銀蛇謳海~42~退路
水晶宮の長い階の上、玉座ではなく欄干に腰掛け重い影をなだめながらもの想いの中にいた海若は、東の海中に稲妻が光るのを見ました。
ー『真海』に雷だと?
何が来たのかすぐに察した海若はサナを呼びました。
「サナ・イサラエ! 出るぞ、ウトゥを連れてついて来い」
侍女と珊瑚の玉を転がして遊んでいたサナが『波濤』を抱えてやってきました。海若がその鉾を振ると“波の獣”が現れ、サナ抱え上げて乗せます。
「落っこちるなよ」
「うん」
「行けっ!」
鋭い掛け声とともに“波の獣”はふたりを乗せて滑るように駆け出しました。
一方お城の奥、老綿津見が眠っていた棺のそばに瀬織津姫はいました。
もうその体は透け消えて見えませんが、わずかに手に触れるものを水糸に変え、今日も『竜宮』を繕っていました。
最後の一本が姫の手を離れた時、その向こうに“波の獣”に乗って出ていく海若の姿が見えました。まなじりを決した様子がただ事でないと告げています。
リュウグウノツカイに彼の後を追うように、そばに控えた竜人に輿の用意をするように命じ、衣の裾を慌しく翻しました。
「姫君、私と来ていただきたいところがある」
そこに現れたのは眼帯姿の天都比古禰でした。
「わが君が出られました。ついていかねばなりませんが………」
「すぐに済みます」
「わかりました」
足早に進む天都比古禰に導かれ入ったのは離宮の中でした。
「ここに何か?」
「はい。綿津見どのを正すまでここでお待ち頂きたい」
そう言うや離宮の重い扉を閉め、外から関貫をおろしました。
「天都比古禰さま! これはいったいどういうことですか!」
姫は中から扉を押しますがびくともしません。窓もなければ壁も厚い部屋に閉じこめられてしまったのです。
「先代の綿津見は私に言いました。退路を全て絶ってほしい。『竜宮』が永遠であるように、と」
その声に姫は扉を押していた手を止めました。
「影に宿した『黄泉』の力がなければ『竜宮』の復活は成し得ない。しかしあのままではいつまた惨事を起こすとも限らない。
そこで『真海』は御身をふたつに別けることを決めた。いずれ体が整えばふたつの身でひとつの影を負うゆえ御し易くなる」
「その件は深淵之水夜礼花神から聞き及んでおります。でもそこに海若の意思はありません。どうぞそのような酷いことはお辞め下さい」
「『真海』の総意なのです」
「わたしは反対です。海若は今のままで精一杯やり遂げようとしているのです。先代のお側にいた貴方なら、わが君の意志の強さをご存知でしょう」
「だからこそです。私が綿津見の意志を全うせねばなりません」
「…………ここから出してください。わたしは彼の側にいたいのです」
「できません。貴女は唯一の退路だから」
「…………」
「私でさえ見るに耐えないあの『黄泉』の影に憑かれた姿。貴女が祓おうと思わないはずがない」
「わたしは、いたしません!」
「いいえ、貴女にはできる。できることをしないなどと仰るのはおよしなさい」
姫の手がわなわなと震えました。海若の影を見るに見かねて祓ってしまうと言われたのですから。彼女が抱えた葛藤は分からないでしょう。
影を清めれば綿津見がこれまでしてきたことが水の泡。同時に神々の思惑も裏切られることなります。
祓わないという一点では同じですが、彼らの描くものはまるで違います。生かさず殺さず。それが『真海』の神々の求めることで、姫は彼を信じ支えたいのです。
厚い壁越しに話すので声が掠れてきましたが、なおも瀬織津姫は叫びました。
「わたしは老綿津見に助けられ、今は海若と共にあります。海若と共にあるということは、彼の戦いと共にあることです。お分かりください。どうぞ出して下さい!」
「出せば止めるでしょう。生まれ持ったものは抑えられない、貴女は荒ぶる魂………」
「何を仰っているのかわかりません。わたしは『竜宮』で生まれ『竜宮』で育った水神です」
「忘れているだけだ。貴女の名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」
「……………」
「『高天ヶ原』の日の神、天照大神の荒御魂、それが貴女です。そうでなくてどうして、神が怖れる『下海』を祓える? どうして『黄泉』の穢れさえ清められる?」
「…………老綿津見は知っていたのでしょうか」
「知っていて貴女を側に置いたのだ。だから退路とは、貴女のことだ」
離宮の中に沈黙が降りました。天都比古禰がその場を竜人の衛士に任せ去ろうした時、姫の声が追ってきました。
「違うと思います」
「……………」
「退路を断つとはわたしのことではありません。退路とは弱さです、彼の中の迷いの全てです」
「綿津見どのが弱いわけなどない」
「わたしもそう思っていました。でも彼は彼のみで強くあるわけではありません。………迷いが生まれたら、貴方に叱責してほしい。綿津見さまはそう思われたのではないでしょうか」
「………姫は思い違いをしている…………」
天都比古禰は東の海中に目を向けました。稲光が先程より近づいています。
「もし彼が『高天ヶ原』の来訪者を退けることができたら、『真海』も考え改めるだろう」
「海神とは力だけの存在でしょうか」
「無論。それのみではないがそれが求められるのが今生だ」
姫は扉の僅かな隙間に頬を寄せると、歌を詠みました。
「忘れじの 銀濤の心 柔らか 海の都に 悲しみぞなき」
銀濤とは銀の髪の海若を指しています。
その心になにを思って『竜宮』を守り続けたか、彼の心の襞にあったものがなんであったのか忘れないで、と。
天都宿禰はしばらくその場に佇んでいましたが、やがて無言のまま去っていきました。
よほど強く拳を握りしめていたのか、竜の爪を持つ手のひらから一筋の血が流れて伝い落ちました。
その後も離宮の中からは、
「出して下さいませ。出して下さいませ」と訴え続ける姫の声は途絶えませんでしたが、扉が開かれることはなかったのです。
続く
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一方、健御雷神と対面した海若は夜礼の末路を知ることとなりーー事態は局面へと向かういいなと思ったら応援しよう!
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