ファシリテーションとは「他者の正しさを受け入れてみる」ことだと思う
最近、数年前の自分が書いた文章を読み返すのが、ちょっと怖くなっています。そこには、誰にも文句を言わせないほどに徹底的に論理武装し、隙もない「正しさ」を突き詰めている、頑なな自分がいるからです。当時の私は、それが「誠実さ」だと思い込んでいました。
しかし、その論理武装の裏側で、どうしようもない「寂しさ」を抱えていました。なぜ、正しければ正しいほど、寂しさを持つようになったのか。
MIMIGURIでのこれまでの5年間は、自分の隠れ蓑を壊しながら、他者と向き合う作法を学んでいく期間だったと思います。
自分ひとりの人生では解けない問い
世界中が新型コロナウイルスという未知の恐怖に包まれていた時期、私は大学院にいました。私の研究テーマは、ざっくりというと「研究評価」について。特に実社会での試行錯誤を伴う「実践研究」の成果をどのように評価するかの物差しを探究していました。
「君が解こうとしている問いは、君一人の人生では足りないかもよ」
指導教員からそう言われた時、自分の研究はそれほどまでに「重み」があるものかと昂っていました。結局修士論文では完全にその問いには答えきれず、この問いをより深める視座を得るために、研究にも力を入れている企業としてMIMIGURIに進む選択をしました。
当時、面接していただいた安斎さんと東南さんには「実務と研究を両立させる人体実験をさせてください」ということを話しました。
「分かりにくい」という孤独感
当時の私にとって、民間企業に進むということ、ひいてはMIMIGURIに入社することは、これまでの自分の研究で得られた視点がどこまで通用するかを試す実験のようなものでした。しかし、入社してすぐに、私は様々な葛藤を抱えることになります。
MIMIGURIは多様な人材に溢れた組織です。ファシリテーター、コンサルタント、デザイナー、エンジニア、クリエイターなど、それぞれが異なるバックグラウンドを持ち、異なる美学で動いています。そこで私が論理で固められたアウトプットを書き上げたとき、フィードバックしては「長い」「簡単な言葉にして」「短くして」という言葉を貰いました。
正直に言えば、最初は軽蔑に近い感情すら抱いていたかもしれません。大衆向けの多義的で短くて柔らかい文なんて、人を「イイ感じに騙す言葉」であり、有害であるとさえ思っていました。いま振り返ると、それは自分が大事にしてきた知識の厳密さを軽んじて扱われたことへの防衛反応だったのだと思います。
それに抗うように論理武装された資料を生み出すほど、周囲との距離は開いていくように感じていました。自分の仕事に誰も関心を持ってくれないし、期待されていないんじゃと思い詰めました。私は徐々に寂しさが込み上げてきて「組織」で働く難しさを感じるようになっていきました。
正しいだけでは、現実は動かない
「寂しさ」に暮れていた時に、あるクライアント企業を支援させていただくプロジェクトに加えていただきました。このプロジェクトは、たまたま自分が社会人になって取り組んできた「ナレッジマネジメント」のテーマに類するものでした。
最初はいつも通りに、関連する研究知見をミーティング前に徹底的に調べて資料を整え、根拠のあることのみを情報提供するような形で限定して話していました。しかし、回を重ねるごとに、雰囲気がよそよそしく響いていないこともわかってきました。自分が一番熱心に勉強してきたはずなのに、なかなか現実が動かない。
今振り返ると、私が語っていたのは「過去の知見」であって、彼らが今直面している「痛みの解決」にダイレクトに繋がる話ではなかったようにも思います。自分としては「これまで蓄積されてきた確からしい知見」を語ることが精いっぱいの誠実さだと思っていたのですが、それはリアルな課題に向き合うクライアントが欲する知見ではなかったのです。
なかなかうまくいかず、追い詰められた私は、自分の隠れ蓑にしていたものを捨てることにします。
「今の皆さんの表情を見ていると、どうやら過去の知見では解決できない何かがあるように感じます。正直に言えば、今の私にはまだそれがわからないので一緒に考えさせてください」
「論理武装」を解き、その時の自分の「わからない」という体温の乗った言葉を届ける。その宣言をした瞬間に、相手の土俵に立ってコミュニケーションを取ろうとする意識が芽生えました。
コミュニティの存在価値を構成する枠組み
どんな表現にも、その表現者のバックグラウンドとなるコミュニティで大事にされてきた「正しさ」の枠組みがあると思います。コンサルタント、研究者、ライター、ラッパー、詩人、などなど。
そして私たちは、自分が慣れ親しんだ枠組みを標準化し、そこから外れたものを「受け入れられない」と切り捨てることがあります。ましてや他者が依拠する枠組みについて「なんでこっちの方がいいのにあなたは分からないの」と拒絶してしまう。
自分が触れたことのない「標準」から外れた枠組みに抵抗感があるのも当然です。しかしその裏側には、その人が守ろうとしている価値観や、積み上げてきた歴史があります。そこで他者の枠組みを、自分に合わないと切り捨ててしまうと、相手が人生の中で時間をかけて守ってきた「聖域」に、土足で踏み込んでしまうことがあります。
そう考えた時、大学院時代の指導教員から贈られたあの言葉が、数年の時を経て、全く別の意味が込められていたのではないか?と気づいたのです。
「君が解こうとしている問いは、君一人の人生では足りないかもよ」
最初はこの言葉を聞いて、自分がいかにスケールの大きいミッションに挑んでいるんだろうかと酔いしれていました。
しかし今考えると、そもそもどのような研究を良いと判断するかは個々の研究者により変わります。それぞれ異なる人生経験を経て、「良い研究」という認識の形成に至っています。だからこそ「私一人の人生で戦おうとせず、個々の研究者の人生について対話する必要があった」のだと気づきました。僕はなんにも分かっていなかったのです。
そして私の中で心境の変化が生まれました。自分がこれまで蓑にしてきた前提を一旦脇に置き、相手の物差しに立って世界を眺めてみる。相手が何を大事にし、その上でなぜその「正しさ」の枠組みを取り入れているのかという人生の裏側に耳を傾けてみる。
ファシリテーションとは「他者の正しさを受け入れてみる」ことだと思う
MIMIGURIは「ファシリテーションコンサルティングファーム」です。私たちはファシリテーションを「適応課題に起因するズレを解消することで共同的な探究を支援する方法論の総称」と定義しています。
思うに私のこれまででも、私自身が入社前に学んで培ってきた「正しさ」の枠組みが、他者の依拠する枠組みとの間でズレを引き起こしていました。

この5年間「ファシリテーション」を探究してきた中で、あえて自分なりにファシリテーションを再解釈すると「自分の『正しさの枠組み』を棚上げし、他者の『枠組み』を受け入れる体験を通じて、他者と共に探究している状態をつくりあげること」といえるかなと思っています。
ひとりでいることは、自分の「正しさ」にこだわれるので安心感があります。しかしその代わりに他者がいないことへの寂しさが芽生えます。その「他者に出会おうとすることへの飢え」を満たすべく、自分が依拠する正しさの枠組みを一旦置き、実験的に他者の枠組みを受け入れてみる。
もちろん、自分が大事にしている正しさの枠組みを研ぎ澄ませる生き方も、崇高で素晴らしいものだと思います。5年前の私から見たら、「軟弱になった」と笑うかもしれません。でも、今の私は、あの頃よりもずっと大らかになれているし、寂しさは軽減されているように感じます。
今もなお、半年に一回くらいのペースで、自分が慣れ親しんだ枠組みに無意識に戻ってしまうことがあります。それでも、他者の専門性の裏側にある前提をいったん受け止めてみるプロセスの先に、「まだ見ぬ喜び」がやってくるのかもと思える自分の方が強くなりつつあります。
確固たる自分を持ちつつ、別の旅を始めよう
あなたの職場にも、あるいはあなた自身の中にも、「正しすぎるがゆえに届かない言葉」はありませんか。私はもう少し、この「他者の枠組みを受け入れてみる」実験を続けてみたいと思っています。
「あ、今自分はまた壁を作っているな」
「全然分からないけど、ワクワクする」
「何がいいか分からないけど乗ってみよう」
そうやって、自分自身の変化を観察する。MIMIGURIという組織は、そうした一度築き上げてきた自分自身をあえて崩し、再構築する営みを【探究】という名前で行っており、お互いに面白がってくれます。
もしあなたが今、自分の依拠している「正しさ」に限界を感じたり、十分な成果を出しているはずなのに、なぜか言いようのない「寂しさ」を感じているなら、もしかすると、もしかするかもしれません。
そのタイミングは新卒でも、第二新卒でも、あるいは中途なのかもしれません(僕の場合は新卒でしたし門戸は開いています)この記事を読みながら、これまでのキャリアの節々を思い出した方がいたらうれしいです。
是非ともカジュアル面談をお待ちしております。それが「あ、自分の探究したいことってこれだったんだ」と新たな気付きが得られるような、思っても見なかったキャリアが描けるような機会になれば。
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