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寺田ヒロオ「私の漫画史」14)学童社

 上京の目標は、もちろん「漫画少年」である。六年間の愛読者であり投稿家であり、そこに漫画をかくことが夢であった。
 一度だけ、講談社と光文社に原稿を持ち込んでみたが、通用しないとわかると、「漫画少年」一本に絞った。頼り、すがりついたという方が正確である。

寺田ヒロオ「私の漫画史」14

講談社に持ち込んだけれど全然ダメで」というのは、この原稿が書かれたのと同じ年の別のインタビューでも語っている。
のんき先生まんがノート』でも、若き日に大手出版社に持ち込みをしたが冷たくあしらわれる様子が描かれている。

 「漫画少年」の発行所"学童社"は、飯田橋駅の近くにあり、満州会館という中国風の屋根をもった、古いが大きいビルの正面入り口のすぐ右側の一室が、会社のすべてであった。
 創始者加藤謙一さんは、昭和二十七年に顧問として講談社に復帰し、当時のスタッフは、須藤憲三さん(戦前の「少年倶楽部」の名編集長)、中野正秋さん(漫画家中野正治さんのご子息で「漫画少年」の初期からの編集者)、加藤宏泰さん(謙一さんのご子息)、営業の永井さん、中島さんの五人であった。
 最盛期にはもっと多くの社員がいたのであろう。十脚ほどの机があり、その空いた机で、原稿を持参したついでに、急ぎの仕事をさせられたり、出前のカレーをご馳走(ちそう)になったりしたが、三日にあげず通うので、私と同じような立場の新人漫画家と知り合い、仲良くなった。
 東京っ子の永井竹丸くんと坂本三郎くん、富山から上京し、田河水泡門下になった双子の山根青鬼くんと赤鬼くん。皆私より年少だが、数年前からプロになっている天才少年である。
 「漫画少年」の方でも、この五人は気が合うと見て、特集漫画の合作を企画してくれた。「もしも……だったら」とか「おとぎ話その後」とか、五人が分担して競作するわけだが、楽しいし、勉強になった。

寺田ヒロオ「私の漫画史」14

COM『トキワ荘物語』の永田竹丸『漫画少年合作の記』では、このメンツが顔を合わせ、合作に取り組む様子が描かれている。

『トキワ荘物語』の永田竹丸『漫画少年合作の記』
『トキワ荘物語』の永田竹丸『漫画少年合作の記』
『トキワ荘物語』の永田竹丸『漫画少年合作の記』

やがて山根兄弟が「他社の仕事が忙しい」と去っていき(「漫画少年」の原稿料のはらいが悪いせいという理由もあったらしい)、森安なおや、藤子不二雄が加わって新漫画党(第一期)結成へとつながっていく。

『トキワ荘物語』の永田竹丸『漫画少年合作の記』
『トキワ荘物語』の永田竹丸『漫画少年合作の記』

 私の上京後の初仕事は「漫画少年」昭和二十八年十一月号で、「ちゃっかり君」四ページ「ホントカシラ博士」三ページ、「修学旅行クイズ」二ページ、コマ漫画数点だったが、もらった原稿料が、五千百七十円。あまりの安さと、当て外れに、目の前が暗くなるほどショックを受けた。
 新発田では七千~八千円の給与をもらっていたし、投稿料でも一ページ千五百円はもらっていたのに、これでは下宿代の六千円にも足りないのだから深刻だった。
 学童社が、ひどい経営不振であることを、後で知った。
 しかし、私の腕では「漫画少年」にしか通用しないし、好意的につかってくれているのだから、身勝手な不満はいえない。単価が安いなら、量でかせごうと、下宿の三畳間にこもって、ひたすらかいた。
 十二月号は六千九百七十円、昭和二十九年新年号が一万四千百九十五円。
 目の前が、明るくなってきた。

寺田ヒロオ「私の漫画史」14


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