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「その歌声、内緒につき。」⑥(終) -???-

【前回の話】

 🏠
 桜井さんとの電話を終えたあと、わたしはベッドに倒れ込んでいた。

 スプリングのきしむ小さな音が、やけに耳に残る。制服のまま仰向けになって、天井を見つめる。ついさっきまで桜井さんの声が流れていたスマホは、もう静かだった。

 桜井さんの言葉が、何度も頭の中で繰り返される。

 ――私たちのこと、怖がんないでよ。

 桜井さんの声も、言葉の間も、まだ胸の奥で続いている。思い返しただけで、喉の奥が熱くなる。

 

 誰もわたしをわかってくれない。ひとりぼっちで、寂しい。

 そんなふうに、ずっと思っていた。

 けれど今、その考えは、ひどく身勝手なものに思えた。

 わたしは誰かに理解されないことばかりを嘆いて、わたし自身は誰のことも見ようとしていなかった。みんなの表情も、気遣いも、差し出してくれた言葉も、勝手な決めつけと思い込みで遠ざけていた。

 近づいたら傷つくと思っていた。

 でも、傷つけていたのは、わたしのほうだったのかもしれない。

 桜井さんの顔が浮かぶ。

 放課後に何度も誘ってくれたこと。話しかけてくれたこと。笑って待ってくれていたこと。そのたびにわたしは、曖昧に笑って、やんわりと、でも確かに線を引いていた。

 自分が加害者になっている可能性なんて、考えもしなかった。

 胸の奥に、重たいものが沈んでいく。

 今回だけじゃない。中学のときだって、そうだったのかもしれない。

 話しかけてくれた子。仲良くしようとしてくれた子。ほんの少しでも、わたしに歩み寄ってくれた人がいたとして――もし、わたしが交流を避けたせいで傷ついた人がいたら。

 ずっと自分は被害者みたいに思っていたけれど、本当は違ったとしたら。

 今となっては、確かめようがない。

 卒業してしまった教室の、もう会えない人たちの気持ちなんて、知りようがない。

 だからこそ、余計に怖かった。もし、それが正しいなら。

 わたしは、最悪だ。

 音羽はぎゅっと目を閉じた。まぶたの裏がじんとする。

 「(誰もわたしのことを分かってくれない?そんなの当然でしょ。……わたし自身が、誰のことも理解しようとしていなかったんだから)」

 胸の中でその言葉がはっきり形になると、逃げ場がなくなった。正しすぎて、痛かった。

 ――これから、わたしは変わるんだ。

 入学初日の決意が、ふいに蘇る。

 新しい教室。春の匂い。窓際の席。緊張でこわばった指先。あの日のわたしは、確かに思っていた。今度こそ変わるんだと。逃げないで、ちゃんと人と向き合うんだと。

 それなのに。

「……何にも変わってないじゃん、わたし」

 掠れた声でつぶやくと、言葉はそのまま部屋の白い天井に吸い込まれていった。

 情けない。

 でも、たぶん今は、その気持ちを逸らしちゃいけない。

 同じことを繰り返してはいけない。今回のことを、決して忘れてはいけない。都合よく「仕方なかった」で終わらせたら、きっとまた同じ場所に戻ってしまう。

 そうだ。わたしが思っていたより、ずっと――

「……あ」

 音羽は目を開いた。

 今、頭に浮かんだ言葉があった。 短くて、でも妙に重い、その言葉。

 わたしは曲を作るとき、先にタイトルが浮かぶことが多い。タイトルが種になって、そこからメロディや歌詞が伸びていく。

 だから分かった。今のこれは、ただの思いつきじゃない。胸のいちばん深いところに触れた言葉だ。

 忘れたくない痛みを、そのまま閉じ込めるための名前。

 音羽はゆっくり体を起こした。ベッドの端に腰掛けて、机の上のノートを引き寄せる。ペン先が紙に触れる直前、ほんの少しだけ息が止まる。

 それから、今浮かんだその言葉を、ひとつだけ書いた。

 見つめる。

 わたしらしくないタイトルに感じた。でも、だからこそいいと思った。

 この気持ちを、歌にしよう。逃げずに、ちゃんと残る形にしよう。

 自分の醜さも、間違いも、願いも、全部。

     *

 後日。

 音羽は自室で、ノートパソコンの画面を見つめていた。Zoomの画面の向こうには、リュウの姿がある。彼は音羽が送ったデモ音源と歌詞のメモに目を通していた。

「正直、音羽ちゃんからこういう歌詞が出てくるのは意外だった」

 最初にそう言われて、音羽は小さく肩をすくめた。

 意外、というのは分かる。これまでの自分なら、こんな言葉を書けなかっただろう。

「こんな歌詞が出てくるってことは……この前相談してくれた件は、解決したのかな?」

 リュウさんの声はやわらかい。急かすでも、探るでもなく、ただ確かめるような声音だった。

 音羽は画面の隅に映る自分の顔を一瞬だけ見て、それから目を伏せた。

「リュウさんがあの日話してくれたとおりだったと思います。……わたし、何も分かっていなかった」

 そう言ってから、わたしはあの日のことを少しずつ話した。

 カラオケのこと。桜井さんたちに対して抱いていた勝手な思い込み。自分ばかりが傷ついているつもりでいたこと。けれど実際は、自分が誰かを遠ざけ、傷つけていたのかもしれないと気づいたこと。

 リュウさんは途中で遮らなかった。ただ、ときどき静かにうなずきながら聞いてくれた。

 話し終えたころには、音羽は少し息が上がっていた。たくさん歌ったあとみたいに、胸の奥がからっぽで、でも少しだけ軽い。

「音羽ちゃんは、まだ学生だからね」

 リュウさんがそう言って、ふっと笑う。

「社会人になってから気づいたぼくより、よっぽどすごい」

「そんなこと……」

「あるよ」

 画面越しでも分かるくらい、リュウさんの目はまっすぐだった。

「気づくのって、痛いんだよ。自分の間違いに気づいて認めるのは、けっこうしんどい。でも、そこを通らないと、たぶん本当には変われない」

 その言葉が、静かに胸へ落ちてくる。

 音羽は、うまく返事ができなかった。かわりに、小さくうなずく。

 するとリュウさんは少しだけ表情をやわらげて、続けた。

「……友だちは、大切にするんだよ」

 その一言は、不思議なくらい深く響いた。

 友だち。

 まだその言葉を、自分のものとしてはうまく受け取れない。けれど、だからこそ大切にしなければいけないのだと思う。壊れやすいものほど、ちゃんと両手で持たなければいけないみたいに。

「はい」

 今度は、ちゃんと声にして答えられた。

 それから二人は、曲作りの話に入った。

 自分の経験が、いつか誰かを救うことがあるかもしれない。

 あの日はそんなこと、考える余裕もなかった。ただ苦しくて、情けなくて、消えてしまいたかった。

 けれど今は少しだけ思う。

 この痛みも、この気づきも、歌にできるなら。いつか、誰かの胸の中で、ひとつの灯りになるかもしれない。

 🏫
 それから、一週間ほど経ったある日の放課後だった。

 教室には、授業が終わったあとのゆるいざわめきが満ちている。机を寄せて話す声、椅子の引きずられる音、誰かの笑い声。窓の外はもう春の色が濃くなっていて、傾いた日差しが教室の床に長い四角を落としていた。

 桜井さんを含むクラスメイトたちは、このあとどこへ遊びに行くか話していた。カラオケ、クレープ、ゲーセン、やっぱりファミレスが無難じゃない、そんな言葉が飛び交っている。

 わたしは自分の席で、その輪を見ていた。

 胸の鼓動がうるさい。

 今なら、まだあいさつだけして帰れる。ギターの練習をしたいから、と心の中で言い訳を作って、そのまま鞄を持てばいい。きっと誰も責めない。

 でも。

 それじゃ駄目だと思った。
 
 同じことを繰り返してはいけない。あの日、ベッドの上でそう決めたはずだ。

 わたしは立ち上がる。足が少しだけ震える。教室の空気が急に薄くなったような気がして、ひとつ息を吸うだけで精いっぱいだった。

 それでも、輪のほうへ歩いていく。

 誰かが先に気づいて「あ、虹咲さん」と声を上げた。その瞬間、何人かの視線が一斉に音羽へ向く。

「……わたしも、行っていいかな?」

 一拍、間があった。

 みんなが少し驚いた顔をする。無理もないと思う。自分だって、こんなふうに声をかけるとは、一週間前のわたしなら信じなかった。

「いいけど……大丈夫なの?」

 そう言ったのは桜井さんだった。拒む響きではなく、音羽の音楽活動を気づかう声だった。練習とか、曲作りとか、忙しいんじゃないか。たぶんそういう意味だ。

「うん。頻繁には難しいけど……わたしも、みんなと遊びたい」

 言い切った瞬間、胸の奥で何かがほどけた気がした。

 すると、空気がふっとやわらぐ。

「え、全然いいじゃん!」「やった、虹咲さん来るの!?」

 口々に返ってくる声は、どれも明るかった。疑うような色はなかった。ただ、少し驚いて、それ以上に歓迎してくれている。

 わたしは一瞬、言葉を失った。

 こんなにもあっさり受け入れられるなんて、思っていなかった。

 勝手に距離を取っていたのはわたしなのに。それなのに、みんなはちゃんと場所を空けてくれる。

 桜井さんが鞄を持ちながら、いつもの少し強い口調で言った。

「音羽、ほら早くして!」

「うん、今行く。さく……」

 そこまで口にして、音羽は言葉を止めた。

 胸がどくんと鳴る。

 馴れ馴れしいと思われたらどうしよう。距離を間違えたらどうしよう。そんなことばかり考えて、言えなかった。

 でも今、言いたいと思った。ちゃんと近づきたいと思った。

 だから、わたしは震える息を飲み込んで、その先を続けた。

「……行こう、玲奈」

 彼女がハッとしたように目を見開く。

 ほんの一瞬だった。

 次の瞬間には、ぱっと笑顔になっていた。

「うん。行こう、音羽!」

 その返事を聞いた瞬間、わたしの視界がにじんだ。

「あ、え……」

 自分でも訳が分からない。悲しいわけじゃない。苦しいわけでもない。なのに、ぽろっと涙が落ちた。

「えっ、ちょ、音羽!?」

 玲奈が慌てた声を上げる。その隣で、クラスメイトたちが一斉にざわついた。

「あ、玲奈、虹咲さん泣かせてる!」「いつか絶対やると思ってたよ〜」

「それ、どういう意味よ!……ちょ、ちょっと音羽〜」

 即座に言い返して、その慌てっぷりがあまりにも彼女らしくて、音羽は泣きながら笑ってしまった。

 変なの、と思う。

 悲しくないのに泣くのも、泣いているのに笑うのも、初めてだった。

 けれど、そのぐしゃぐしゃな感情のまんなかにあったのは、きっとひとつだけだ。

 うれしい。

 受け入れてもらえたことが。待っていてもらえたことが。

 自分が差し出した小さな一歩を、ちゃんと受け取ってもらえたことが。

 音羽は目元をこすりながら、心の中でそっとつぶやく。

 (わたしを受け入れてくれて、ありがとう。わたしと……友だちになってくれて、ありがとう――)

 教室の外へ出るころには、夕方の光は少しだけやわらかくなっていた。廊下の窓から見える空は、青の底にうすいオレンジが溶けはじめている。西日に照らされた校庭では、運動部のかけ声が風に乗って遠く響いていた。

 笑いながら先を歩くみんなの背中を、わたしは少し小走りで追いかける。

 春の風が、頬に残った涙の跡をやさしく乾かしていく。

 その風はまだ少し冷たいのに、不思議ともう、ひとりぼっちの季節の匂いはしなかった。


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