寺田ヒロオ「私の漫画史」18)野球少年
「漫画少年」の廃刊は、怠け者で、甘え心が強い私への、試練であった。
「漫画少年」にしか通用しない半人前の漫画家で終わるか、どの雑誌でも仕事が出来る漫画家になれるかどうかの、境目であったといえる。
突然、「野球少年」から呼び出しを受け、お茶の水駅に近い"芳文社"に出向いたところ、小林隆治編集長に、「野球漫画をかけますか?」ときかれて、驚いた。
上京前は、野球と漫画しか考えなかった私が、上京後二年間、野球を題材にした漫画を、かいていなかったからである。
月間誌の季節に合わせ、花見・海水浴・紅葉・雪だるま等、まるで歳時記のようなアイデアを、ひねくりまわしていただけだ。
この「野球少年」には、数カ月前に二度、四ページの読み切りをかいたが、"相撲"の題材でたのまれたから、相撲漫画をかき、野球漫画をかかせてもらいたいとは、全く考えもしなかったのである。
4ページの相撲漫画というのは下記になる。
「ぼくは関取」野球少年 1955(昭和30)年 10月号
「信夫山(しのぶやま)物語」野球少年 1955(昭和30)年 11月号
いまでは"野球漫画家"のレッテルを張られるような私が、大好きな野球と漫画を結びつける仕事を本気で考えたのは、正直この時からであることが、われながら不思議でならない。
四ページだが、うまくいけば連載にするという。
八ページもかけば、長編といわれた時代の事である。
本拠地の「漫画少年」を失って、しょげていた私には、渡りに船の話であった。
精いっぱいのものをかいて持参すると、「これでいこう!」といってくれた。
昭和三十一年新年号から始まった、私の最初の本格的な連載漫画、「背番号0」の誕生である。
上京以来、忘れていた草野球の楽しさがよみがえり、気力のこもった仕事になった。
『えすとりあ』のインタビューによると
タイトルは編集長が用意してあって、その頃『エノケンのホームラン王』という映画があって、エノケンがあこがれのジャイアンツに入れてもらって、マスコットみたいに背番号0のユニフォームを着ているのがあって、そんな感じの内容を考えておられた様ですが、僕はその頃は、プロ野球を見た事が無いし、テレビも無いし、だから少年野球ならば何んとか描けると思いますと言ったら、じゃあそれでもいいと言う事で始まったんだけれど、始めたらやはり自分が野球好きなものだから、上手くはまってね。でも、むこうからそう言われるまで、自分からなぜ野球漫画を描こうとしなかったのかねぇ、自分でも判らないんですよ。
『エノケンのホームラン王』昭和23年公開とのことなので、7年も経ってからそれに絡めた野球漫画描いてくれと言うのも随分とのんびりした話だが。
何はともあれ、ここでもしかしたら無意識だったのかもしれないが、好きだった『バット君』を模倣した設定の『背番号0』が生み出される。
一回分五千円ほどの原稿料は、アパートの部屋代をまかなえる額であり、それは東京にいられるという保証である。あとは小さい仕事でも、食えるだけのものをやればいいのだ。
運気が好転すると、有利な仕事が重なってきた。
「幼年クラブ」と「小学一年生」から、読み切り別冊フロクの注文である。それぞれが一カ月分の生活費に相当する原稿料だ。逃がしてなるものかと、ふたつとも抱えこみ、徹夜でかきまくった。
藤子不二雄くんと、「新漫画党」再編成を決め、元気がでてきた。
昭和三十年の暮れである。
「幼年クラブ」は『パー子ペー吉』48p、「小学一年生」は『いっきゅうさん』40pのことか。
