぎのない、穏やかな声で。
「……白峯さんが、その石黒さんって人を諦められる時が来て……俺を、選んでもいいなって思ってくれる日が来るまで。それまで白峯さんのそばで待たせてもらっても……いいかな」
ただ寄り添うように、私のそばにいたいと言ってくれた。
——風が止まり、夜の静寂がさざめいた。
晴真さんの言葉が、そっと夜空に響き渡る。
星がひとつ、瞬くように。
——まるで、新しい『初めての音』のように。
私の涙はさらに溢れた。
でもそれは嬉しさからくるもので、驚くほど優しく、なによりあたたかかった。
割かれて出来た心の傷に、絆創膏を貼るように。晴真さんは、私を癒そうと手を伸ばしてくれる。
そんな晴真さんは誤解をしたのか、さらに泣き出す私を見て、慌てたようにわたわたとし始めて……
「ごめん、もしかして困ってる!?しつこいヤツだとか思われてるかな……!」
……なんて焦りながら、心配する彼の的外れさがやっぱり面白くて。私は涙を流しながらも、いつの間にか笑顔に変わっていった。
「違うの、そうじゃなくて……そこまで言ってもらえるなんて思ってなかったから。……すごく、嬉しいなって思って……」
格好のつかない、鼻詰まりした涙声。
どろどろに流れたマスカラとチーク。
そんなみっともない姿を恥ずかしいと思うことも忘れ、崩れた化粧をありのままに見せながら、私は彼にぐしゃぐしゃの顔で微笑んだ。
晴真さんは良かったって安心しながらも、どこか照れていて。
そんな彼が可愛いと思えて、私は涙に濡れた瞳を細めていた。
——私は、晴真さんとちゃんと向き合いたいと思った。
彼と一緒に、どんな日も歩いて行きたいと思った。
けれどそんな時——コンサートをすることが決まって。
ふたりの夢が叶う日が来たと、石黒さんは大喜びで私に報告をしてきた。
なのに私は——コンサートをする嬉しさよりも、増える練習時間や準備のせいで、晴真さんと会えなくなることばかり気にしていた。
もう、自分を誤魔化すことはできなかった。
だから私は、心を決めた。
私は、ピアノをやめる。
石黒さんとの活動と、彼への想いを、コンクールを最後に終わらせて——
そして、晴真さんにちゃんと「好きです」と伝える。
それは、誰かのために音を鳴らす人生をやめるということだった。
私のピアノは、いつの間にか石黒さんのものになっていた。
だからそれを手離せば、私は私になれるのだと思った。
その決意は、私を変えた。
私と、私の音を、大きく変えてしまった。
だけどそれが、石黒さんを殺すキッカケになるなんて——この時の私は、思いもしていなかった。
