【応募小説】お母さんの褻の日(名前のない休日) 虹色創作部

玄関に靴が一足だけ。
恵子は靴箱を見つめながら、なんだか変な気分になった。いつもなら夫の革靴、息子のスニーカー、娘のローファーがごちゃごちゃと並んでいるのに。今朝は夫が出張で新幹線に乗り、息子は友達と箱根旅行、娘は吹奏楽部の合宿で学校へ向かった。
「ゆっくりしてよ」
夫が出かけ際に言った言葉が、まだ耳に残っている。ゆっくりって、何をすればいいんだろう。
キッチンに立って、朝食の支度を始める。でも手は自然に四人分の分量を測ろうとして、慌てて止める。卵は一個でいい。食パンも一枚。でも一人分って、なんだかみすぼらしく見える。結局いつもの通り作って、余った分をタッパーに入れた。
テレビをつける。普段なら息子がニュース、娘がバラエティ、夫がスポーツと、リモコンの取り合いになるのに。今は何を見ても文句を言う人がいない。でも、自分が本当に見たい番組って何だったっけ。チャンネルをぼんやり回しながら、恵子は考え込んだ。
洗濯物を干しながら、ベランダから見える公園に目をやる。平日の午前中だから人は少ない。犬の散歩をしているおじいさんが一人、ベンチで本を読んでいる女性が一人。静かで、のんびりした光景。
「今日は何もしない日にしよう」
そう決めたのに、気がつくと掃除機をかけている。リビングも、息子の部屋も、娘の部屋も。誰もいないのに、几帳面に掃除してしまう自分がおかしかった。
昼過ぎ、スマホを手に取る。
『元気?』
息子にLINEを送りかけて、やめる。旅行を楽しんでいるのに、母親からのメッセージなんて邪魔だろう。娘にも同じメッセージを打って、やっぱり消す。
一人で食べる昼食は、なんだか味気ない。いつもなら「お母さん、これ美味しい」「今度からこの味付けで」なんて言葉が飛び交うのに。静寂の中で、自分の咀嚼音だけが響く。
午後、久しぶりに近所を散歩した。
いつも子供たちと急ぎ足で通る商店街の道。今日は一人だから、ゆっくり歩ける。八百屋の店先に、薄紫色のかわいい花が飾ってあることに初めて気づいた。花屋の前では、色とりどりのガーベラが風に揺れている。
公園のベンチに座って、空を見上げる。

雲がゆっくりと流れていく。形を変えながら、どこまでも続く青い空を漂っている。いつから、こんなふうに空を見ていなかっただろう。いつも家族のことで頭がいっぱいで、空を見上げる余裕なんてなかった。
ベンチに座っていると、小さな女の子とお母さんが通りかかった。
「ママ、あの雲、うさぎみたい」
「本当ね。耳が長くて、かわいいうさぎさんね」
そんな会話を聞きながら、恵子は微笑んだ。自分の子供たちも、昔はこんなふうに雲を見ていたなあ。今では息子は就職活動、娘は受験勉強。雲なんて見る暇もないだろう。
夕方、一人分の夕食を作る。
今度は迷わず一人分。好きなものだけ作る。ほうれん草のお浸し、鮭の塩焼き、お味噌汁。シンプルだけど、丁寧に作った。一人でテーブルに向かって、静かに箸を進める。
こんなに静かな食事は、いつ以来だろう。結婚する前?それとも、子供たちが生まれる前?
食器を洗いながら、恵子は気づいた。
これは「家族がいない寂しい時間」じゃない。「自分が自分であることを思い出す時間」なんだ。
母でも妻でもない、ただの「恵子」でいること。誰かのために何かをするのではなく、自分のペースで、自分の気持ちに素直に過ごすこと。そんな時間が、こんなにも心地よいなんて。
夜、スマホが鳴った。
家族のグループLINEに、それぞれから写真が送られてきた。夫は出張先の美味しそうな料理、息子は箱根の景色、娘は合宿での仲間たちとの笑顔。
『お疲れさま、ゆっくりしてね』
夫からのメッセージに、恵子は微笑んだ。
『ありがとう。とてもいい一日だったよ』
そう返信してから、恵子は窓の外を見た。街の明かりが温かく灯っている。明日からまた、賑やかな日常が戻ってくる。朝食の支度、洗濯、買い物、夕食の準備。でも今日という「褻の日」があったからこそ、明日がもっと愛おしく感じられる。

家族がいるということ。毎日が特別じゃないということ。その当たり前の日々の中に、実はとても大切なものが隠れているのかもしれない。
恵子は電気を消して、一人静かに眠りについた。
玄関の靴は、まだ一足だけ。でも心は、とても豊かな気持ちで満たされていた。
作者紹介!
ご自身のnoteでは主に連載を上げられています。
無人島転生、昨日から始まったそうなのでぜひ!
編集部より
大人になると、会社員とか、親とか妻とか様々な役割があって、なかなか自分の時間を持てないですよね。別に仕事や子供が嫌いなわけじゃないんだけど、なんとなく慢性的に疲れている、みたいな。
夕焼け企画をやった時に、久しぶりに空を見上げたら、空が刻々と変化していく様子が見られて、なんだか新鮮でした。
創作や散歩、映画なんでもいいのですが、もっと自分の時間を持ちたいなと思いました。それが今の幸せを見つめ直すことにも繋がるのかなって思ったりします。しのぶ
過去の応募作品はこちらから!
「名前のない休日」絶賛募集中です!
こちらのお題、7月3日まで募集中です!みなさんの思う「名前のない休日」お待ちしております!
🌟 SNSもフォローしてね 🌟
📱 twitter → @ClipNiji61128
📸 instagram → nijiclip
どちらもぜひチェック&フォローしてくれたら嬉しいです❣️
