【歴史学の歴史6】中世イスラムの歴史認識
こんにちは、ニコライです。今回は【歴史学の歴史】第6回目です。
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7世紀に登場したイスラム教。預言者ムハンマドへの啓示から始まったこの新宗教は、瞬く間にアラビア半島全体へ、そして西はイベリア半島から西はインド、北は中央アジアにまで拡大していきます。こうして成立したイスラム世界は、近代以前のユーラシア大陸における文化の中心地のひとつとなりました。今回は、中世期におけるイスラム教徒たちの歴史叙述と、そこから見える歴史認識について見ていきたいと思います。
1.初期の歴史叙述・ハディース学
イスラム世界における最初期の歴史叙述といえるのが、ハディースの収集です。ハディースとは、預言者ムハンマドの言行(スンナ)の伝承のことで、最後の預言者である彼の死後、残された啓示=コーランの内容だけでは判断が下せない事柄に対処する拠り所として重視されるようになりました。

イスラム教における最後の預言者。もともとメッカの商人だったが、神の啓示を受け、イスラム教を開く。迫害を受けながらも指導者として優れた才能を発揮して教団をまとめ、その教えによってアラビア半島全体を統一した。
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ところが時代が下るにつれ、ムハンマドに関する伝承に様々な異説が登場するようになっていきました。そこで、様々なハディースを収集とその信ぴょう性を検証が行われるようになります。その最初の人物は8世紀に登場したズフリーであり、彼によって生み出されたハディースの批判的検証の方法はその後継者たちによって研磨されていき、9世紀半ばにはハディース学として確立します。そして10世紀初頭までには、スンナ派の主要なハディース集が成立しました。

イスラム世界における知識人層。ハディース学やコーラン解釈学など伝統的学問の担い手だった。
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ハディース学の特徴は、その独特の方法論にあります。それは、あるハディースが誰から誰に伝えられたのかという伝承の系譜(イスナード)を調べ上げ、伝承を伝えたのが本当に同時代人であったのか、虚偽の証言をする人物が混じっていないかなどを調査する、という手法です。こうしたハディース学における手法が、後のイスラム教徒の歴史学にも影響することになります。
2.年代記の確立・タバリー
アラビア語イスラム圏における歴史叙述の方法を確立したのが、10世紀初頭にタバリーによって書かれた大著『預言者たちと諸王の歴史』です。

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タバリーの歴史叙述は、天地創造とアダムとイブの誕生から始まります。意外に思われるかもしれませんが、イスラム教は、ユダヤ教のタナハやキリスト教の聖書を啓典として認めて同じ宗教観を共有していますから、これは当然のことです。つまり、タバリーをはじめイスラム教徒たちも、連載第4回で紹介したキリスト教的歴史観と同じく、コーランで語られる過去の出来事を歴史的事実として認識し、世界は天地創造に始まり、最後の審判で終わるという直線的時間間隔を有している、ということです。

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タバリーの叙述方法は、ヒジュラ※を境に大きく変化します。ヒジュラ以前の出来事は、天地創造、ノアの大洪水、出エジプトなどテーマごとに並べられて説明されています。これに対し、ヒジュラ以後の時代は、1年ごとに出来事が整理されており、文字通りの「年代記」となります。
そして、ヒジュラ以降の叙述のもう一つの特徴が、その大部分がアラビア半島・イラク・シリア、イラン地域における政治・軍事史に限定されていることです。これは、タバリーの目的が、ムハンマドの死後、ムスリム共同体の指導権は、正統カリフ、ウマイヤ朝を経てアッバース朝に引き継がれたことを明らかにすることにあったからです。このため、ヨーロッパやインド、中国など非イスラム圏だけでなく、イスラム圏であっても北アフリカやイベリア半島、中央アジアの地方政権の動向はほとんど無視されているのです。タバリーの描いたのは、限定的なイスラム圏の歴史だったのです。

750年、ウマイヤ朝の支配体制に不満を覚えた人々による革命が起こり、ムハンマドの叔父の子孫であるアブー・アッバースが新たなカリフとなる。この新しい帝国をアッバース朝といい、以降13世紀のモンゴル侵攻まで続く。
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※622年に、迫害から逃れるためにムハンマドらがメッカからメディナへと拠点を移動した出来事。聖遷。イスラム世界では、この年を元年とするヒジュラ暦が使用される。
3.分裂時代のイスラム世界史
タバリーの著作は、イスラム世界の歴史叙述のスタイルのひとつとして受け継がれていきます。しかし、10世紀以降は、タバリーのような世界史的叙述ではあまり見られなくなり、一つの地方、地域、都市を対象とした地方史・都市史へと比重が移っていきます。これは、ファーティマ朝や後ウマイヤ朝など、アッバース朝カリフの権威を否定する政権が登場し、各地の地方政権が自立化を進めるなど、イスラム共同体が分裂する時代に入ったことが影響していると思われます。

10世紀に興ったシーア派のイスラム王朝。アッバース朝に対抗してカリフを名乗り、これに触発されて後ウマイヤ朝もカリフを称したため、イスラム世界はカリフ鼎立の時代に入る。
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ところが、13世紀に入ると、再び世界史的記述が復権します。その代表作が、イブン・アスィールの『完史』です。『完史』はその叙述を天地創造から始め、そして、ヒジュラ以降については1年単位で順を追って記されているなど、タバリーの叙述スタイルを踏襲しています。それどころか、著者自身がタバリーの著作を「十分に信頼のおける書である」と述べている通り、その内容の大部分はタバリーのコピーとなっています。
イブン・アスィールとタバリーの相違点は、イスラム世界の叙述に表れています。先ほど述べたように、タバリーはアッバース朝カリフの正統性を示すために、地域を限定して記述をしました。しかし、イブン・アスィールは東は中央アジアやアフガニスタン、西はイベリア半島まで、特定の地域に偏ることなくバランスよく記述しています。分裂時代に生きるイブン・アスィールは、アッバース朝の正統性にはとらわれずに歴史を描くことができたのです。
4.中世最大の歴史家イブン・ハルドゥーン
14世紀、エジプトのマムルーク朝において、中世イスラム世界における歴史書の最高傑作が生みだされます。それは、イスラム最大の学者とも呼ばれるイブン・ハルドゥーンによって書かれた、『省察すべき実例の書、アラブ人、ペルシア人、ベルベル人および彼らと同時代の偉大な支配者たちの初期と後期の歴史に関する集成』という非常に長いタイトルの著作です。

チュニスの生まれで、幼い頃からコーラン解釈学やイスラム法学を習う。北アフリカやイベリア半島の諸王朝に出仕するが、最後は政治の世界から離れ、学術探求に邁進するようになる。
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同書の第一部では、イブン・ハルドゥーンの文明観と国家観が述べられており、今日ではこの部分だけが独立して『歴史序説』として有名です。それによれば、歴史の動因とは、社会集団内の連帯意識であり、連帯意識が生まれるとこれを統合する指導権、すなわち王権が要求されるようになります。こうして国家が建設されるわけですが、一度国家が建設されると奢侈と安逸から連帯意識は徐々に弱体化していくため、王朝は三世代を経ると滅亡に向かうとされます、そして、支配王朝の崩壊とともに新しい国家の勃興し、これが繰り返されていく、というのです。
第二部では、コーランに基づく天地創造以来の世界史が扱われています。先述のタバリーらと異なるのは、ヒジュラ以降についても年ごとの記述ではなく、出来事ごとにまとめられている点です。そして、イスラム世界についてはなるべく幅広く記述する姿勢を示しており、この点はイブン・アスィールと同様です。しかし、中国やヨーロッパなどの非イスラム圏の歴史は全く扱われていません。第一部では、偏見に満ちながらもヨーロッパやアフリカ、インドや中国に関する記述をしており、彼がこれらの地域に全く無知だったわけではないことから、非ムスリムの歴史は書くに値しないと認識していたと思われます。
イブン・ハルドゥーンは、マムルーク朝の学者たちに影響を与えただけでなく、16世紀にはオスマン朝の歴史家たちに、さらに19世紀ヨーロッパの学者たちにも大きな注目を集めることになります。
5.ペルシャ語圏における歴史叙述
ここまで、アラビア語圏における歴史叙述について見てきましたが、ここでは中世イスラム世界におけるもう一つの主流言語であるペルシャ語圏について見ていきましょう。651年のササン朝滅亡後、ペルシャ語による文学活動は長い間停滞していましたが、10世紀に入って再開します。歴史書に関しては、当初はタバリーの著作のペルシャ語訳が流通するのみでしたが、次第に独自の歴史書も登場していきます。
ペルシャ語圏の歴史家の代表的人物が、ラシードゥッディーンです。ラシードゥッディーンは、当時イランの地にあったモンゴル人政権のイル・ハン朝の宰相で、君主であるガザン・ハンの命を受け、歴史書『集史』を編纂します。『集史』の第一巻は、モンゴル人とチンギス・ハンの家系の歴史を独立して扱っています。これはモンゴル人君主に献呈されたのですから、当然といえば当然でしょう。

イル・ハン朝第7代君主。イル・ハン朝の君主は仏教徒であったが、ガザンは自らイスラムへと改宗し、イル・ハン朝のイスラム化を進めた。
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第二巻の内容は世界史となっており、基本的構成はアラビア語圏と同様で、天地創造からはじまり、ムハンマド時代、そしてアッバース朝カリフ政権の時代を扱っています。しかし、アッバース朝以降のイスラム世界に関しては、イラン高原とその周辺に成立したムスリム諸王朝の歴史のみが扱われています。
『集史』の叙述スタイルは、その後のペルシャ語年代記にも受け継がれていきます。例えば、15世紀の歴史家ミールホンドの著書『清浄の園』において、アッバース朝滅亡後にイル・ハン朝とティムール朝の歴史を記述する一方、マムルーク朝やオスマン朝などシリア以西のムスリム政権については全く言及していません。

チャガタイ・ハン国の武将。チンギス・ハンの子孫である女性と結婚し、娘婿と称して一代で広大な帝国を築き上げた。
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このように、イスラム世界の出来事を幅広く取り上げていたアラビア語圏とは異なり、アッバース朝以降の記述はイラン高原とその周辺のみに限定されているのが、ペルシャ語圏の歴史叙述の特徴です。
6.まとめ
ハディース学から15世紀に至る中世イスラムの歴史叙述について見てきました。最後に今一度、その特徴をまとめて見ましょう。
①ムハンマド以前の歴史叙述
ムハンマド以前に関するイスラム教徒の歴史叙述は、天地創造から始まり、ノアの大洪水などの出来事に続く、基本的にキリスト教などと同じものでした。現代人からすると対立関係にあるように思える両者ですが、歴史認識においては意外と近い関係にあるのです。
②イスラム圏の歴史叙述
ムハンマド以後の出来事については、アラビア語圏とペルシャ語圏とで違いがみられます。すなわち、アラビア語圏ではイスラム世界の出来事は手広く取り上げようとしていたのに対し、ペルシャ語圏では基本的にイラン高原とその周辺のことしか取り上げていません。これはそれぞれの言語圏における世界認識の違いが表れているのでしょう。
③非イスラム圏への無関心
アラビア語圏・ペルシャ語圏ともに、中国やヨーロッパなどの非イスラム圏の歴史については、モンゴルなどイスラム圏と関係が深いものを除き、ほとんど注意を払っていません。彼らにとっては、イスラム圏の歴史こそ記録するに値することだったのでしょう。
イスラム圏における歴史叙述のスタイルは、今回取り上げた中世期にほぼ確立しました。その後はオスマン朝・サファヴィー朝時代に多少の変化はあるものの大枠は変わらず、実に19世紀までイスラム世界史が書かれることになります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
参考
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