【歴史学の歴史3】中国史学の成立
こんにちは、ニコライです。今回は【歴史学の歴史】第3回目です。
前回の記事はこちらから。
古代オリエントで歴史記述が始まり、古代ギリシャにおいて歴史学が誕生していたちょうど同じころ、ユーラシア大陸の東の反対側にある中国においても、歴史学が産声を上げていました。今回は、古代中国における歴史学の成立について見ていきたいと思います。
1.甲骨文と文字記録のはじまり
現存する中国最古の文字記録は、実在が確認されている中国最古の王朝・殷の時代に作られた甲骨文です。
甲骨文とは亀の甲羅や牛の骨に文字を刻んだものであり、その多くは王や王族などによる卜占について書かれていることから、卜辞とも呼ばれます。卜辞は、卜占に用いられた甲骨に占った内容やその結果を記録したものであり、卜占の内容だけでなく、その結果が的中したかどうかまで書かれています。

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また、一部の甲骨には紐を通したらしい丸穴が開けられていることから、殷の人々は記録として参照するために、複数の甲骨を取りまとめて保管していたのではないか、と考えられています。
甲骨文には、少数ではあるものの、卜占以外のことが記録された記事刻辞と呼ばれるものもあります。例えば、卜占に必要な資材の納入記録や、狩猟に関する記録、貴族の系譜、干支表、あるいは字の練習のために刻まれたものなど、です。
このように、中国最古の王朝から、出来事を文字に記録するという営みが始まっていたのです。
2.金文と歴史意識の誕生
甲骨文と並ぶ古代中国の文字資料が、金文です。金文とは青銅器に刻まれた銘文のことで、もともとは青銅器を捧げる対象となる父祖の号が鋳込まれていましたが、殷末になると製作縁起を記録した長文の金文が作られるようになりました。前11世紀半ばに殷が滅ぼされ、周王朝の時代(西周)に入ると、金文は主要な記録文書となっていき、作成者個人やその一族が関わった戦争、祭祀儀礼、官職の任命、商取引、土地をめぐる裁判記録など、多種多様な事柄が記載されるようになります。

殷末の青銅器。サイの形をしているが、その腹中に製作縁起が刻まれている。
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さらに、その内容は単なる記録にとどまらなくなっていきます。
例えば、西周前半期の大盂鼎には、周王が盂という人物に対する命令と戒めの言葉を記録したものとして、次のようなものがあります。
我聞くならく、殷の命を墜とせるは、唯れ殷の辺侯甸と殷の正百辟、率く酒を肆にするの故に師を喪うなり。
「酒池肉林」の故事で知られているように、殷末の紂王には、連日酒や肉を浪費する酒宴を行っていたという話が伝わっています。この銘文では、殷王と臣下が酒にふけったことが、殷の滅亡につながった、という認識が示されており、だから飲酒を慎むべきである、ということが述べられています。

殷最後の王。中国史書の中ではすこぶる評判が悪く、「酒池肉林」の故事のほか、妲己という妃を寵愛して政治を疎かにした、臣下を残虐の方法で処刑したという話が伝わっている。
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また、西周後半の逨盤には、逨という人物の一族の事績について、次のように述べられています。
逨よ、丕顕なる文武、大命を膺受し、四方を敷有するに、則ち旧とより唯れ乃の先聖祖考、先王を夾詔し、大命を功勤す。
ここでは、殷を討伐した文王・武王の時代から、逨の一族である単氏が歴代の王を補佐してきたことが述べられています。しかし、単氏が頭角を現すのは西周王朝中頃からであり、それ以前の動向ははっきりしないことから、この話は逨の代に創作されたのではないかと言われてます。理由はどうであれ、ここからは現在の正統性を示すために、過去を改変するという行為がなされているのです。

殷末の周の君主。牧野の戦いで殷軍を破り、周王朝を創始した。儒教において理想化された君主の一人。
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このように、西周の時代の金文からは、過去から教訓を学んだり、過去の出来事から現在の正統性を示そうとする歴史意識の誕生を見出すことができるのです。
3.中国最初の歴史書『春秋』
前770年、周は都を渭水流域の鎬京から黄河中流の洛邑へと遷都します。これ以降を東周といいますが、周の王権は弱まり、諸侯の自立化が目立つようになっていき、春秋戦国時代という分裂期となっていきます。

この時代、周は一地方政権へと転落し、諸侯国が覇を求めて争うようになる。戦国時代には、周の王権はないがしろにされ、諸侯が王を名乗るようになる。
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この時代、中国史上最初の「歴史書」と呼べる書物である『春秋』が執筆されます。『春秋』は魯の国で作成された年代記ですが、その内容は魯だけでなく、当時の諸侯国ほぼ全域に及んでいます。そして、その著者は儒家の開祖・孔子であるとされ、儒学の経典である五経のひとつにも数えられています。

儒学の開祖であり、古代中国最大の思想家。分裂期だった春秋戦国時代には、儒家の他、道家、墨家、法家といった様々な学者・学派、いわゆる諸子百家が登場した。
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さっそく最初の隠公元年の記事を見てみましょう。
元年春、王の正月。
三月、公、邾の儀父と蔑に盟す。
夏五月、鄭伯、段に鄢に克つ。
秋七月、天王、宰咺をして来りて恵公・仲子の賵を帰らしむ。
九月、宋人と宿に盟す。
冬十二月、祭伯来る。公子益師卒す。
なんと1年間の出来事がたった6行にまとめられています。これでは具体的に何があったのか、どういう背景事情があるのか、登場人物はどこのだれなのか、といったことが全く読み取れません。
このようにめちゃくちゃシンプルな記述の『春秋』ですが、その文字や語法には、非常に奥深い意義があるとされ、『春秋左氏伝』、『春秋公洋伝』、『春秋穀梁伝』といった注釈書が作成され、通常これらの注釈と併せて読むことになっています。
例えば、上にあげた「夏五月、鄭伯、段に鄢に克つ。」という一文を見てみましょう。『春秋』が伝えているのは後にも先にもこの一文だけですが、『左氏伝』によれば、これは鄭という国で、その君主である荘公が、母親と共謀して自身を追い落とそうとした弟の段を鄢という地で破り、段は他国へ逃亡した、という出来事のようです。そして、段は弟として相応しくない行ったため荘公の弟と書かれず、荘公もまた批判される点があるから兄と書かれていないなど、この出来事がなぜこの短い文章で表されているのか、という理由も説明されています。
このように、儒教の教えと照らし合わせ、理想の人間像や社会・秩序の在り方という価値観があり、そうした価値観をもとに過去の出来事がどう評価できるか、を前面に押し出しているのが、『春秋』とその注釈書の特徴といえます。
4.中国史学の父・司馬遷
前221年、戦国の七雄の一国であった秦によって「中国」は史上初めて統一されます。しかし、秦帝国は短命に終わり、10年弱の戦乱の後、漢によって再び統一帝国が築かれます。

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この漢(前漢)の時代に、後の中国の歴史学に多大な影響を与えた人物、司馬遷が登場します。司馬遷は、代々太史令という官職を世襲する家系に生まれ、父司馬談の遺志を受け継ぎ、夏殷周の三王朝の時代から、司馬遷が生きた漢の武帝の時代に至る歴史を記した『太史公書』、後に『史記』と呼ばれる書物を編纂しました。

父・司馬談の死後、太史令を拝領し、太初暦制定などに携わる。しかし、匈奴に敗れた李陵を擁護したことが武帝の怒りを買い、宮刑に処される。その後は中書令として働きながら前90年に『太史公書』を完成させる。
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『史記』は叙述のスタイルとして紀伝体が採用されています。紀伝体とは、王・皇帝のことを記した本紀と、臣下のことを記した列伝を必須とするスタイルで、これに加え、礼制、法制、経済など各分野の制度史・文化史を記した書、各時代の年表をまとめた表、諸侯の年代記である世家が設けられています。この構成は、書が志になり、世家が無くなるといった変更はあるものの、後の中国の歴史書の基本的なスタイルとなっていきます。

『史記』の全体の構成としては、本紀12巻、表10巻、書8巻、世家30巻、列伝70巻となっている。
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ひとつ触れておかなければならないことは、『史記』が編纂された当時の中国には、歴史書という書物のカテゴリーは存在しなかったということです。『史記』は、先行する『春秋』と同じく経書、すなわち儒教の書だと見なされており、史書というジャンルができるのは、後漢末に『太史公書』が史官(書記官)の記録を意味する『史記』と呼ばれるようになったころだと考えられます。
司馬遷は、無意識ながら中国において歴史というジャンルを創設した人物であり、『歴史』を著したヘロドトスが「歴史の父」と呼ばれるのであれば、司馬遷は中国における「歴史の父」と呼ぶことができるでしょう。
5.「正史」のスタンダード『漢書』
前漢は司馬遷から100年余りの間に衰退していき、前8年にいったん滅亡しますが、その後、紀元後25年に再興されます。これ以降の漢帝国を後漢と呼びます。
この時代、『史記』を継ぎ、その続編を書こうとした人物がいました。それが班固です。班固は父である班彪の未完成に終わった歴史書を引き継ぎ、皇帝からの命も受け、『史記』で書かれている武帝からさらに100年間の歴史を記した『漢書』を執筆します。

司馬遷と異なり官職を持っていたわけでもなく、完全に個人的な動機から執筆を開始する。国史を改作しているという嫌疑でいったん捕まったりもした。結局、未完成のまま亡くなってしまい、妹・班昭や馬続という人物が受け継ぎ、ようやく完成させた。
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『漢書』は先行する『史記』に意識しており、紀伝体編纂され、内容についても『史記』も記述に負っている箇所が多く見受けられますが、当然相違点もあります。まず、司馬遷の『史記』が夏殷周王朝から前漢までの約2000年の歴史を扱っているのに対し、『漢書』は基本的に前漢のみを対象としている点です。このように一つの王朝のみを扱うスタイルを「断代史」といい、以降の中国の歴史書では「紀伝体の断代史」が、スタンダードなスタイルとなっていきます。
もうひとつ、大きな相違点があります。こちらは具体例から見てみましょう。漢の初代皇帝・劉邦亡き後、皇后だった呂后は息子である恵帝を脅かしそうな人物を排除しようと、劉邦の愛人だった戚夫人の子如意を毒殺し、戚夫人には手足を切断し、目や耳を潰すという残虐な仕打ちをします。さらに、恵帝の異母兄である斉王劉肥をも毒牙にかけようとしました。

前漢時代のトイレの模型。左下にある小屋で用を足すと、排せつ物が下に落ち、そこで飼われている豚がそれを食べるという構造になっている。手足を切断された戚夫人は「人彘」と名付けられ、トイレ下の豚小屋に投げ込まれたと伝えられている。
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こうした呂后の残虐な行いについて、『史記』では全て本紀、すなわち書のメインに当たる部分に書かれています。ところが、『漢書』では、これらの話は本紀から削られ、ずっと後ろの列伝に追いやられています。つまり、『漢書』では、漢王朝にとって好ましくない話は、削除まではしないまでも、なるべく目立たないように編集が加えられているのです。
このように、『漢書』は事実をありのままに記すのではなく、時の権力者に配慮した記述をしてしまっているのです。班固の真意がどうあったにせよ、『漢書』の叙述姿勢は、権力者の奉仕する歴史学という中国史学の方向性を決定づけてしまったのでした。
6.まとめ
殷王朝における過去の出来事の記録の始まりから、後漢における『漢書』の成立までの約2000年の歴史を見てきました。これ以降、中国の歴代王朝では歴史学が非常に重要な位置を占めるようになり、膨大な量の歴史書が編纂されることになります。その数は、清代の『四庫全書総目提要』によれば、2134部・3824巻といわれ、その間に失われてしまった書籍も含めれば、さらに多数に上ると考えられます。この膨大な史書の集積は、大航海時代に中国を訪れたヨーロッパ人を驚愕させることになります。
しかし、先に述べたように、中国の歴史学は「史実を探求する」というものではなく、儒学という特定の価値観から評価することが前提となっていたり、時の権力者にとって都合よく編集されることがあった、といった点は留意が必要です。中国の歴史学とは、古代ギリシャのような自由な学問ではなく、歴代王朝における制度の一部だったとみるべきでしょう。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
参考
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