銀蛇謳海~41~誰かひとりくらい
八柱の雷神に取り囲まれ一気に形勢逆転した夜礼は逃げようとしますがそうはいきません。
八雷の蜘蛛のような長い手足が行く手を塞ぎ、歯茎を剥き出しにした顔で輪を狭めてきます。
「そのままそいつを抑えておけ」
そう言って健御雷が夜礼の創った海流の壁を越えてその向こうへ行こうとしました。
「おい、どこ行くんだよー」
「抜け駆けはなしだ」
「だんなー置いていかないでよー」
「ケヒケヒケヒ」
それに反応した四柱が健御雷に続こうと輪から抜けました。その時、夜礼が大きく手を振り上げると離れた四柱の八雷はあっという間に『海境』の外まで押し流されていきました。
夜礼が普段移動に使う“道”は束ねれば“潮”になります。見た目は海水と変わりませんが、その潮流は怖しいほど速くひとたび嵌ったら流れの外へ出ることは難しいのです。
健御雷はあと少しのところでその潮流を逃れ、無様に流されていく八雷を憮然と見送りました。
「ああー! 稚雷、黒雷、大雷、鳴雷がー」
「おいお前、何をした?」
「こいつ訳わかんない術をつかうぞ」
「やるかぁやるのかぁー」
海中でピリピリとした閃光が弾けます。八雷は丸腰でしたが誰も彼も掌から雷を生み出し、そのせいで髪の毛が四方に逆立ち始めます。
ーいや、本当にまずい。よりによって雷神が九柱…………。減りはしたものの厄介すぎる…………。
八雷が四方から飛びかかってきました。
夜礼も神さまですので感電しても耐え忍ぶことはできます。目の前で弾ける雷が視界を奪い、皮膚を焼けるような熱さが駆け巡り、頭も朦朧としましたが手さえ動けば水は動きます。
“潮”を同時に四本創り出すと残りの八雷を押し戻しました。若雷、伏雷、土雷はそのまま流され、“潮”に手首だけ取られバタバタと抗っていた火雷がどうにか抜け出すと、飛びかかって夜礼の腕にかぶりつきました。
「離せ!」
「あだざだい(離さない)」
火雷の頭を反対の手で押して引き剥がそうとした時、健御雷の雷霆が火雷もろとも夜礼の体を貫きました。
「あばばばば! なんでオレごと当てるんだよ!」
「雷神なんだろう、当たったところで多少痒いくらいだろう。そっちの黒いのはくたばったか?」
「ケヒヒ、白目剥いてやがてる」
「よし。もういい、我が仕留めるべきは綿津見だ」
「待てよぉ。どっかいっちまったあいつらを探してくるから、連れてってくれよぉ」
「必要ない」
雷霆を放った健御雷はゴロゴロと喉の底で遠雷のような音を発しています。声は雷鳴のような響きを帯び、怖しいほどの威圧感を発しました。
夜礼はもう自分ではこの雷神に太刀打ちできないと悟りました。動かない体で思うのは海若のことでした。
ーああ、苦しい………。苦しくて痛い。こんなのは初めてだ。
俺は痛いって知らなかった。本当に苦しいってのも知らなかった。俺はこんなにもわかってなかったんだ………。
『真海』の八十諸神だって分かってない。同じだな、俺もあいつらも。なーんにも分かってないまま損なっていくんだ………。
健御雷と火雷が何か話していますが耳を聾してしまったので聞こえません。曇った視界に無音で口だけがぱくぱくと動いています。
夜礼は着物の間から瀬織津姫にもらった仙薬を取り出しますが、血が込み上げてきて口に含むこともできません。
ーああ無理だ。血の味しかしない。不味い………。
不味いってこういうことか。貴方が黄泉で食べたものが、どんなに不味かったかとか………。どんなふうに体を蝕んだのか。俺にも誰にもわからない。
でも、誰にもわからないからって痛みや悲しみがないわけじゃない。
ふいに握ったままの仙薬は清らかな芳香となって彼を包み、傷を外から内から癒し始めました。
ー俺は思うよ、哀しみのない『竜宮』だって誰かひとりくらいは貴方ために泣いたっていいんじゃないかって。
でも泣く前に………信じてもらったんだからもう少しやらないと………。
夜礼は体を起こしました。動きます。噛まれた腕の傷も火傷も消え、耳に音が戻ってきました。
「なんだよ、見かけによらず丈夫じゃないか」
それに気づいた八雷がツカツカと寄ってきました。健御雷は仕方ないという顔でもう一度雷霆を放とうとしました。
「だがあと数回雷霆を食らったらもう起きられないぞ」
「食らわなければいい…………」
「なんだって?」
彼らの脚の下に何かの影が浮かび上がってきました。見たこともない巨大な生物が海の底から呼び寄せられています。
深海の底から上昇する海流に乗り上がってきたのはなんと鯨の骨でした。死んだ鯨は肉を食われながら海の底に沈みます。その骨になった鯨を再び呼び起こし、夜礼は繊細な水の動きによって生きているかのように操っているのでした。
深海から招かれた鯨は彼の手足となって八雷を追い立てました。そしてもう一体、さらに大きな鯨骨が浮かび上がってきました。二頭の鯨骨を城壁のように自身の周りに泳がせます。
グゴゴゴゴと攪拌されて水は鈍い音を立てます。ゆっくりと泳ぐ骨の魚の肋骨の間に夜礼の黒い衣が見え隠れします。
「なるほど盾のつもりか」
健御雷が大剣の切先に雷光を集めます。
先手必勝とばかりに夜礼は渦を起こし、彼の両腕を拘束しますが、八雷の方は器用に鯨骨の追撃をかわし、夜礼に近づいて間近で雷霆を放ちました。
咄嗟に動かした鯨骨の頭蓋で雷は弾け、背骨を伝って消えていきます。
「危なかった…………」
しかし拘束が疎かになった健御雷が間髪入れずに掌から雷霆を放ちます。それは夜礼を外れましたが、二柱を相手にするのは分が悪いと踏み八雷だけを狙い“潮”の中へ引き込みました。今度は逃れる隙も与えず彼方へ押し流しました。
「八雷全て退けるとはな」
健御雷は感心した様子を見せますが気を抜くことはありません。二神の間に緊張が募ります。
一手で押し流されるか、一手で雷霆に貫かれるか。互いの一挙手一投足を見逃すまいと睨みあいが続きます。
鯨骨が威嚇するように口を開きます。その裏ー海の下の方で夜礼は渦潮を起こしていました。素早く確実に。
しかしそれが出来上がる前に動いたのは健御雷の方でした。ひときわ大きな雷鳴が鳴り響き、水は激しく振動し神の気であたりは満ちました。
押し負けたのは夜礼の方でした。渦潮は勢いを失い、機を逃したその時、健御雷の大剣が雷と共に夜礼の肩を削ぎました。
声にならない声が上がります。血を吹いた肩がだらりと垂れ下がると鯨骨は糸が切れたようにバラバラになりながら沈み始めました。
壊れた肩では海水を動かすことはできません。瀬織津姫からもらった仙薬ももうありません。
用は済んだとばかりに健御雷は『海境』に向かいます。
「……い、行くなぁ」
反対の腕をなんとか持ち上げもう一体の鯨骨で足止めを図りますが、健御雷は大剣で鯨骨を叩き折ってしまいました。
「もう十分だろう…………」
健御雷は夜礼の体を蹴り落としました。真っ赤な目が一瞬、射抜くように向けられそのまま体は海の底へと鯨骨と共に沈んでいきました。
雷神の姿が視界から消え、見上げる青天井がどんどん遠くなります。反射光がやがて丸く滲むと、もう水は凍えるほど冷たくなっていました。
海溝。その深い谷の奥へ夜礼は落ちていきます。
ー瀬織津姫。貴女が信じると言ってくれたのに………俺、何もできてない。
夜礼の両目から涙が湧きましたが、悔しいのかいたたまれないのかわかりません。
ー海若。貴方のために泣けたらいいけど、どうも違うみたいだ。できることはもうないけど、貴方の幸せを願うよ。この広い海で貴方の幸せを願うだけの無能がひとりくらいはいても、いいよね…………。
続く
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ついに海境を越えた健御雷神。向かうは竜宮城。そして彼女のもうひとつの名前が明かされる………いいなと思ったら応援しよう!
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