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【創作ミステリー】スノードームの祈り⑧南雲靖久:スノードームの夢 後半 〜聴取/白峯あかり〜

創作ミステリーの続きです。ついに犯人である白峯と刑事の南雲が顔を合わせます。彼女の証言を南雲と夏目がどう捉えるのか。楽しんでもらえたら嬉しいです。

前回→⑧南雲靖久:スノードームの夢 後編 〜聴取/幕間〜
次回→⑨白峯あかり:陽だまりの人


南雲靖久:スノードームの夢 後編
〜聴取/白峯あかり〜

 広がる雪景色に見入っていると、ふいに目の前に人影が現れた。
 雪を踏みしめ、空を見上げたライトグレーのコートの人物。肩下まで伸びたストレートの黒髪と、小柄で弱々しそうな背中。

 儚く雪に紛れるのは——白峯あかりだ。

 何を思ってそこに立っているのかはわからない。だが極寒の外気の中、ただひとり静かに立ち尽くす姿は、深い哀悼に沈み、祈りを捧げているようだった。
 その姿を見た瞬間、俺は「行くぞ」と夏目に声をかけた。ホール近くのサブエントランスを通り、外庭へ急ぐ。
 厚いガラス扉を抜けた先は容赦のない冬の世界だ。肌を刺すような冷気を感じながらも、俺たちは白峯の元へと行く。
 そうしてやって来た俺たちの気配に、白峯はすぐに気がついた。ゆっくりとこちらへ顔を向け、俺と夏目の顔や格好を見るなり、小さな赤い唇を開いた。

「……もしかして、刑事さんですか?」

 細く、澄んだ声がして。こちらから名乗るより前に白峯は身を向けたかと思うと、深々とお辞儀をしてみせた。俺たちもまた頭を下げ返すと、警察手帳を提示する。
「白峯あかりさんですね。私は北海道警察・捜査一課の南雲と申します」
「同じく夏目です。亡くなられた石黒智哉さんについて、少しお話を聞かせていただけますでしょうか」
 石黒の名に一瞬顔を暗くして、白峯は「はい」と小さく答えた。前に揃えて掴んだ両手には、クリーム色の手袋がはめられている。

 そしてその手首についてるのは——白いボアだ。

「ゲネプロ前のお忙しい時間にすみません。今は休憩中ですか?」
「……はい。私はもう、あとは弾くだけなので。特に忙しくはないので……聞きたいことがあれば、お気になさらず聞いてください」
 寛容な態度で話す白峯は、想像よりも落ち着いていた。もっとショックや動揺を受けているものかと思っていたが……思いのほか気丈だ。
 だが、堪えていないわけではない。目はひどく赤く、瞼は腫れている。おそらく、かなり泣いたのだろう。化粧で整えてはいるが、隠し切れてはいない。
「ご協力感謝します。……まずは、この度はご愁傷様でした。パートナーとして、ここまで苦楽を共にしてきた方を突然亡くされた心境はお察しします」
 寄り添う姿勢を見せれば、涙腺が刺激されたのか、白峯がグッと眉を歪ませ俯いた。両手の指がわずかに震え、しばらくの沈黙が続く。そうして彼女は小さく頷きながら、握った自分の手と手に力を込めた。
 ——湧き上がる感情を、押し込めるように。
「ゲネプロ前のこんな時に辛いことを蒸し返すようで大変心苦しいですが、お伺いします。昨晩は何時ごろ就寝されましたか?」
「……3時過ぎです」
「随分遅くまで起きていたんですね?」
「……緊張で、寝付けなくて。気持ちを落ち着けたくて、2時すぎにコンサートホールに行きました。しばらくホールを見たり、ピアノの前に座ったりして……それで部屋に戻ってベッドに入ったのが、3時近くだったと思います」
 ……牛田から聞いたカメラの情報と、時系列が一致してるな。だがもし中庭に出たのが白峯なら、このコンサートホールにいた時間が石黒を掘り返して埋め直していた時間になる。
 注意深く表情をじっと見つめてみる。伏せ気味の瞳は動くこともなく、ただ悲しさと重苦しさを秘めている。
 ——白峯の声に、揺れはなかった。
 嘘をついている人間特有の震えも、戸惑いも、焦りも——なにもない。
 ただ、それがあまりにも『整いすぎている』気がした。

 言葉も、表情も、呼吸すらも。
 白峯の静けさは、あまりにも美しく張り詰めていて——かえって、不自然に見える。

 ——それはまるで、なにか大きな、『覚悟』のようだ。

 俺は目を細めると、深く追求することをやめた。「そうなんですね」とだけ相槌を打って、今はそっとしておくことにした。

 ——いずれ、彼女の中の『覚悟』が、勝手に口を開く時が来る。そんな確信を抱き、俺は聴取を続けることにする。

「……では、石黒さんと最後にお会いした時のことを教えてください。どこでお会いしましたか?あと、別れた時間を教えてください」
「ふたりで7階のバーに行ったのが……確か、0時半くらいだったと思います。それから1時間しないくらいで出て……その後は、石黒さんのお部屋に少しお伺いしました」
「部屋にはどれくらい滞在しましたか?あと、どんなお話をされましたか?」
「…………30分も、居なかったと思います。コンサートの流れを最終確認して……その後、部屋に戻りました」
「では今朝は何時に起きて、どんなご予定で行動されていましたか?」

 ——続く質問にも大きく詰まることはなく、白峯は素直に答えていく。2日前にホテルについてから、今日に至るまで。時折思い返しながらも、コンサートの準備のために過ごしていたことを口にする。

「……なるほど。ありがとうございます」
 一度話を区切ると、今度は夏目が一歩前に出た。まだ聞かなければいけないことがいくつもある。それが抑えられないのか、夏目は端末片手に白峯を視線で射る。
「次は、石黒智哉さんとのご関係について伺います。石黒さんとはいつ頃、どのようにして出会いましたか?」
 やや詰問するような口調に、白峯が視線を更に重くした。俺は夏目をこっそりと小突くと、ハッとした夏目が言葉を和らげる。
「大まかな形で構いません。出会った時の印象や、その後一緒に過ごして印象に変化があったかなど、何かあれば聞かせてください」
 言い加えれば、白峯はブーツの足先に落としていた目線を少しだけ浮上させた。
 チラリと俺たちの方を見たかと思うと、どこか遠い目をして。白峯は、遠い思い出に浸るようにゆっくりと瞬きをする。
「……石黒さんとは、一昨年の春、楽器屋で出会いました。そのお店は私が働いている図書館の館長のお知り合いのお店で、私はその日、館長に頼まれたこども演奏会のピアノ演奏の練習のために、楽器屋にある試奏用のピアノを借りに行ったんです」
 白峯は語る。久しぶりに弾いたピアノのこと。そこに駆け込んできた石黒のことを。
「……私のピアノが気になったって、もっと聴きたいって言ってくれて……最初はどうしてそんなに?って戸惑ったんですけど、すごく熱心に感想を告げられて……本当に、私のピアノを好きだと思ってくれてるんだなと思いました」
 一目惚れならぬ、一耳惚れってやつだろうか。そのエピソードに、石黒について見聞きした白峯への印象が繋がる。

 ——石黒が尽くしていたのは、やはり、白峯の音に心底惚れていたからなのだろう。

「彼は積極的で、明るくて、物怖じしない人でした。あと、押しが強いところもあって……私のピアノはもっと広まるべきだって、熱く語られました。私は大学時代に挫折をして、ピアニストになる夢は諦めていたんですが……石黒さんの熱意と励ましに少し、動かされてしまって。夏が来る頃には、ピアノの演奏動画をネットに上げるようになりました」
 そうしてネット発のピアニストとしての活動が始まったが——順風満帆ではなかったと言う。
「石黒さんは自信があったようなんですが、思っていたよりも伸びが悪かったみたいで。だんだん不満そうになっていって……再生数を見るたびに、『わかってないヤツらばっかりだ』って、よく嘆いてました」
 言い終えたあと、白峯はわずかに唇を引き結んだ。口ぶりは穏やかだったが、どこか苦いものが含まれている。そう感じたのは、ほんのわずかに蠢いた眉のせいかもしれない。
「白峯さんは、その時どう感じていたんですか?」
 そう問うと、彼女は一瞬だけ視線を逸らした。
 そして、弱々しく口角を持ち上げる。
「……やっぱこんなもんだよなって、思ってました。ネットには私より上手な人がたくさんいるし、私には自信も華もないから。でも……」
 指先が動く。コートの胸元にそっと沈んだふたつの手は、まるで祈るような、感謝を捧げるような、そんな敬虔な仕草だった。
「それでも私は、少しずつ再生数が伸びたり……評価やコメントがついたりするのは、嬉しかったんです」
 そう語る横顔はどこか、胸の奥を押さえつけるような切なさを帯びていた。
 ネットに上げられていた動画は、確かに流行っているとは言い難かった。しかし白峯が言うように、少なからず反応があったのも確かだ。

 石黒はここに不満を感じ、白峯は満足感を得ていた。

 この価値観のすれ違いは、小さくも大きなものなのではないか——俺は、そう直感する。

「活動を始める前に、彼がいつかコンサートをやろうって言ったんです。コンサートホールで、大勢の人の前で演奏する私の姿が見たいって。……それは、昔の私の夢でもあって。だから、細々とではありますけど、活動はずっと続けていました」
「そうしたら……夢が叶う日が来た、と」
 噛み締めるように、白峯が小さく頷く。
 背後を振り向き、実現した夢の在処を見上げる瞳には、あたたかい光と美しい輝きを湛えるホテルが映る。
「……まさか、こんな立派なホテルでコンサートが決まるなんて思っていませんでした。しばらくは冗談だと思っていたくらいです。嬉しいというより、現実味がなくて……」
 薄く浮かんだ微笑みは、どこか自虐的だった。夢が実現した喜びよりも戸惑いばかりが大きいのか、白峯はホテルから瞳を背ける。
「……コンサートをすることになって、石黒さんはすごく喜んでました。絶対いいコンサートにしようって張り切っていて——その日から、ふたりで開催に向けていろいろと考えてきました」
「……なるほど。たしかに、あちこちで石黒さんが尽力していたと聞きましたよ。でもそれだけ準備に力を入れてたなら、苦労もあったのでは?」
 問えば、白峯が小さく首を横に振る。
「『全部オレに任せておけばいい』と、石黒さんが言いまして……私はせいぜいセットリストの案を出したり、パンフレット用に短い文章を書いたくらいです。会場のイメージ作り、設営手配、物販品のアイデアや発注、衣装の用意まで、全て彼が手配してくれました。グッズはオリジナルのポストカードとか、スノードームのオルゴールとか、彼がすでにデザイン案を用意していて。衣装も私のイメージに合うようにって、何着もドレスを試着させられました。……細かいところまでこだわっていて、正直、少し圧倒されるくらいでした」
「……では、コンサート運営に関わる費用なども全部、石黒さんが管理していたと?」
「はい。……お金のことは、すごく心配だったんですけど……どうしても関わらせてくれなくて。心配しなくていいって、いつも笑いながら誤魔化していました」
 石黒は、白峯を金のことから遠ざけていた。
 白峯の言葉を鵜呑みにするなら、金がいくら使われていたのかも、どこから捻出されていたのかも、彼女は何も知らないというわけか。
「立ち入ったことを聞きますが、石黒さんの経済状況はどうだったんですか?失礼ながら……白峯さんの活動では大きな収益を見込めなかったと思うんですが、費用は一体どこから出ていたんですか?」
「……たぶん……全て、石黒さんの自腹でした。活動で得た売り上げなんかもあったと思うんですが、あっても微々たるものだったと思います。……この活動費についても、私は関わらせてもらえなくて。お恥ずかしい話なんですが、お金のことについては一切詳しいことがわからないんです。ただ——」
「ただ?」
 惑う言葉の隙に、夏目が一歩身を乗り出した。しかし白峯は怯むこともなく、夏目をまっすぐに見返した。
「どこからそんなお金がと、ずっと不安で。なので、私にも出させて欲しいと強く言ったことがあるんです。そうしたらぽつりと、『昔亡くなった親族の遺産がある』と……」
「遺産?では、石黒さんは金銭に余裕があると答えたんですね?」
「……はい。遺産があってお金に余裕があるから、心配しなくていいと言っていました。誰から、どのくらいの額をとまでは聞いていないんですけど、その一言で済まされてしまって。……あまりお金のことを話題にしてほしくない感じだったし、そのときの言い方が、妙に強かったというか……なので、それ以降は私も触れられず、全て彼に任せてしまっていました」
 ——遺産ときたか。
 俺は石黒の詐欺事件を脳裏に浮かべながら、真偽を確かめようと白峯の表情を注意深く見つめる。
 ……隠し事をしている雰囲気はない。後ろめたさはあるが、それは詐欺についてではなく、純粋な石黒への申し訳なさに見える。
 実際に調べてみないと何とも言えないが、触れてほしくなさそうだったという態度を考えても、おそらく遺産は嘘で、詐欺のことを隠していたのだろう。
 そうすると、白峯は詐欺には無関係だったということになる。彼女の話を聞いた印象から受ける良心さ、受動的な立場と考えからしても、詐欺という犯罪行為に加担するタイプには思えない。

 ——詐欺は、石黒がひとりで企てていた。おそらく動機は……白峯あかりのため。

 そこまで仮説を立てると、石黒の死亡が事故ではなく、起きるべくして起きた事件のように感じられた。
 動機はまだわからない……が、石黒の白峯への想いは真っ直ぐでありながらも、どこか支配的な執着の気配がする。

 羨望か、愛情か、それとも信仰か——

 いずれにしてもそれは、事件の引き金になりうるほどの捻れた熱量に思えた。


 白峯の吐いた息が、白いもやとなって空に浮かんだ。一段と冷え込んできた空気に、彼女は身をさすり始める。
 ……正直、俺も寒い。出来るなら、ホテルの中で話したい。
「こんなところで長話してすみません。雪も降ってるし、中に入りましょうか?」
「……いえ、平気です。まだ聞くことがあれば、遠慮せず仰ってください」
 気さくに誘導してみたが失敗してしまった。当てが外れ、仕方なくかじかんだ手をポケットの中でさすると、夏目は俺の意図を察したのかどこか呆れた視線を突き刺してきた。
 わかってるさ。今は重要なことを聞いてる時だってな。
「それでは、もう少しだけ伺います。石黒さんの最近の様子で変わったことはありませんでしたか?」
 声の調子を変え、世間話のように切り出した時だった。ふと白峯の表情が曇り、突然重たい影が差し始めた。その様子はあからさまで、俺と夏目は瞬時に目配せをする。

 ——何かある。その予感に、間違いはなかった。

「……石黒さんは……コンサートが決まった後くらいから、少し、その……干渉が多くなって。コンサートに向けて練習を増やさなきゃいけなかったんですけど、ある時、『なんか音が変わったね』って言い出して……自分ではわからなかったんですけど、石黒さんはそう感じてたようなんです。それで、『最近何かあった?』とか、よく詮索するようになってきて……ある時は、私の職場にまでやってきたこともありました」

 変わったのは、石黒の『想い』の質だった。
 純粋な優しさの中に、少しずつ濁りが滲み始めた——そんな印象を、彼女は怯えるように、弱々しく語る。

「それまでは、私の演奏は最高だとか、世界で一番のピアノだとか、いつも笑顔で褒めてくれてたんです。でも最近になって、それが急にぴたりとなくなって。代わりに、『俺の言う通りにしておけば大丈夫』とか、『あかりはピアノのことだけ考えていればいい』って……なんというか、ちょっと、怖いくらいで……」
「……人が変わったようだ、と?」
 形容に迷いながらも、白峯はぎこちなく頷く。
「少しだけ、そんなふうに思いました。……以前はどんな時も笑顔で、冗談も言ってくれたのに……最近はなんだか、目の奥が笑っていないような、どこか必死なような……そんな感じがして」
 過剰な詮索に、支配的な言葉。
 もしそれが石黒の本性だったとすれば——それは情ではなく、ほとんど信仰に近い執着だったのかもしれない。

 白峯が何かをこらえるように俯く。すると、厚い前髪が彼女の瞳を覆い隠した。
 心の内を、ひた隠すように。彼女は胸元を強く握りしめる。

 その仕草に初めて——彼女の『揺れ』が見えた気がした。

 言葉を継ごうとするたび、声が微かに震えている。
 思い出そうとするたび、彼女の中で『何か』が軋むのがわかる。

 ——彼女が何を抱えているのかは、まだわからない。
 だが、それは彼女にとって、触れられることすら怖い痛みなのだろう。

「……石黒さんが変わったキッカケに、心当たりは?」
 夏目が、彼女の領域にさらに踏み込む。しかし白峯は、俯いたまま緩く首を横に振るだけだった。
 語ることがないのか、語りたくないのか。
 ……それとも、語ってしまえば、彼女自身が壊れてしまうのか。
 どちらにせよ、沈黙を貫こうとする姿勢に夏目は言葉を引っ込め、次の質問を投げかけた。
「では、『音が変わった』と言われたことについては?」
 白峯が、小さな唇を噛み締める。深く考えこむように、言葉を選ぶように。たっぷりと時間をかけ、彼女は答える。
「……わかりません。ただ——コンサートに向けて、私の心境が少し変わったのは確かです。それまでは動画を撮るばかりで、誰かの前で弾いていたわけじゃなかったから……聴きに来てくれる人への意識みたいなものを、自分なりに考えるようになりました」
 そこまで言って、彼女の唇が音を失った。

 ——『それに、私は』。

 続きを小さく言いかけて、留まって。
 その断絶に、俺は大きな引っかかりを覚える。
 ——だが、俺は深追いをしなかった。追えば彼女はきっと、心を閉ざしてしまう。繊細な硝子のような心は、ひび割れてしまうかもしれない。

 そう思えるほどに、今の白峯の表情は脆かった。

「……いろいろ聞かせていただいて、ありがとうございました」

 大方のことを聞き終え、俺たちの引き際はやってきた。
 白峯の顔は血の気を失い、今や雪よりも白く見える。これ以上問い詰めて、倒れられでもしたら大変だ。それに、もうすぐゲネプロも始まる。これ以上引き止められる時間はないだろう。
「話はこれで終わりです。また後で聞かせてもらうことがあるかもしれませんが、その時はよろしくお願いします」
 俺と夏目は間を空け、白峯に道を譲る。白峯は深くお辞儀をすると、最後に俺と夏目をしっかりと見つめた。
 俺はその瞳を、まっすぐに受け止める。
「この後ゲネプロなんですよね。よかったら、聴かせてもらっていいですかね?」
 俺の申し出に、白峯が小さく目を丸くした。予想外だったのか、「え?」と驚く声が白く煙る。
「こんな仕事してると、ゆっくりピアノ演奏なんて聴く機会もないんで。たまには音楽に触れて、高尚な気分に浸ってみようかと思ったんですが……いいですかね?」
 ことさら明るい声と、気兼ねのない笑みで了承を伺えば、白峯の固まった頬は解けるように崩れていった。
 雪解けを迎えたかのような表情に、俺はなぜか安堵を覚える。
「……はい。私の演奏でよければ、どうか聴いていってください」
 晴れ間が差すように、曇りきっていた顔にようやく笑みが戻る。控えめながらも嬉しそうに声を弾ませ、白峯は歩みを進める。

 その背に——俺は、最後の問いを投げかける。

「白峯さん。最後にひとつだけ、聞き忘れたことがありました」

 足を止めて、白峯が振り返る。
 警戒心の薄れた彼女は、どこか幼く首を傾げる。

 一呼吸おいて。
 俺は、まだ謎に包まれている『あの名前』を口にする。

「『結城晴真』という名前に、心当たりはありますか?」

 その名前を出した瞬間——白峯の瞳が、大きく見開かれた。
 驚愕に張り詰め、唇がわなわなと震え出す。

「………………どうして、晴真さんの名前が、出てくるんですか…………?」

 白峯が明らかに動揺する。
 ただならぬ様子を察知し、俺は内心焦りながら、取り繕うように言葉を濁す。

「石黒さんとの交友関係を調べる中で出てきたお名前なんです。白峯さんがもし知っていればと思ったんですが……その様子だと、ご存知のようですね?」
 ここにきて白峯の瞳が、あたふたと彷徨いだした。それはなにより大きな感情のうねりだ。おそらく自分でも御しきれない、持て余すほどのもの。
「結城、晴真さんは…………私の勤める図書館に、よくいらっしゃる方です。貸出の時に少しお話しする機会があって……それからは、友人のようなお付き合いをさせてもらってます」
「……友人、ですか?」
「……はい。まだ、友人……というか、それ以上のことは、私からは……」
 明言などしなくても、その曖昧さと頬が染まる様子だけで関係は一目瞭然だった。

 ——白峯あかりと結城晴真は、惹かれあっている。

「では、石黒さんと結城さんはお知り合いだったわけですね」
「……はい。私の職場に石黒さんがやってきた日に、偶然鉢合わせまして……」


 その話を聞いて——全てが、ひとつに繋がった気がした。

 石黒の白峯への想い。
 詐欺の首謀。
 態度の変化と、結城の存在。

 そして——『結城に送ろうとしていた、手作りのスノードーム』。

「……なるほど。白峯さんのご友人だったんですね。いやぁ、おかげで謎が解けました。ご協力感謝します」
 事もなげに納めれば、白峯はふっと肩の力を抜く。そしてもう一度お辞儀をして、俺たちに背を向ける。

 髪に、肩に、彼女のすべてに。
 薄く積もった雪が、彼女の歩みひとつではらはらと舞う。


「……刑事さん」

 ふと足を止め、白峯が俺たちに呼びかけた。俺と夏目もまた足を止め、白峯との距離を図る。

 一際凍える風が——俺たちの間をすり抜ける。

「……コンサートが終わったら、お話があります。……聴いて欲しいことがあるんです。私と……石黒さんのことについて」

 白峯は振り返らない。決して表情を見せないまま、それでも華奢な背は前を向く。

「本当は、今お伝えできればよかったんですが……いま言ってしまったら、コンサートの前に、ピアノが弾けなくなってしまいそうで。だから、すべてが終わったら……ちゃんと全部、話させてください」

 言い切ると、ゆっくりと白峯が振り向いた。

 そこにあったのは、儚くも、決意に満ちた笑顔で——

 罪の告白よりも、雄弁だった。



 彼女は、笑顔を残して去った。
 何かを隠して——いや、隠すことを止める覚悟で。


 舞い降りる雪の中、彼女は進んでいく。

 その背に、どれだけのものを背負っているのか——それらはすべて、彼女がピアノを弾き終えた時につまびらかになるのだろう。


 俺は痛むほどの寒さも忘れて、その姿を見送っていた。


 ——あの時の背中を、俺はきっと、忘れることはないのだろう。

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