【哲学的捕手論考】小さな身体の可逆性【梅林優貴】
捕手が球を受ける時、もしくはバットがボールに当たる時、それは「能動」だと思いますか?「受動」だと思いますか?
私のnoteを読んできた人ならこの問いに心当たりがあるかもしれません。
進藤の章では──西田幾太郎は「『能動か受動か』という区別そのものが生まれていない『純粋経験』である」と説きました。
西田はあの瞬間を「主客未分」と言いました。
その未分の瞬間を、身体の側から見つめた哲学者がいます。メルロ=ポンティです。
では問いを変えます。
捕手は世界をどう「知覚」しているのか?
もっと言うと捕手の身体は、どのようにして「世界と結びついている」のか?
そこで鍵になるのが、メルロ=ポンティという哲学者です。
彼にとって、主体と客体を切り分けることそのものが、私たちの世界の見方を貧しくしてしまう。
知覚とは「捕手」と「ボール」のように分離した二者の関係ではなく、むしろ互いが触れ合い、溶け合い、影響し合う「あいだ」で起きている。
捕手の身体はボールを「見る」だけでなく、ボールの速度や軌道に「動かされてもいる」。
だからこそ、捕手の身体と世界は交差しながら一つの「現象」を形づくっている。
伝わりますか?(はい、聞こえていますよ、「難しい!」って声)
そんな難解で詩的だけど面白い「現象学」の世界を紐解きながら、「身体で世界を読む梅林」の像をイメージし、そのあり方を考えようと思います。
近現代の深い哲学の海に一緒に潜りながら、梅林の「身体で読む世界」をそっと照らしていきますね。
今回は確実に長くなりますが、最後まで読んでもらえるととても嬉しいです。
梅林とポンティ
私が梅林優貴という捕手に惹かれてきた理由のひとつは、その技術や数字だけではなく、「身体そのものの感じ方」 にあります。
梅林の合わせにいくキャッチングや呼吸の合わせ方、球を待つときの構え、投手や打者の「間」を読む感覚──
その身体をかたちづくる筋肉、繊細な感受性。
そこには単なるスポーツの身体ではなく、世界と交わる特有の仕方があるように思うのです
私の脳ではこの「好き」を完全には言語化できないけれど、とにかく梅林の存在であるところの身体、プレーの全体が良い。
そしてポンティも私の気になる哲学者です。
ポンティは詩のように哲学を語ります。彼は現象学というその時代の潮流に身を置きながら、「現象学的記述」という独自の方法で世界に触れました。
彼が語る哲学についてがわかる一節を引用した方が早いかもしれません。
事象そのものへとたち帰るとは、認識がいつもそれについて語っているあの認識以前の世界へとたち帰ることであって、一切の科学的規定はこの世界にたいしては抽象的・記号的・従属的でしかなく、それはあたかも、森とか草原とか川とかがどういうものであるかをわれわれにはじめて教えてくれた風景にたいして、地理学がそうであるのとおなじことである
つまり、「自然や風景への体感に対して地理学を引用するようなやり方は、現象そのものへは届かない」と言っているのですが(これについては【おわりに】で私見を述べようと思います)、とにかく彼が言う「身体は世界へ開かれている」──私は梅林の身体に、それととてもよく似た現象を感じています。
その身体性に対して梅林はどう世界を受け止めているのか、つまり梅林にとっての知覚はどのようなものであるかを、ポンティの視線で解釈したいのです。
ポンティの現象学
ポンティの話にいきなり入る前に、ポンティが身を置いた「現象学」の大前提、「現象」とは何かを知っておかなければなりません。
簡単に説明します。
まず現象学とは、哲学の一ジャンルで、世界を自明のものとして扱うことを保留し、「ものごとが人間にどう現れてくるか」を扱い、「世界の意味の立ち上がり方」、その生成を重視するものです。
つまりここで扱われる「現象」は
身体
感覚
時間性
関係性
などを含んだ、人間への「現れ方」そのものを指します。
特にポンティが重視したのは「知覚」です。
ここで「キアスム」という考え方が登場します。
例えば人と手を繋いだとき、身体は「触れている」と同時に「触れられている」という可逆性を持ちます。
能動と受動は分離できず、同時に起こっている。
この二重性、境界の揺らぎ、相互反転性こそがキアスムです。
梅林を見る時、野球選手としての梅林と、人としての梅林があるとしましょう。
野球選手としての側面を掘り下げれば、人間的な資質に必ず触れます。
逆に「人としての梅林」を探求しても、彼が職業として野球に生きているという事実は切り離せません。
ものごとの意味もまた、このように互いを映し込み、交わりながら立ち上がってきます。
このキアスムが、身体と世界のあいだで絶えず起こっている。
感覚の主体が一方的に世界を把握するのでも、世界が一方的に流れ込んでくるのでもない。
そのあいだの相互運動として「知覚」が生まれるのだ──これがポンティの考え方です。
知覚は関係のあいだに
(どうしても難しかったらここは読み飛ばしても大丈夫です。)
ポンティにとって「知覚」は単なる情報の受け取りではありません。
「見る」ことひとつをとっても、主体が離れて客体を観察する行為ではなく、身体と世界が触れ合い、共に一つの現象をつくることだと考えました。詳しく説明します。
身体は世界に向かう動き、すなわち「志向性」を持ち、同時に世界の一部として溶け込んでいます。だから、考える前に触れているのです。
捕手で言えば、常に野球を通して世界へ向かい、フィールドの一部となっている――そんな感覚です。
知覚は関係のあいだに現れます。ここでは「膜」と表現するのがわかりやすいでしょうか。
身体と世界のあいだ、ミットとボールのあいだ、投手と捕手のあいだ。物理的距離ではなく「関係」が現出するところに、知覚の膜が生まれます。
一方が志向性を発すると、その膜は揺らぎ、「襞」をつくります。膜の両側で起こるその揺らぎこそが、世界と身体が互いに作用し合っている証拠です。
この段階では、知覚は何かを切り離して観察する以前に「ひとまとまりの場」として現れます。光や音、匂い、自分の身体感覚はバラバラに入ってくるのではなく、「その場の雰囲気」としていっぺんに立ち上がる。
球場の空気、相手打者の間、投手の球質、ボールの来る感触──こうしたものが同時に流れ込み、捕手で言うならばそのまとまりによって投球から0.5秒のあいだに判断を下せるわけです。
そして先に述べたキアスムがここで働きます。
捕手がボールを掴みに行くとき、能動的な動きとボールの回転や軌道による導きは同時に起きる。
ボールの感触が手に伝わり、手がボールを押し返す。触れることと触れ返されることの相互関係の中で、世界と身体がはじめて「知覚」として結びつくのです。
とても難しいですが、身体と世界の知覚を通した相互性を理解できたでしょうか。
これが梅林のキャッチングには現れていると私は思うのです。
なぜ捕手のキャッチングを語るのに、キアスムが必要なのでしょうか。それは捕球という行為が「ボールと身体が互いを形づくり合う瞬間」だからです。
梅林のキャッチング
ではここから話を梅林に戻します。
多くの捕手はボールが来た時にまず身体を合わせにいき、そして最後に手でフレーミングをします。
しかし梅林のキャッチングをよく見てください。
ボールが放たれた瞬間、梅林は「ボールを捕る動き」と「フレーミングを完成させる構え」を同時に始めています。ボールの回転、角度、軌道に導かれ、最適な位置に身体が動き、ボールがついた時にはビタ止めしているように見える。
このボールとのキアスムがわかるでしょうか。
ボールは梅林を導く。
梅林もまたボールを導こうとする。
能動と受動の境界が揺らぎ、相互の運動がひとつに溶け合い、その「あいだ」に捕球が立ち上がる。
その結果としてビタ止めしているように見えるのです。
あれはただ静止しているのではなく、世界との交点を身体で示しているのです。
ボールが来てから判断していては、この動きはできません。
梅林は見てから動いているのではなく、動きながら見ている。これはポンティの言う「考える前に世界と触れ合っている身体」の最たるものだと思います。
梅林は可逆的な知覚によって投手の感覚までも読んでいるから、手元に来てからのボールを動かすのではなく、身体を使った細やかなキャッチングができる。
この可逆的な知覚は、梅林のキャッチングにだけ現れているのではありません。
配球の選択、間の取り方、投手の呼吸の読み取り──そのすべてに、同じ交差の構造が働いているように思えるのです。
捕手という関係の職業
つまりフィールド上の捕手という職業は、ただボールを受け取るだけではありません。
フィールド全体、投手、ボール、試合の流れ、風向きや相手打者の雰囲気までを感じとり、そのすべてに導かれながらプレーする存在です。
そしてその「雰囲気」を統合し、変える力を持っている。
梅林はその感受性がとりわけ強い。
だから独りよがりな配球で試合を壊さない。
強気に行くべき流れも、落ち着くべき瞬間も、彼の身体は知っている。
梅林のキャッチングは、ポンティの思想をただ説明するための素材なのではなく、むしろそれを「生きたかたち」にしている。
ここまでキアスムを手がかりに梅林の動きを見てきましたが、最後に言えるのは──
私たちは梅林のキャッチングを通して、ポンティの思想を理解しなおしたのです。
私たちはポンティを読むために哲学書を開いたのではなく、梅林の身体を理解したくて、その結果ポンティの思想へ導かれたのだと気づきます。
捕手は世界をどう「知覚」しているのか?
もっと言うと捕手の身体は、どのようにして「世界と結びついている」のか?
その答えは、私たちが知覚で感じる梅林のキャッチングそのものなのでしょう。
おわりに
【梅林とポンティ】の中で、ポンティの一節を引用しましたね。この一節が私はとても好きなのですが、それはここに出てくる自然の風景はきっとただの風景ではないからです。
ポンティの育ったフランスの風景を想像してください。春の雪解けの小川が流れ、夏は青々とした低木や柳の葉がそよぎ、秋は彼の故郷のシャラント川に赤く色付いた葉が落ちていく──きっとこんな印象派の絵画のような風景ですね。
同様にこんな心の風景は私達にもありませんか?
田園がのどかに繋がる田舎道、遠くには綺麗な三角形の山々が連なり、入道雲が立ち上がる……やかましい蝉の声も土鳩の鳴き声も、何か夏を彩るような……
そんな日本の「原風景」は想像に容易いと思います。
原風景を想像した時に心に広がる感覚やイメージ(私は北海道民なのにこれを懐かしく感じます)までも、これがポンティの語る「現象」の大事なところであると思うのです。
彼の哲学は水のように掴めないけれど、その手に感触が残る。そんな楽しみ方ができます。
ここまで読んでこれた方はきっともう哲学の水に馴染んでいます。
ぜひ私と一緒に語りましょう。と言っても私も初学者ですが。
前回はこちら
参考文献
知覚の現象学 М.メルロ=ポンティ
中島盛夫訳
法政大学出版局
