10月30日 初恋の日『伝えられなかった初恋』(文字数:1306字)
僕が初恋について思い出したのは、彼女のお葬式の日だった。
「故人は生前、猫を大変可愛がっておりまして……」
喪主である彼女の夫の声が遠くから聞こえた。僕は棺の脇で、じっと彼女の顔を見つめていた。
――覚えてるかい、さくらさん。僕らが出会ったのは、君が十歳の時だった。
「わあ~可愛い子猫だ!」
段ボールに捨てられていた僕を、君が拾ってくれたんだ。あれが僕の、最初で最後の恋だった。
「ねえ、ジジちゃん。今日ね、素敵な人と出会ったのよ! きっとこれが初恋ね」
十三歳の君が、僕を抱きしめて囁いたとき、僕は「初恋」という言葉を初めて知ったんだ。
「隣のクラスの秋斗くん。かっこいいの。ジジちゃんにも似てるかも」
似てない……断じて似てない。あんな鼻たれ小僧と一緒にするな。
でも、君はとても幸せそうで、僕は君の膝の上で、嬉しくて喉を鳴らしたんだ。
「ジジちゃんだけは、ずっと一緒だよね」
ああ、もちろんだよ。
君が二十歳で秋斗と別れた時、僕は十歳だった。君は一晩中泣いて、僕の毛を濡らしたよね。
「初恋って、叶わないものなのかな……」
違うよ、さくらさん。君の初恋は叶わなかったけれど、僕の初恋は十年間、毎日叶い続けているよ。
君は三十で結婚したよね。相手は優しい男だった。
「ジジちゃん、幸せになるね」
僕が新郎の足に爪を立てると、君は笑って、僕を抱き上げた。
「やきもちかな? 大丈夫、ジジちゃんは特別だから」
そう、僕は特別なんだ。君の旦那より、ずっと長く君を知っているんだ。
でも僕の体は年老いて、徐々に動きは鈍くなっていった。
「ジジちゃん、病院行こうね」
二十二歳の春。僕はあとわずかしか生きられないと宣告された。猫としては、十分長生きさせてもらったよ。
ところが――
「さくらさん、検査結果が……」
君が倒れたんだ……癌だった。
僕より先に、君が逝くことになるなんて。
「ごめんね、ジジちゃん。お別れ、早くなっちゃった」
ベッドで君は泣いていた。
違う……謝るのは僕の方だ!
君を守れなくて、ごめん。君より長く生きてしまって、ごめん。
そして——初恋が、君だと伝えられなくて、ごめん。
「ジジちゃんはさ、初恋ってあったのかな」
あったよ。今も一緒にいる君だよ。
「猫にも、そういうのってあるのかな」
ああ、あるとも。
「もし来世があるなら、また一緒にいてくれる?」
最期に、君は僕の頭を撫でてくれた。
その優しい手が僕に触れることは、もう二度となかった。
——そして今日。
君は棺の中で眠っている。
「では、お別れのお時間です」
人々が次々と棺に花を入れると、君の旦那が、僕を抱き上げた。
「ジジも、最後のお別れだよ」
棺の中を覗き込むと、君の胸元には、小さな写真立てがあった。
十歳の君と、子猫の僕だった。出会った日の写真だね。
「妻が、これだけは一緒に持っていきたいと……」
旦那の声が震えた。
「ジジのこと、本当に愛してたんだな」
僕も、ずっと君を愛していたよ。ずっと、ずっと。
棺が閉まり、君の顔が見えなくなった。
僕は一度だけ、小さく鳴いた。
「にゃおーん、にゃおーん(さよなら、さくらさん)」
僕のたった一度の初恋。来世では、どうか同じ種族に生まれますように。
そして、今度こそ君に伝えられますように。
——心から愛しているよ。
10月30日「初恋の日」
島崎藤村が雑誌「文学界」46号に詩「こひぐさ」の一編として詩「初恋」を発表した1896年10月30日にちなんで、島崎藤村ゆかりの宿である長野県小諸市の老舗旅館「中棚荘」が制定した記念日です。この詩は「まだあげ初(そ)めし前髪の 林檎(りんご)のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛(はなぐし)の 花ある君と思ひけり」という有名な一節で始まります。
