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Z世代は、もう盛るのに疲れたのかもしれない

1. BeRealって、かなり面白いSNSだと思う

BeRealって、かなり面白いSNSだと思う。

最初に見た時、正直、なんでこんなアプリが流行るんだろうと思った。

BeRealは、かなりざっくり言えば、1日1回、ランダムなタイミングで通知が来て、その場で写真を投稿するSNSである。

通知が来たら、基本的には2分以内に撮る。

しかも、撮影するとスマホの前面カメラと背面カメラの両方で同時に撮影される。

つまり、自分の顔や様子と、目の前にある景色が同時に写る。

さらに、Instagramのようにフィルターをかけたり、細かく加工したりする前提ではない。

準備して、角度を探して、光を作って、盛れた写真だけを選ぶ、というより、今その場にいる自分と、その瞬間の景色を出すアプリである。

BeRealの公式ヘルプでも、Time to BeReal通知が来てから2分以内に投稿する設計が説明されている。

https://help.bereal.com/hc/en-us/articles/15416869159197--Time-to-BeReal-Notification

普通に考えると、不便である。

盛れない。

準備できない。

映えない。

部屋が汚い時もある。

顔が死んでいる時もある。

寝起きかもしれない。

授業中かもしれない。

バイト中かもしれない。

ただスマホを見ていただけの瞬間かもしれない。

Instagram的な感覚で考えると、かなり雑なSNSである。

でも最近、少し分かる気がしてきた。

BeRealが刺さった理由は、単にリアルだからではない。

おそらく、盛れないことが許されるからである。

もっと言えば、BeRealは盛らないSNSではない。

盛れなかったことにできるSNSである。

ここがかなり大きいと思う。

2. Instagramは自己演出の場所になった

Instagramは、今やかなり完成された自己演出空間である。

角度。

光。

服。

カフェ。

旅行。

食事。

部屋。

髪型。

表情。

余白。

色味。

すべてが最適化される。

もちろん、それが悪いわけではない。

Instagramは美しい。

写真も、動画も、世界観も、かなり洗練されている。

自分の好きなものを並べる場所としては、今でもかなり強い。

ファッション、インテリア、旅行、カフェ、ブランド、作品、生活の断片。

それらを美しく編集するには、Instagramはとても向いている。

しかし、向いているからこそ、疲れる。

投稿するなら、ちゃんと見せたい。

適当に撮ったものを出すのは少し怖い。

生活感が出すぎると嫌だ。

ダサく見えると嫌だ。

顔が盛れていないと嫌だ。

部屋が汚いと嫌だ。

誰かに、この人こんな感じなんだと思われるのが怖い。

Instagramは、単なる記録ではなく、見られる自分の編集になった。

つまり、投稿するたびに自分の見え方を管理する場所になった。

これは楽しい。

でも、ずっと続けると疲れる。

3. 盛るのは悪ではない

ここで勘違いしたくないのは、盛ること自体は悪ではないということだ。

自分を綺麗に見せたい。

かっこよく見せたい。

美しく編集したい。

生活を少しよく見せたい。

自分の世界観を作りたい。

これは自然な欲望である。

服を選ぶことも、髪を整えることも、部屋を片付けることも、写真の角度を探すことも、人間らしい行為だと思う。

人は、ただそのまま存在しているだけではない。

自分をどう見せるかを考える。

どんな人間として見られたいかを考える。

どんな空気をまといたいかを考える。

それは虚構というより、編集である。

以前、欲望について書いた時も近いことを書いた。

人は自分で欲しいと思っているつもりでも、その欲望には他人の視線やブランドやSNSが混ざっている。

盛ることも同じである。

人は他人の視線の中で、自分を少し編集する。

そのこと自体は否定しなくていい。

ただ、問題は、それをずっとやらなければならない空気である。

盛れるなら盛りたい。

でも、毎回盛らなければならないとなると疲れる。

楽しかったはずの自己演出が、いつの間にか義務になる。

ここにSNS疲れがある。

4. BeRealの2分は、かなりよくできている

BeRealの2分という設計は、かなりよくできている。

通知が来る。

2分以内に撮る。

前面カメラと背面カメラで、自分と目の前を同時に撮る。

加工する時間も、光を探す時間も、服を変える時間も、部屋を整える時間もほとんどない。

ここには、自己演出を邪魔する仕組みがある。

もちろん、完全に演出できないわけではない。

通知が来てから少し移動する人もいるだろう。

撮り直す人もいるだろう。

遅れて投稿する人もいるだろう。

BeRealの中にも、当然うまく見せようとする余地はある。

しかし、Instagramほど時間をかけて世界観を作り込むことはしにくい。

服を選ぶ時間がない。

場所を選ぶ時間がない。

光を探す時間がない。

顔を作る時間がない。

部屋を片付ける時間がない。

だからこそ、投稿する側は少し楽になる。

なぜなら、盛れなかった理由が自分のせいではなくなるからである。

だって2分しかなかったし。

今これだったし。

通知がこのタイミングで来たし。

そう言える。

この言い訳を、アプリ側が用意してくれている。

ここが重要である。

BeRealは、リアルを強制しているように見える。

でも、心理的には、自己演出できなかった責任を少し逃がしてくれるSNSなのだと思う。

5. 盛らないSNSではなく、盛れなかったことにできるSNS

BeRealは、盛らないSNSというより、盛れなかったことにできるSNSである。

ここが、このアプリの面白いところだと思う。

盛らないことを自分で選ぶのは、意外と難しい。

Instagramにすっぴんで投稿する。

部屋の汚さをそのまま出す。

適当な服装を出す。

退屈な日常を出す。

それを自分の意思でやるのは、少し勇気がいる。

なぜなら、それは自分の選択になるからだ。

あえて盛らなかった人になる。

あえてリアルを出した人になる。

そこにもまた、別の自己演出が発生する。

しかしBeRealでは、システムが先に言い訳を作ってくれる。

今撮れと言われた。

2分しかなかった。

準備できなかった。

だからこれでいい。

この構造が、かなり優しい。

投稿者は、完璧ではない自分を出せる。

でも、それは自分の無防備さを全責任で出しているわけではない。

アプリのルールに従った結果として出している。

つまり、BeRealはリアルを見せるSNSであると同時に、リアルを見せる責任を少し分散するSNSである。

これはZ世代にとって、かなり大きかったのではないか。

ずっと見られている世代である。

ずっと撮られている世代である。

ずっと比較される世代である。

その中で、盛れなかったことにできる場所は、かなり救いになる。

6. 自己演出の責任を少し逃がせる

Instagramでは、投稿はかなり自分の責任になる。

何を載せるか。

どの写真を選ぶか。

どう加工するか。

どういう言葉を添えるか。

誰に見せるか。

どのタイミングで出すか。

そのすべてに、自分の編集が出る。

だからこそ、うまく見えれば嬉しい。

でも、うまく見えなければ恥ずかしい。

BeRealは、その責任を少し軽くする。

自分が完全に選んだ投稿ではない。

通知が来たから撮った。

その場だったからこうなった。

2分しかなかったから整えられなかった。

この構造によって、投稿は少し偶然になる。

偶然であることは、SNSではかなり重要である。

なぜなら、偶然は失敗を許すからだ。

顔が盛れていなくても、偶然である。

部屋が微妙でも、偶然である。

何もしていない瞬間でも、偶然である。

偶然なら、ダサさの責任を全部自分で背負わなくていい。

ここに安心がある。

SNSが疲れるのは、いつも自分の見え方を自分で管理しなければならないからである。

BeRealは、その管理の一部を時間制限に預ける。

だから、少し楽になる。

7. リアルが欲しいというより、疲れた

Z世代が求めていたのは、完全なリアルというより、自己演出に疲れない空間だったのかもしれない。

リアルな自分を見てほしい。

ありのままの自分を出したい。

そういう言葉で語ることもできる。

でも、もう少し正確に言うなら、常に最適化された自分を出すことに疲れたのだと思う。

盛る。

加工する。

選ぶ。

消す。

見せる。

反応を見る。

比較する。

また整える。

このサイクルは、かなり消耗する。

特にSNSが日常化した世代にとって、自己演出は特別な行為ではない。

生活の一部である。

だからこそ、疲れる。

BeRealは、その疲れに対するカウンターとして機能した。

美しくなくてもいい。

面白くなくてもいい。

何かしていなくてもいい。

映えていなくてもいい。

今これだった、で済む。

この済む感じが重要である。

現代のSNSでは、何かを出すたびに意味が発生する。

この人はこう見られたいのだ。

こういう生活をしているのだ。

こういうセンスなのだ。

こういう人間なのだ。

そう読まれる。

BeRealは、その読みを少し弱める。

だって2分だったし。

その一言で、投稿の意味が少し軽くなる。

8. BeRealも、いずれ最適化される

ただ、これも永遠ではない。

BeRealですら、いずれ最適化される。

というより、すでに最適化の余地はある。

自然っぽく見せる技術。

何もしていない風の演出。

頑張っていない感じの作り方。

たまたま充実しているように見せる方法。

リアルっぽい生活の見せ方。

人間は、どんなルールにも慣れる。

慣れると、攻略する。

攻略すると、そこに新しい演出が生まれる。

盛ることに疲れて生まれた場所でも、しばらくすると盛らない風に盛る技術が生まれる。

これはかなり人間らしい。

リアルさも、空気になる。

空気になると、商品になる。

商品になると、また疲れる。

前に書いたカルチャーの循環にも近い。

カルチャーは、何かへの疲れや違和感から生まれる。

しかし広がると、市場化され、制度化され、また別の地下が生まれる。

BeRealもたぶん同じである。

Instagram疲れへの反動として出てきた。

でも広がれば、BeReal的なリアルさもまた様式になる。

盛らないことが、次の盛り方になる。

リアルが、次の演出になる。

9. カウンターカルチャーは、いつも疲れから生まれる

カウンターカルチャーは、多くの場合、何かへの疲れから生まれる。

過剰なルールへの疲れ。

整いすぎた社会への疲れ。

綺麗すぎる表現への疲れ。

商業化されたカルチャーへの疲れ。

成功の物語への疲れ。

BeRealも、その意味では小さなカウンターカルチャーだったのかもしれない。

Instagram的な映えへの疲れ。

自己演出への疲れ。

常に見られることへの疲れ。

ちゃんと盛らなければならない空気への疲れ。

そこに対して、2分で撮るという雑なルールが入る。

雑であることが、逆に救いになる。

この雑さは重要である。

綺麗すぎる場所では、人は失敗しにくい。

整いすぎた場所では、変な自分を出しにくい。

完成された自己演出空間では、未完成な自分を出すのが怖くなる。

だから、少し雑な場所が必要になる。

少し失敗できる場所。

少し変でもいい場所。

少し整っていなくても許される場所。

BeRealが刺さったのは、この雑さの余白があったからではないか。

10. それでも人はまた盛り始める

ただし、人はまた盛り始める。

これはたぶん避けられない。

人は見られたい。

よく見られたい。

分かってほしい。

少し特別に見られたい。

かっこよく見られたい。

可愛く見られたい。

面白く見られたい。

充実しているように見られたい。

その欲望は消えない。

だから、どんなSNSでも最終的には演出が生まれる。

盛ることが禁止されても、盛らないように盛る。

加工が禁止されても、自然に見える角度を探す。

リアルが求められれば、リアルっぽさを作る。

これは人間の弱さでもあり、面白さでもある。

人は完全にリアルではいられない。

誰かに見られる時点で、もう少し演じている。

だから、BeRealを純粋なリアルとして見ると、少し違う。

BeRealは、本当の自分を出すSNSというより、演出の責任を少し軽くするSNSである。

人間は演じる。

でも、演じ続けるのは疲れる。

だから、演じきれなかったことにできる場所を求める。

ここに、BeRealの面白さがある。

11. 結論

Z世代は、もう盛るのに疲れたのかもしれない。

ただし、それは盛ることが嫌いになったという意味ではない。

盛ることは楽しい。

自己演出は楽しい。

自分を綺麗に見せることも、かっこよく見せることも、生活を美しく編集することも、人間にとって自然な欲望である。

でも、それをずっと求められると疲れる。

Instagramは、自己演出の完成度を上げすぎた。

だから、その反動として、盛れなかったことにできる場所が必要になった。

BeRealは、盛らないSNSではない。

盛れなかったことにできるSNSである。

2分しかなかった。

今これだった。

準備できなかった。

だからこれでいい。

その言い訳を、システムが先に用意してくれる。

そこに安心があったのだと思う。

でも、BeRealもまた最適化される。

自然っぽさも様式になる。

リアルも演出になる。

カウンターカルチャーとして始まったものも、広がればまた空気になる。

そして人は、また次の地下を探し始める。

たぶんSNSの歴史は、その繰り返しである。

盛る。

疲れる。

逃げる。

逃げた場所も、また盛られる。

そしてまた、別の場所を探す。

人間、ずっと面倒である。

でも、その面倒さがあるから、次のカルチャーも生まれるのだと思う。

SNSやカルチャーが、疲れや違和感から別の場所を作り、やがてまた最適化されていく流れについては、こちらの記事でも書いた。

欲望や自己演出が、自分のものなのか、それとも誰かに欲しいと思わされたものなのかについては、こちらで掘っている。

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