寺田ヒロオ「私の漫画史」11)バット君
私が初めて遭遇した「漫画少年」は、創刊の年の四月号であった。
B5版、本文四十八ページ、厚さ二ミリほどの小冊子であったが、大きな影響を、私は受けた。以後八年間、この子供雑誌を追い求め、読者として、投稿家として、ついには漫画家として深くかかわり、いよいよ決定的な影響と、多大の恩恵を受けたのである。
「漫画少年」創刊は昭和23(1948)年 1月号。
寺田が遭遇した4月号でもまだ本文48ページということは、中綴じのパンフレットのようなものだったのだろうか(5〜6年後には200ページ弱の無線綴じに)。
井上一雄の『バット君』は創刊号からの連載。

最初の感動は、「漫画少年」が理想的な子供雑誌であるということと、「バット君」が、理想的な子供漫画だということの、二つであった。そしてその思いは、当然、編集長の加藤謙一さんと、作者の井上一雄さんにつながるはずであったが、当時の私はまだ、編集長の役割の偉大さに、それほど気がついていなかったし、奥村の"編集者・発行者加藤昌"さんを、詮(せん)索する知恵も浮かばず、熱烈なる信泰は、もっぱら"漫画家 井上一雄"さんに向かったのであった。
井上一雄さんは大正三年生まれ、少年投稿家から漫画家になった俊才で、戦前の「少年倶楽部」や「講談社の絵本」に連載した作品を、私は幼少年期に見て、その素晴らしさをよく知っており、戦後「バット君」という日本で最初の野球漫画で、「漫画少年」にさっそうと再登場してこようとは、実にうれしい驚きであった。
その作風は明朗健全で、作者の良心に一点の曇りもない、まさに加藤謙一さんが目指した"おもしろくて、ためになる"漫画を具体化する、最適任者であった。私が、野球好きであるからというだけではなく何よりも、その明るさ誠実さに共鳴し、教訓的にかたくならず、無理なく楽しくまとめあげる力量に感服し、心から尊敬したのである。
だが、天は無情にも、三十六歳の若さで、井上一雄さんに、ペンを置かせてしまった。昭和二十四年五月三日死去。私は大きな目標を失ったと思った。先生の弟子になりたかった。せめて一度でも、お会いしたかった。
コトバンクによると井上一雄が亡くなったのは34歳。
20代から漫画家として活動するも、どうやら若い頃から病気がちだったようだ。
十六歳の時に、「バット君」のような漫画を、「漫画少年」にかきたいと念じた心は、五十二歳の今も、変わっていない。
「バット君」と「漫画少年」は、私の終生の大目標である。
『バット君』…中学生のバット君こと長井抜十(ながい ばつとう)が、野球チームに補欠として入り、正選手を目指してゆく。バット君の日常やチームメイトとのやりとり、やがて正選手として活躍していくようになる…。
これはまさに寺田ヒロオ『背番号0』とほぼ同じような内容ではないか(『背番号0』の主人公ゼロくんも、最初は万年補欠だったのが、努力してやがて選手として活躍するようになる)。


野球漫画を依頼されて、既にタイトルまで『背番号0』と決められていた。
「プロ野球はわからない、描けない。少年野球なら」と描きはじめた『背番号0』だったが、なんのことはない、そのおおまかな骨格は最も好きだった漫画『バット君』から拝借していたのだった。
