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きのこの山が家を売り、たけのこの里がタワマンを建てた話

この世には、長年にわたって決着のつかない争いがいくつもある。

きのこの山か、たけのこの里か。

これはもう、そういうレベルの話ではない。
単なるお菓子の好みではない。思想であり、信仰であり、ときに人間の根っこを問うテーマですらある。

ちなみにわたし、西野葵はきのこ派である。

ここは曖昧にしてはいけない。世の中にはぼかしていいことと、最初に明言しておくべきことがある。これは後者だ。

そんな長きにわたる戦いのなかで、ついに意味がわからない一歩を踏み出したのが、きのこの山だった。

家を売りはじめたのである。

何を言っているのかわからないと思うが、わたしも最初はそうだった。
きのこの山のパッケージに描かれた、あのなんだか楽しげな家。あれをメタバース上の分譲住宅として売り出す、という企画が本当に始まってしまったのだ。

すると今度は、たけのこの里も黙っていなかった。
後追いでタワマンを建ててきた。

もう一度言う。
たけのこの里が、タワマンを建ててきたのである。

お菓子売り場の小競り合いだと思っていたものが、気づけば不動産戦争に発展していた。いや、正確にはメタバース不動産戦争である。言葉の響きだけは妙に未来っぽいが、やっていることを冷静に見るとかなりおもしろい。

ただ、この話は「なんだそれ」と笑って終わるだけでは少しもったいない。

なぜ明治は、”きのこ”と”たけのこ”に家を持たせたのか。

人は仮想空間の土地や住居に、どれほどの魅力を感じるのか。
そして、サービス終了とともに消えてしまうかもしれない“家”を買うことに、どんな意味があるのか。

今回はそんなことを、きのこ派としての誇りを失わない範囲で、少しだけ真面目に考えてみたい。

まず驚くべきは、きのこの山が打ち出した企画の方向性である。

普通、こういう長年愛されてきたお菓子が話題作りをするなら、新フレーバーとか限定パッケージとか、せいぜいそのあたりだと思うではないか。

百歩譲って『コラボカフェ』。
よくて今流行りの『アクリルスタンド』。
そのへんである。

ところが、きのこの山は違った。

家を売った。

しかもただのネタではない。
メタバース上とはいえ、パッケージに描かれた“あの家”をちゃんと分譲住宅として仕立て、「住めます」「持てます」「招待もできます」という顔で出してきたのである。

この時点でだいぶおかしい。
お菓子のパッケージに描かれた家というのは、普通は眺めるものであって、購入を検討するものではない。

だが、そこをあえて「買えます」に変換してくるのが今回の企画の妙味だ。子どものころにパッケージを見て、「なんか楽しそうな家だな」とぼんやり思ったことがある人間ほど、ちょっと心を揺さぶられる。

いや待て、本当に買えるのか。
しかも住めるのか。

なんだその夢の叶え方は。
もう少し別の方向で叶える方法はなかったのか。

しかし、こういう“存在しないものを本気で売る”という発想には、妙な現代性がある。昔なら笑い話で終わっていたはずのものが、いまはデータとして所有できる。

土地も家も、現実にはそこにない。
けれど、ないからこそ面白い、と感じる人もいる。
このあたりから急に、ただのお菓子キャンペーンでは済まない顔つきになってくる。

きのこの山は、チョコ菓子を売っているように見せかけて、その実、世界観を売り、憧れを売り、ついには“所有してみたい気持ち”そのものにまで手を伸ばしてきたのだ。

なかなか油断ならない。お菓子売り場の顔をしているが、やっていることは案外えげつないのである。

だがしかし、たけのこも黙ってはいなかった。

きのこの山がメタバース上で家を売りはじめたのを見て、「なるほど、そう来たか」とでも思ったのだろう。
後追いで、しっかり対抗企画をぶつけてきたのである。

しかも、ただの家ではない。
タワマンである。

もう何を競っているのかわからない。
お菓子の話をしていたはずなのに、気づけば戸建て派とタワマン派の不動産論争みたいな顔になってきた。きのこたけのこ戦争は、ついに甘味の領域を飛び越え、住環境のフェーズに入ったらしい。

とはいえ、この対抗の仕方がなんとも未熟な”たけのこ”らしい。
きのこが山で一戸建てを売り出したなら、こちらは里の平和な顔をかなぐり捨てて、高さで殴ってくる。
なるほど、力技である。脳筋なことこの上ない。
発想に若干の焦りは感じるが、その勢いだけは認めざるを得ない。

ただ、ここで少し冷静になると、この一連の流れは実におもしろい。
きのこが先に仕掛け、たけのこがそれを受けて、さらに別の形で返す。
つまり明治が売っているのは、もはやチョコ菓子だけではない。
論争そのもの、対立そのもの、そして「次は何をしてくるのか見たい」という一般消費者の野次馬根性まで、まとめて商品化しているのである。

そう考えると、この企画は笑える。
だが同時に、かなり商売がうまい。
人は昔から、勝負ごとと因縁のある対決が好きなのだ。


ここで少しだけ空気を変えて、

メタバース化した”きのこ”と”たけのこ”の、その先の未来を妄想してみたい。

というのも、今回の企画は笑える。
かなり笑える。

家だのタワマンだの言い出した時点で、だいぶおもしろい。
だが、笑っているうちに、妙に引っかかる問いもこちらに残していく。

結局のところ、購入者が手にするのは現実の土地ではない。
仮想空間上の土地データであり、住居データである。

もちろん、それ自体を否定したいわけではない。
データだから価値がない、などと言い出したら、現代人はわりといろいろなものを失う。

ゲームのスキン(アバターや、ファッションなど)も、電子書籍も、配信のアーカイブも、かなりの割合で「形のないもの」にお金を払っている。
いまさらそこに石を投げるのは、ちょっと違う。

ただ、家となると話は少し変わってくる。

家というのは、本来かなり重たい存在だ。
暮らしの拠点であり、帰る場所であり、ときには人生最大の買い物ですらある。それをメタバース上で所有するとなったとき、人はどこまでそこに実感を持てるのだろうか。

しかも、その世界には最初から終わりがあるかもしれない。
サービスが続く限りはそこにある。

だが、終了すれば消える。
データごと、きれいに、何も残らない可能性もある。

そこには、サービス終了の日付が決まっているソシャゲのような切なさがある。

例えば、売上累計1兆円を築き上げたFGOというソシャゲがあるが、あれが本当に噂通りに2025年末にてサービス終了していた世界線に突入していた場合、1兆円という金額は”なかったこと”として消える。ユーザーの手元には何も残らない。課金とガチャの思い出オンリー。恐ろしい話である。ただまあ、こういうこともあり得たということである。閑話休題。

いまこの瞬間はたしかに存在していて、熱狂もあり、買う理由もある。
手に入れた瞬間はきっと楽しい。だが、その喜びの先に「いつか消える」が最初から置かれている。そう思うと、メタバース上の家を買うという行為もまた、夢のある話であると同時に、少しだけ哀しい。

現実の家なら、せめて雨風はしのげる。
だがメタバースの家は、運営会社からのサービス終了のお知らせひとつで消える。その儚さまで含めて所有するのだとしたら、これはもう不動産というより、かなり思想に近い。

わたしが思うに、メタバース上で土地や住居を所有することを考えるなら、日本を代表するMMOである『DQ10』や『FF14』のハウジングのほうが、よほど完成度も高く、所有感も強い気がする。

外装も内装も自分好みに作り込める。
家具を置き、壁紙を貼り、庭をいじり、ときには妙にこだわった生活空間を完成させる。

そこには単なる「所有」だけではなく、「住んでいる」という感覚がちゃんとある。

しかも、あの世界には実際に人がいる。
毎日ログインして、遊び、集まり、だべり、イベントを開き、たまに何をしているのか本人にもよくわからないまま長時間家にいる。仮想空間の価値というのは、結局のところ「そこに帰りたくなるかどうか」なのだと思う。

その意味では、長年プレイヤーに住み倒されてきたMMOの家のほうが、よほど生活の匂いがある。

家を持つ喜びという意味では、メタバース新興勢より、長年プレイヤーに家具を置かれ、壁紙を貼られ、庭をいじられ続けてきたMMOのほうが、よほど“住まい”としての説得力がある。

どれだけ立派に「メタバース」を名乗っていても、そこに暮らしの実感がなければ、家というより展示場に近い。
その点、MMOのハウジングには、生活で散らかったぶんだけの強さがある。

さらに言えば、そこには人口の力もある。

DQ10は長く運営が続いているにもかかわらず、いまなお10万人を超える多くのプレイヤーが日々ログインし、土地を持ち、家を持ち、仮想空間の中で活動している。しかも月額約1500円だ。10万人が。

FF14に至ってはその規模はさらに大きく、日本だけにとどまらない広がりを持つ。全世界のアクティブユーザー数にして、およそ100万人(アカウント数じゃないよ、アクティブユーザーの数だよ)という桁違いの人数が、日々「あちら側」で暮らしているわけである。

そう考えると、よほど変なメタバースより、既存のMMOのほうがずっと活気づいている。そして活気があるからこそ、家にも購入し所有する意味が生まれる。誰もいない世界の豪邸より、人が集まり、ちょっと散らかっていて、たまに誰かが遊びに来る家のほうが、よほど魅力的なのだ。

そうなると、こちらもだんだん根本的な疑問にたどり着く。

そもそもメタバースとは何なのか。

仮想空間上の土地に、どれだけの魅力を購入者に、未来の所有者に提示できるのか。ただ「あります」「持てます」だけでは足りない。そこに住みたくなる理由、帰りたくなる理由、人を呼びたくなる理由まで用意できて、はじめて家は家になる。

今回の明治の“仕掛け”は、そうした魅力を世の中の購入者予備軍に問う、一つの試験なのかもしれない。お菓子の顔を借りてはいるが、やっていることは案外、未来の所有欲に対する小さな実験である。

まあ、所有するなら”きのこ”一択で間違いはないのだけれどね。

では、明治は今回の企画で、いったい何がしたかったのだろうか。

メタバースなだけに、少しメタ的な疑問である。

もちろん表向きには、話題作りであり、PRであり、長年愛されてきたお菓子の世界観を現代風に拡張する遊びなのだと思う。それは間違いない。実際、きのこの山のパッケージに描かれた家を「買えるもの」にし、たけのこの里はそれに対抗してタワマンを建ててみせた。この時点で話として強い。強すぎる。お菓子売り場の覇権争いを、まさか不動産バトルにまで育てるとは思わなかった。

だが、それだけではない気もする。

わたしが思うに、明治が今回やってみたかったのは、単に家を売ることではない。もっと正確に言えば、家の形を借りて、人の所有欲がどこまでメタバース……仮想空間に伸びるのかを試してみたかったのではないか。

人は、形のないものにもお金を払う。
それはもう今の時代、当たり前になっている。

音楽も、電子書籍も、ゲーム内アイテムも、配信のアーカイブもそうだ。
では、その延長線上で「家」はどうなのか。住まいのデータ、土地のデータ、そこに自分の居場所があるという感覚。それを人は、どこまで欲しいと思うのか。

たぶん明治は、その問いを、できるだけ軽やかに、できるだけ面白く、そしてできるだけ多くの人が触れられる形で世の中に投げたかったのだと思う。

「メタバースの未来とは」とか、
「デジタル所有の可能性とは」とか、
そういう言い方をすると急に企画書の匂いがしてくるが、やっていることを雑に要約すれば、もっとシンプルだ。

きのこの山の家、欲しいですか。
たけのこの里のタワマン、住みたいですか。

その問いである。

そう聞かれると、人は少しだけ本気で考えてしまう。
いや、別に本当に住むわけではない。雨風もしのげない。住宅ローン控除もたぶんない。それでも、ちょっと欲しいと思ってしまう自分がいる。その“ちょっと欲しい”を引き出せた時点で、この企画はかなり勝っている。

つまり明治は、チョコ菓子を売っているようで、その実、世界観を売り、対立構造を売り、所有欲を売り、未来っぽさまで売っていたのだ。

なかなか抜け目がない。

きのこもたけのこも、見た目はかわいい顔をしているのに、やっていることは案外したたかなのである。

そして、そのしたたかさごと、わたしは嫌いではない。
むしろ好きだ。こういう「ちょっと何を言っているのかわからないけれど、よく見ると妙に現代的」という企画には、独特の味がある。笑えるのに、少し考えさせられる。

ふざけているようで、意外と未来の輪郭に触れている。
そういうものは、だいたい良い。

もっとも、最後に住む場所を選ぶなら、答えは最初から決まっている。

わたし、西野葵はきのこ派である。

家を買うにしても、タワマンに住むにしても、そこだけは一切ぶれない。
思想と信仰の話なのだから、仕方がない。

お菓子の話をしていたはずなのに、気づけばメタバースの所有欲や仮想空間の未来について考えていた。そういう意味でも、今回のきのことたけのこの不動産バトルは、ただのネタ企画に見えて案外あなどれない。笑って終われるし、少しだけ学べる。

そして最後には、やはり”きのこ”が勝つ。
実に美しい流れである。


【追記】

"たけのこ"族の友人の謎の記事。
"たけのこ"脳の方は興味あればご一読どうぞ。

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