【哲学的捕手論考】まだ成りつつある者へ【吉田賢吾】
はじめに
まずは、なぜこのテーマなのか、どういうことを語るのか、こちらのnoteを読んでいただけると幸いです。
このnoteは捕手を例に出して哲学の用語を説明しつつ、捕手のあり方を考えてみようという試みのもとにあります。
捕手というポジションは、不思議なほど「哲学的」です。投手の球を受けながら、同時に試合全体の流れを読み、次の一球に責任を引き受ける。
このnoteでは、ファイターズの捕手たちを題材に、哲学者たちの思想を借りながら「捕手の在り方」を言葉にしてみようと思います。
難しい専門的議論ではなく、あくまで「捕手をどう理解するか」という私自身の視点の整理です。
捕手というポジションは、技術やデータだけでは語りきれない「思考と選択の物語」でもあります。
田宮裕涼とサルトル。
郡司裕也とデカルト。
進藤勇也と西田幾多郎。
吉田賢吾とアリストテレス
梅林優貴とメルロ=ポンティ。
彼らのプレーが、どんな哲学的問いにつながるのか。そしてその問いが、捕手という存在をどう照らし出すのか。
私は専門的な哲学の徒ではありませんが、一緒に勉強しながらそれを紐解いていきたい────
そんな小さな思考の旅に、少しだけお付き合いください。
まだ成りつつある者へ
吉田賢吾のポジションは、どこになるのでしょうか。皆さんはどこが良いと思いますか?
外野手? コーナー?
「捕手を諦めたくない」という声もきっとあるでしょう。
「捕手論考」とは言うものの、25年シーズンに吉田が捕手で先発したのは一度だけ。今の彼は、どのポジションにも可能性が広がっている選手です。
そして打撃のポテンシャルも高く、それを無視することはできません。
そう、この 「可能性」 こそ今回のテーマです。
題材はアリストテレス。
自然学の立場から世界を観察したアリストテレスは、物事がどのように「可能性」から「現実」へそして「完成」へ移っていくのかを深く考えました。
その哲学は、吉田の未来を見るヒントにもなるはずです。
少し難しい内容になりますが、できるだけ噛み砕いて説明します。
一緒に学んでゆきましょう。
吉田とアリストテレス
吉田といえば、ユーティリティ性と打撃の良さを併せ持つ選手です。実は二塁送球も速く、フレーミングもなかなか良い。守備の精度や経験を深めていけば、捕手の可能性だってまだ残されているかもしれません。
けれども現時点では、どのポジションにも収まりきらない。
複数の方向へ開かれている。
これをただ「未熟」だと見るのは、少し違う気がします。
むしろ 今の吉田にしか持てない「価値」 だと私は考えています。
一方でアリストテレスは、世界のあらゆる存在を 「まだ成りつつあるもの」 として捉えました。
これは、今の吉田の姿にも重なって見えます。
アリストテレスはプラトンに師事しながらも、実在の世界を観察する立場を貫き、そこから独自の哲学を生み出しました。
アリストテレスが見つめた「可能性から完成へ向かう道筋」を辿ることは、吉田のこれからを考える上でも、ひとつの示唆になるのではないか──
そんな思いから、今回この章を書いてみようと思いました。
アリストテレスの世界の捉え方
では、可能性から現実へ、そして「そのものらしい完成」へと向かう動きをアリストテレスはどう表現したのでしょうか。
これを吉田の打撃と織り交ぜて説明してみます。
まずアリストテレスは事物の生成は「可能的なものが現実的なものに発展すること」だと考えました。
ここで出てくる「可能的」なもの、つまりまだかたちになっていないけどこれからなりうるもの、能力、可能性、可能態のことを
デュナミス(δύναμις)
と言います。
今風にわかりやすく言うと「ダイナミクス(Dynamics)=力学、物理的挙動や変化過程」の語源です。
ものごとはこのデュナミスから始まります。
吉田で言うと
打撃センス
身体能力
二塁送球の速さ
といった、「まだ固定化されてはいないけれど、選手としての可能性を豊かに抱えた部分」がデュナミスです。
もっと簡単に例えるならば、家づくりにおけるまだ加工されていない木材。どんな家にもなりうる素材の段階です。
ここでデュナミスをどのように動かすかを決定づけるものが、
エイドス(εἶδος)
です。
コーチとの出会いによる打撃の方向性の獲得、投手との出会いから得られる配球観──これらは吉田の可能性に「こうありうる」という輪郭を与える働きを持ちます。
先程の家の比喩ならば、家の設計図のようなものです。
そして「現実的」なもの。
デュナミスがエイドスに導かれ実際のかたちや行為になること、活動、現実性、活動実現態のことを
エネルゲイア(ἐνέργεια)
と言います。
吉田ならば
「こう打つ」が身体化し、バットが走り、実際に球が飛び、結果が出た時
捕手として思うように状況を操作できた時
などでしょう。
家の話ならば、お分かりの通り、家が建つことです。
難しいのは、アリストテレスの哲学はここでおわりではないことです。
しかしエネルゲイアの「先にある別の段階」でもありません。
アリストテレスは「その存在が本来もつ目的が自ずと達成されている状態」、完成態、終局実現状態のことを
エンテレケイア(ἐντελέχεια)
と言いました。
それは何かが「ただ実現している」だけでなく、「そのものらしく実現されている」状態です。
家の話ならば少しはわかりやすいですね。そこに生活する人がおり、機能として完全に成り立っている状態「家として生きている」状態です。
吉田ならば、「吉田らしい打撃」「吉田らしい守備」が確立され、吉田自身がそのように動けていることでしょうか。
この
デュナミス
↓
(エイドスによる導き)
↓
エネルゲイア、そしてエンテレケイア
という流れ、これが万物の中で起こっているというのが、アリストテレスの世界の捉え方です。
吉田賢吾という選手を理解することは、彼の中で進行しつつあるこの運動──可能性から現実へ、そして「吉田らしい完成」へ向かう軌跡をそっと見つめることでもあるのです。
未決定という価値
ここまではアリストテレスのデュナミス、エイドス、エネルゲイア、そしてエンテレケイアという概念をそれぞれ吉田で例えてみました。
そして今の吉田はまだ未決定の「デュナミス」、いわば種の状態です。でもただのデュナミスではない。アリストテレスにおけるデュナミスとは、単なる未成熟ではなく、それ自体がすでに「目的へ向かう力」を内包した状態です。
吉田はまさに、まだ形を取らない力を豊かに抱え様々な花が咲く可能性を持った、価値ある存在です。
未決定であることは決して「まだ定まらない」=「弱い」わけではありません。
むしろ、今は「多様なエイドスと結びつく余地を持っていること」が、強みですらあります。
では吉田はどんなエイドスとこれから出会っていくのでしょうか。
例えば捕手のエイドスなら、ゲーム全体を見ることや捕手の哲学、つまり「知性による全体把握」に出会い、それを身につけることで、吉田は自然と捕手として成長していきます。
内野のエイドスなら判断の速さなど、「瞬時の判断による秩序づけ」でしょうか。 外野のエイドスなら「広い視界による流れの読解」。
そうした「プレーの中での気づき」を得た時、吉田の芽は少しずつそれぞれのあるべき方向に伸びてゆきます。
他に、コーチや周りの選手との出会いも大事です。チームの中での役割の変化なども、吉田の方向性の決定に影響を与えるでしょう。
そうした時に、「まだ未決定で未分化ながらもすべての可能性が閉ざされていない」ことは、大きな強みなのです。
吉田賢吾のポテンシャルは、「どのエイドスへ収束するのかがまだ決まっていない状態」そのものに宿っています。
だからこそ、彼を語る言葉は未来形になる。
彼がどの方向へ伸びていくかは、まだ誰も知らない。しかし、その未知こそが吉田の現在の価値であり、彼を見守ることの面白さなのです。
吉田がポジションを得るために
現段階での吉田賢吾は、ポジションも役割も揺れていますが、その揺らぎは決して個人の迷いだけではありません。むしろ、チームの「まだ定めていない未来」そのものを映す鏡ではないでしょうか。
ファイターズというチームもまた、デュナミスの状態にあります。
機能するチームの完成、そしてその先にある優勝という理想へ向かっている途中──まだ「成りつつある存在」です。
そして、チームが掲げるべき「どういう野球を理想とするのか」というエイドスは、今のところまだ完全には結晶していません。
チーム哲学の揺らぎ。
育成の方針、捕手像、守備の価値観、攻撃の理想──それらが揺れているからこそ、吉田にも揺らぎの余地が生まれている。
つまりこれは、吉田だけの問題ではなく、チームのエイドスが未決定であることの反映でもあるのです。
しかし、エイドスなしにはエンテレケイアには届かない。
方向性なしには、「そのものらしい目的を果たす姿」は決して形にならない。
それはチームも吉田も同じです。
吉田の可能性は、「誰と出会うか」「どんなチーム理念と接続するか」によってその姿を大きく変えていくでしょう。
だからこそ、選手がどの方向へ伸びるべきか、どんな未来を目指すべきか──
その環境と方向性を提示するのはチームの役割なのだと思います。
そしてその理念が明確なほど、チームは強くなり、吉田の可能性は最大限に引き出されていく。
どんな色の花が咲くのか。
その未来への静かな約束は、いまファイターズの手の中に託されています。
私は、吉田という種の花が大きく、美しく咲くことを願っています。
おわりに
ふと、哲学という言葉の語源であるφιλοσοφία(フィロソフィア)──「知を愛すること」を思い出します。
この言葉を最初に用いたのはアリストテレスと共にプラトンの弟子であったソクラテスとも言われていますが、ともかくこの時代に哲学は「哲学」として名前を授かったわけです。
「哲学」というと難解な気がしてしまいますが、「知を愛すること」は誰にでもできます。
わからない問題や知識、知恵に触れることを慈しむ。野球も広く捉えればまた、できないことや様々な知識、そして絶えず迫りくるボールという問題に向かっていく行為です。
答えの定まらないものに向き合うその姿勢こそ、人を育てる根っこになるのかもしれませんね。
(R.I.P私の最初のタイトル案「ただ可能性伝えたくて」「ケンティーとフィロソフィー」、ここに眠る。)
さて次回は「梅林優貴とメルロ・ポンティ」をお届けします。
更新は一週間後を目安としていますので、楽しみにしてくだされば幸いです。
それでは。
前回はこちら
参考文献:『アリストテレス全集 4 自然学』
岩波書店
内山 勝利 神崎 繁 中畑 正志 編集
