銀蛇謳海~39~ヒルコ
丘の上から突き落とされた夜礼はそこで止まっていることなどできませんでした。数人がかりで投げ落とされてもそこは神さま、怪我などしません。
すぐに“道”を作り、水晶宮への最短距離を結びました。
格の高い神さまやその屋敷の頭上を通行するのは失礼ですので、本来ならしないことですがそうは言っていられません。
離宮に閉じこもっているのは聞き及んでいたので、あらゆる取り継ぎをとばしてお城の最奥にまで乗り込みましたが、ちょうど海若が離宮から出て移動しているところにでくわしました。
「海若!」
夜礼の胸に安堵が込み上げました。隣には瀬織津姫とサナがいます。
「夜礼ー!」
サナが真っ先に駆け寄ろうとしますが抱えた『波濤』の重さでよろよろしています。
「さっきね、海若泣いてたんだよ。大っきい子なのねってウトゥも面白がってたよ」
サナが抱えた鉾を見て、ハッとした夜礼は海若と瀬織津姫に視線を向けました。目交のうちにそれがウトゥの変わり果てた姿だと分かりました。
「あれ? 夜礼も泣いてるの? ねー何で今日はみんな泣いちゃうの?」
けたけたと笑うサナにいっそういたたまれなくなった夜礼は、海若のそばまでくると「急ぎの話がある」と抑えた声で告げました。
海若は何日も飲まず食わずで引きこもっていたわけですが、容色に翳りが出ないのは神さまゆえでしょうか。それでも瀬織津姫はたいそう心配して、食堂でなく露台に用意させた小ぶりな卓に見目涼しげな菓子や飲み物を並べました。
そこで夜礼は見聞きしたことー海の神々が一堂に集まり綿津見に下した“処置”ーについて伝えました。
瀬織津姫は顔色をなくしていましたが、海若はどこか他人事と言った様子。言葉を継ぐたびに夜礼の感情は千々に乱れ、そんな海若に焦りを覚えます。
「もうあなたはここに居なくたっていいじゃないか。俺の屋敷に来たっていい。いや、そうしてくれないか」
「夜礼は私がいなくなって淋しいのだね」
「………話聞いてましたか?」
「うん」
「ここにいたら『真海』中の神が押しかけて来るかも知れないんですよ。それだけじゃなく『高天ヶ原』から加勢を呼ぶ気でいるんだ」
「天からは誰が来るのか、ふふ」
「貴方を二つ裂きにしに来るんですよ、笑いごとじゃない」
「…………無辜の民を殺した責任を取れというならそれも方法だろう。天都比古禰がそれを認めたならそれは正しい」
「何を言っているのです。責任の取り方なら他にもあるでしょう」
「その通りです」
瀬織津姫も同意します。体を魂ごと割くなど制裁以外どんな意味あいがあるというのでしょう。姫を味方につけて彼は続けました。
「沫那芸神にしてもわざわざ『高天ヶ原』に話を持っていくなど、腹に一物あってのことだ。そんな神が指揮を取った話など………」
「沫那芸さまはかねてよりお立場にこだわっておみえです。この機に乗じ天の神をご自分の味方に引入れたいとお考えでは。そこに公平さがあるのでしょうか?」
「そう! きっとそう!」
夜礼が力強く同意しても海若はのらりくらり。沫那芸にはまるで関心がないと言わんばかりです。ならばとーーー。
「天都比古禰だって逆恨みしてるだけです!」
「夜礼。彼はね、頭は固いが信頼できる男なんだよ」
「でもやり過ぎだ」
「私が『黄泉』に立つ前に話した相手はふたり。姫と彼だ。……………私は頼んだのだ。私の成すべきことがとげられるようにと。戻ってきた私が私でなくなっても『竜宮』が永久であるように、退路は全て断ってほしいと」
それには夜礼も瀬織津姫も返す言葉が見つかりませんでした。
「教えてください………。『真海』に居座っておいてなんだが………『竜宮』がどうしてそんなに大事なんですか!
神々は貴方が『竜宮』のためにやったことを責めるばかりで、挙句思いつくのがこんな暴挙だ。人間になってみたいと言った貴方の気持ちが本当ならば、違う生き方だってあるはずだと………俺は思うんです………」
海若は卓に置かれた玻璃の器を持ち上げました。透明な葛切りをうかべた薄紫の飲み物を、何か大切なもののように両手で包み、しばらく眺めて口にはつけずにそっと戻しました。
「この広い海に『竜宮』があるのは、この広い海を漂う友がいるからだよ」
「友?」
「ヒルコというんだ。私の最初の友達」
「ヒルコとはもしや伊弉諾さまと伊奘冉さまの最初の御子ではありませんか」
瀬織津姫が尋ねました。夜礼は初めて聞く名です。
ヒルコは国創りの神である伊弉諾と伊奘冉の間に生まれましたが、不具の体ゆえ葦の舟に乗せて海へ捨てられた子どもです。
「そう。ヒルコは面白いやつだった。ちょっと夜礼に似ていたかもしれない」
「俺にですか?」
「ただ海を漂うだけ。何もしない」
「………なるほど」
「とても古い神の言葉を話した。捨てられてから長い間、ヒルコの話相手はやつの心の蔵だった」
「心の蔵?」
「ヒルコが話すと心の蔵がドクンと答えるらしい。ヒルコも心の蔵の喋ることが分かるらしい。どれだけ長い間ひとりでいたらそんなこと思いつくのだろうな………。でもおれに遭った時、あいつはとても喜んだ」
海若の目は薄紫に染まり夕陽のような虹彩が湧き出ます。
「私は『竜宮』を創った。ヒルコとは長く暮らしたがまた旅に出ると言った。捨てられ流されたヒルコは、同じところに留まれない定めだった。私が黄泉を行き来しないとならないように。
ヒルコはまた戻ってくると言った。しかし海は広く私だって留守のときもある。そしたらやつはこう言うんだ。
この海でいちばん美しい場所が『竜宮』だから、いちばん美しい場所を探せば戻って来れる、と」
それが『竜宮』の始まりでした。
夜礼は月読が話したことを思い出しました。
ー兄さんはね優しいの。自分が悲しい思いをしたら、どこかの誰かには同じ思いをしてほしくないって言うの。
そんな兄さんが誰かに向けて差し出したのは手ではなくは世界……。『竜宮』という海の楽園をね。
そうやって『竜宮』を今日まで守ってきたのだとすれば、どうしてここが哀しみのない国でなくてはならなかったのか夜礼にも分かりました。
同時に後悔が押し寄せます。
ー月読どのはあの時、忠告してくれていたんだ。それを俺ときたら考えなしにベラベラ喋ってしまって………。あの神たちのとち狂った判断は半分は俺が誘導したみたいなものだ………。
「あたしは『竜宮』好きっ。ヒルコが戻ってきたら友だちになれるかな?」
「きっと気があうだろう」
サナと海若はそう話ながら、薄紫の飲み物を口にしました。ふたりの喉が健やかに動きます。
「夜礼はしばらくここにいるんだろう。なあ、いてくれないか」
海若の頼みを断ったことがない夜礼でしたがうんとは言いませんでした。
「俺は失言の後始末をしなきゃと思ってる」
「夜礼が気に病むことはひとつもない。私は海の王で」
とサナの手から『波濤』を取り上げて振ると“波の獣”が群を成して現れました。
「誰がどんな手段で来ようとも問題はない。ああは言ったが海の八十諸神の決め事をそのまま遂行してやることもない。ただけじめは付けると言ったまでだ」
「そうだよな、貴方は海神綿津見さまだもんな………。だからって俺が何もしてはいけないことはないでしょう」
「…………わかった」
海若の不服そうな表情が一変して光をふりまくような笑顔になります。夜礼はいつだってその移り気な表情に惹きつけられるのです。
しばらくなんということもない話が続き、夕刻になって夜礼は水晶宮を後にしました。
去り際に瀬織津姫が彼の袖を軽く引きました。海若も彼女も口外してこなかったいわば秘密をばらしてしまったことを、咎められるのではと思っていた夜礼はビクっと身を固くしました。
姫が押し付けるように渡してきたのは薬袋でした。
「わたしが調合しました」
「俺に?」
「はい。わたしはわが君を信じておりますが、貴方のことも信じております」
「え…………」
どうしたって失態しか犯していないのに、といぶかしがりましたが姫には彼がこれからしようとしていることが分かっていました。
「くれぐれも似つかわしくない無茶をしませんように………、深淵之水夜礼花神」
「『高天ヶ原』の神は誰であっても『竜宮』へは入れません」
夜礼は自分が海流の神であることを初めて誇らしく思いました。
“海流”を避けては海の底にある『竜宮』へ入ることはできませんから。瀬織津姫は静かに頭を下げると去っていきました。
精巧な細工の施された正門を抜けると“道”に乗って、夜礼は進み始めました。
振り向くと『竜宮』は眩い輝きに包まれています。陽光はもう翳り始める時刻にもかかわらず、なんという輝きかたでしょう。
その光の正体が溶け消えてゆく『竜宮』が降らせる金銀の光であることに夜礼は気がつきました。
”道”に乗って遠ざかっていくのは自分の方ですが、『竜宮』のほうが離れていくような感覚をもよおします。片時も目を離すことができない、遠ざかるもの。綺羅綺羅として………。
続く
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真海に降ったのはその名を雷鳴の如く轟かせた神。相対するは深淵之水夜礼花神。その行方は……?いいなと思ったら応援しよう!
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