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銀蛇謳海~22~悪食(あくじき)

 黄泉津大神よもつおおかみの御殿の奥に一体何があるというのでしょうか。大屋根の下にどっしりと広がる御殿は無彩色で、荘厳でありながら沈鬱な空気に包まれています。床には黒曜石の板が敷き詰められ透徹した冷たい美しさを放っています。長居は無用。誰しもがそう思うような場所でした。

 その御殿の奥へ奥へと案内された老綿津見ろうわだつみは、白い壺を目の前に置かれました。

「可哀想に………黄泉の食べ物を欲するようになってしまって………。海の国など棄ておいても神は大勢いるだろうに」

「待っているものがいるのだ」

「想い人か」

「…………海を流離う捨て子」

「………………」

海を流離う捨て子。黄泉津大神はそれに心当たりがあるのか一度ゆっくりと瞬きました。

「さあ、これを口にすれば私は『黄泉比良坂よもつひらさか』を越えられるのだな」

「全部、食べることができたら。一粒も一滴も残さずによ」

 このように二柱の神の間で約束が取り交わされましたが、黄泉の食べ物について付け加えておきましょう。
伊弉諾いざなぎ*の妻伊奘冉いざなみ*は、死んで黄泉の国へ降った後、夫が迎えにきましたが黄泉の食べ物を食べてしまったがために蘇ることができませんでした。そして黄泉を治める神、黄泉津大神となったのです。黄泉の食べ物を口にすればもう二度と元の世界へ戻ることはできません。

 それを知っていた老綿津見は決して何も口にしませんでした。
ただし条件を満たした場合のみ蘇ることができるのです。そして食べることによって、黄泉の力を自身のものとすることができるのです。
もちろん、条件を満たさなければこの先ずっと黄泉を出られませんので、簡単なことではありません。


 綿津見は目の前に置かれた白い壺の蓋を開けました。
黄泉醜女よもつしこめ達がわらわらと集まり、綿津見がどんな顔をしているのかと覗き込みました。

 老綿津見は眉ひとつ動かしません。動かせなかったのかも知れません。その壺の中にあったのは食べ物などではなかったのですから。
悪臭を放ち蛆がたかったそれがなんであるのか、いえ、もとは何であったのか考えたくないでしょう。
黄泉醜女達はその忌まわしいものー食材ーが何なのか老綿津見の耳に代わる代わる吹き込みました。それは言葉にするのもおぞまいものでした。

 壺を前に動けない老綿津見に黄泉醜女のひとりが匙を握らせ、早く早くと急かしました。

「ひとくち食べれば目が溶けて、ふたくち食べれば鼻がもげる、みつくち食べれば喉が爛れ、よつくち食べれば耳鳴りが、いつくち食べれば臓腑が腐り、むつくち目には手足が逃げ出す………」

 楽しそうに女達は歌います。
綿津見は匙を投げ捨てました。黄泉津大神の眉がぴくりと動き、黄泉醜女から落胆の声が漏れた時、老綿津見は壺を両手に抱えると中身をひといきに仰ぎました。
嚥下する喉が苦しそうに動きます。それを見て黄泉醜女は身悶えをはじめました。
壺を持つ手に力が入り、脈と骨がいっそう浮き出します。僅かに肩が震えているのを見つけた醜女は歓喜の声をあげます。

「はしたないわ。およしなさい」

 黄泉津大神にいさめられても女達は興奮しきって聞きません。

「そんなもの食べたらもう元には戻れないわ!」

「魂まで汚れてしまう!」

「あの美しく気高い威容の海の大神が!」

「ああ! あああ! サイコー!」

 といった聞くも耐えない具合に騒ぎたてます。これで全部を食べ切ることができなければ老綿津見は黄泉に閉じ込められるのです。
もちろん綿津見は女達の歓声など耳に入ってきません。

ー帰るのだ。私は………、『真海』へ………私の『竜宮』へ…………帰るぞ、帰ってやるぞ。

 それだけ一心に念じ、最後のひとくちまで飲み干すと黄泉津大神に向けて中身を見せ、そのまま壺を放り投げました。

 壺は転がって屋敷の縁の下へ落ちていきました。カタン、と乾いた音をたてからの壺は止まりましたが、その横には全く同じ白い壺が転がっていました。
先にこれを食べたものがいるとすれば『夜の食国おすくに』の王、月読命つくよみのみことに違いありません。縁の下にはしゃれこうべのような壺がふたつ並びました。


 食べ終わった後、老綿津見は突如膝をついてしまいました。あまりにも不味かったからでしょうか?いえ違います。海の王がそれしきことで膝をつくなどありません。
老綿津見の白銀の髪が黒いモヤが競り上がるように黒く濁り、顔といわず体といわず黒い大小の穴がぶつぶつと空きました。思わず目を背けたくような不気味な穴に穿たれ、溺れる者のように喘ぎました。
老綿津見は胸を掻きむしってのたうちます。そのうち気が触れたように頭や体をそこらじゅうに打ち付けたかと思えば皮を血が滲むほどかきむしりました。
呻き声が漏れますが叫ぶことはありません。何かを必死で押さえ込もうと身を滅する苦痛と闘っているのです。
黄泉醜女達はその光景に爛々と目を光らせ、この見せ物を一瞬たりとも見逃すまいと、老綿津見のころげまわる方へ行ったり来たりとついてまわりました。
いったいどれほど長い間そうしていたでしょう。老綿津見にまとわりついていた黒いモヤと穿たれた黒い穴が、彼の足元ー影の中ーへ吸い込まれるように消えていきました。
それは彼の勝利でした。身を苛んでいたものを全て影の中に納め『黄泉』の邪を制したのです。老綿津見は立ち上がり着物と髪をなおしました。

「腹も膨れたのでな。我が海へ帰るとしよう」

「………その名に恥じぬ王であることよ」

 感嘆した黄泉津大神は老綿津見を『黄泉比良坂』まで送り届けました。
 これが黄泉の国での出来事です。

 



 続く

 
伊弉諾*/イザナギはイザナミと共に天照大御神、月読命、須佐之男命など多くの神々を生み出し、日本の国土も創造した男神

伊奘冉*/イザナギの妻で多くの神と国土を生み出したが、火の神を生んだ際火傷で亡くなった(=黄泉の国へ行った)。後に黄泉の主祭神(黄泉津大神)となる

次回………主人公はきみだ!ほほほほ、あたしはストーリーテーラー。じゃあ俺は?です。お楽しみに(°▽°)

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