【エッセイ】京都⑤─六波羅蜜寺と平清盛の墓─『佐竹健のYouTube奮闘記(112)』
六波羅蜜寺の中に入った。
寺は意外にもこじんまりしていて、お堂の向こう側からは僧侶や信徒たちが読む『般若心経』や『観音経』の声が聞こえる。
読経の声を聞きながら、お参りしようかなと思い立っていたときに、私は門の前にある石碑に目が留まった。

石碑には、
此附近
平氏六波羅第
六波羅探題
とあった。
(そうそう。そんなんだよ)
前にも書いたように、六波羅には平家の屋敷があった。平氏の滅亡後は源頼朝が接収し、源氏の京都基地となった。そして源氏将軍の滅亡後は、この辺りに六波羅探題ができた。
六波羅探題は、後鳥羽院が承久の乱を起こした後に設置された鎌倉幕府の出先機関である。京都の朝廷が鎌倉幕府に対し、不穏な動きを見せないよう監視するために置かれた。この辺はテストとか受験で問われるので、中高生は覚えていて悪いことはあるまい。
実際効果があったかと言えばあった。皇位継承に関しても幕府への相談が必要になったからだ。鎌倉幕府自体今目障りな家臣は殺すし、将軍も殺すし、後で招いた摂関家や皇族の将軍も言うことを聞かなくなった時点で送り返していたおっかない組織だったので、対応はさぞ面倒くさかったろう。
本領を発揮したのが、後醍醐天皇が二度「鎌倉幕府をぶっ壊す!!」と思い立って兵を起こそうとしたときだろうか。一回目も出動して抑えてるし、そして打倒鎌倉幕府の計画が本格的に露見した二回目は、しっかり壱岐に島流しにしている。だが、不屈の精神の持ち主である後醍醐天皇は諦めることは無かった。壱岐を脱出し、上陸した先の武士たちを味方につけて蜂起したのだ。このことがきっかけとなり、楠木正成といった悪党、新田義貞といった鎌倉幕府の体制下で不遇をかこっていた武士たちが蜂起した。
六波羅探題はこのときも機能はしていたが、鎌倉幕府の有力御家人であった足利尊氏の裏切りにより総崩れとなり、滅びた。
以後は後醍醐天皇による親政となるわけだが、公家や恩のある者への依怙贔屓が目立ったため、武士たちの反感を買ってわずか3年で崩壊してしまった。
六波羅探題の石碑を見たあと、お堂の前にあった賽銭箱に五円玉を入れ、合掌した。
清盛の墓はお寺の片隅にあった。天下を取った人物のそれとは思えないほどにひっそりと。
(やはり一度は頂きに立っても、還るのは土というのはむなしいね……)
「たけき者もついには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ」
有名な『平家物語』の序文の最後の部分を連想させる。清盛は武士の上から公卿、太政大臣へと出世した。その後は権勢の赴くままに敵対勢力を粛清し、そして天皇の外戚となった。が、遷都も失敗し、以仁王の反乱を契機に各地の源氏や反平家勢力が挙兵した……。そんな最中に熱病になり、苦しみながら亡くなった。
死の間際、清盛は一門の者らを呼び出し、息を切らしながら、最期の言葉を伝えた。その言葉は、
「俺は昔から朝廷のために尽くし、戦ってきた。おかげで、こうして、一代で、高い官職と莫大な富を、築き上げた。人生に後悔は無い。が、心残りが一つある……。義朝の三男、頼朝のことだ。あいつの首を、俺の墓に、供えろ。俺の供養は葬儀も、供養も、いらない。あいつの首を持ってくることが、一番の……」
だった。人生には満足していたが、あのとき生かした源氏の少年が反乱を起こした。たった一つの失敗に後悔をしているところが、何とも人間らしいというか業深い。そうして清盛は熱にうなされながら、64歳で亡くなった。
清盛が熱にうなされて亡くなった理由に関しては、息子の重衡が奈良興福寺の大衆と戦っていたときに、東大寺の大仏を焼いたから、その仏罰が当たったためとされている。それを裏付けるように、『平家物語』では、妻の時子が、閻魔大王の使いである牛頭馬頭が直々に清盛を迎えにやってきた夢を前日に見た話がある。このとき、迎えの車に「無」という文字があったそうだが、これに関しては、無間地獄のことを指している。
現実的な死因に関しては、インフルエンザやマラリアなど諸説ある。
個人的にはだが、やはり清盛は何かしらの感染症を重症化させ、肺炎とかを起こして亡くなったと考えている。というのも、彼が亡くなったのは閏一月。今の2月とかそこら辺だろうと推察されるので、感染症要注意の時期である。その時期に清盛は風邪なりインフルエンザなりをもらってこじらせ、肺炎になるまで悪化させて亡くなったのだろう。
余談だが、『平家物語』での清盛が熱病に苦しむ様子は、常軌を逸している。描写そのものが、人間が出していいレベルの高熱ではないのだ。
比叡山から持ってきた聖水をたんまり入れた浴槽に入れても、筧で直に水をかけても蒸発する。しかも黒煙を上げるから、その熱さは尋常ではない。
オーバーな感じで描写をすることで、清盛の身体の熱を分かりやすく表現しているのもあるだろう。が、「比叡山から持ってきた聖水をかけても」の辺りだけでも十分すぎるくらいに熱い。水、それも天台宗の総本山である聖地比叡山から持ってきた聖水でさえ熱を下げることができないというところが、清盛の異常過ぎる高熱をさらに引き立たせている。現代の何千倍何万倍も信仰心が強かった中世に、聖地比叡山から持ってきた聖水が効かないというのは、相当ヤバいこととして認識されていたことだろう。そう考えてみると、東大寺の大仏を焼いた仏罰と言われるのもわかる気がする。
その後に自身の最期を悟った清盛が一門の者たちを呼び出し、息も絶え絶えに先ほどの遺言を語る場面となる。
日本や中国の古典文学は誇大表現がやたら出てくるので、清盛の死の間際の「水が蒸発」とか「黒煙」もお決まりの表現といっていい。だが、言えるのは、清盛は熱病で物凄い熱を出して亡くなったということであろう。
私はひっそりとある清盛の小さな供養塔に手を合わせた。
何って言ったらいいか思い浮かばなかったから、ひとまずどこから来たとか、名前とか、よろしくお願いいたしますみたいなことを心の中で言っておいた。
六波羅蜜寺参拝後、このまま近くにある六道珍皇寺というお寺へ行こうかなと思い立った。
六道珍皇寺には、こんな言い伝えがある。
平安時代初めに小野篁という貴族がいた。この篁だが、とても優秀な貴族で、帝からの信頼も厚かった。
能吏として活躍する篁。だが、篁にはこんな噂があった。
「日中は帝に仕え、夜は地獄の閻魔様に仕えている」
そのときに現世と地獄を行き来するときに使っていたのが、六道珍皇寺の井戸だったそうだ。
(でも、こっちもいいよね)
マップを見ていたときに、同時に目に入ったのが、六波羅の東にある「清水寺」の三文字だった。
(今の時期紅葉きれいだろうから、こっちにしようかな……)
この機会を逃したら、清水寺の紅葉は一生見れないと思うから、見に行こう。あと、最近書いている短編歴史小説『ものぐさ太郎』の宣伝もしたい。
六道珍皇寺へ行くのを辞め、私は清水寺へ行くことにした。
古き良き日本建築の町並みを残した道路の向こう側にある祇園の町からは、八坂の塔が見える。
(続く)
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