11月3日 レコードの日『世界に一枚のレコード』(文字数:1621字)
三ヶ月前の雨の日、野良猫だった僕を万里子さんは拾ってくれた。
「ジャズ、今日は私の五十五回目の誕生日なのよ」
万里子さんはそっと呟きがら、一枚のレコードを取り出した。
その白いジャケットにタイトルはなかった。
「このレコードはとても大切でね……世界に一枚しか無いのよ。だから誕生日の日だけ聴くことにしているの」
万里子さんの声が優しく響いた。
「お父さんが私のために作ってくれた曲なの」
万里子さんがレコードに針を落とすと、静かなピアノの音色が、部屋に広がった。
その瞬間――僕の中に、何かが流れ込んできた!
温かくて、切なくて、優しい何か……気がつくと、僕の口は勝手に動いていた。
「万里子……」
彼女は驚いて、僕を見つめた。その声は僕自身のものではなく、もっと低く、優しい男性の声だった。
「お父さん……?」
僕は――いや、僕の中に憑依した彼は、静かに頷いた。
「ああ、万里子。ずっと会いたかったよ」
一九七〇年、十一月三日。ニューヨークのスタジオで、マイク・タカハシは一人、ピアノに向かっていた。
その日はリサイタルの休演日だった。日本から国際電話が入ったのは、その日の夜明け前だった。
『あなた、女の子ですよ。元気な女の子です』
妻の声は弱々しかったが、喜びに満ちていた。
「ありがとう。本当に、ありがとう。名は「万里子」にしよう!」
受話器を置いたマイクは、感動で涙が止まらなかった。
単身でニューヨークに来て半年が経っていた。プロとして成功するために、身重の妻を日本に残してきた罪悪感と後悔があった。それでも、彼には音楽しかなかった。
「娘に、僕の気持ちを伝えたい」
マイクはスタジオに駆け込んだ。そして一日で、曲を作り上げた。メロディーには妻への感謝をのせ、和音には娘への愛を込め、リズムにはいつか一緒に歩きたいという願いを刻んだ。
「これを録音して日本に送ろう。娘が大きくなったら、きっと喜んでくれるだろう」
録音を終えたマイクは、レコードを抱きしめた。
「愛している、万里子。未だ見ぬ娘よ、こんなに愛しいとは……」
スタジオを出たマイクは郵便局に向かい、妻へレコードを送ったその帰り道だった。交差点にトラックが突っ込んできた。
マイクが最期の想いを馳せ、呟いた言葉を、僕の中の彼が静かに伝えた。
「万里子、私は一度も君に会うことができなかった。抱きしめることも、笑いかけることもできなかった」
万里子さんの頬を涙が伝っていた。
「でも、このレコードに僕の気持ちを全て入れたんだ。君への愛も、謝罪も、祈りも」
ピアノの音色が優しく響いた。
「主旋律はね、君の笑い声をイメージしたんだよ。まだ聞いたことないのにね」
万里子さんが小さく微笑んだ。
「左手の低音は、君を守りたいという想いさ。右手の高音は、君の未来を祝福する音色さ」
僕の中の彼は、万里子さんに寄り添い、話し続けた。
「そして、この転調は……いつか君が恋をして、家族を持ち、幸せになる姿を夢見て作ったんだ」
「お父さん……」
「万里子、君は幸せかい?」
万里子さんが頷いた。
「ええ。素敵な夫に出会って、子供も生まれました。今はこの子……ジャズと暮らしてるわ」
僕の中の彼が、温かく笑った。
「そうか……よかった。幸せならよかった」
音楽はクライマックスに差し掛かった。
「万里子、最後に伝えたいことがある……」
「何?」
「私は、君の父親になれて本当に幸せだった。たった一日でも、君の父親でいられたことが、私の人生最大の誇りだ」
ピアノの最後の一音が、静かに消えていくと同時に、僕の中から彼の存在が薄れていった。
「お父さん! 行かないで」
「大丈夫。私はいつもこのレコードの中にいるよ。君が聴きたくなったら、いつでもね」
そして、彼は囁いた。
「愛しているよ、万里子。生まれてきてくれて、ありがとう」
万里子さんは泣きながら、僕を抱きしめた。
「ありがとう、ジャズ。お父さんを、届けてくれて」
レコードは回り続け、針が溝をなぞるたびに、永遠に刻まれた愛の記録が時を超えて響いていた。
11月3日「レコードの日」
アナログレコードの普及を目的とした国内最大級のイベントです。日本レコード協会が1957年に「レコードは文化財」という考えから、文化の日である11月3日を記念日として制定しました。近年では東洋化成株式会社が主催し、毎年様々な企画を展開しています。
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