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児島青 『本なら売るほど(1)』 : 本が教えてくれる「真実」

書評:児島青『本なら売るほど(1)』(KADOKAWA・ハルタコミックス)

本書も、約1ヶ月ぶりに大阪梅田に出た際、紀伊国屋書店梅田本店の新刊コミックの棚に見つけて、衝動買いしたものである。無論、作者の名前も初見であった。

私が本書に惹かれた理由は、本書が「古本屋もの」だということもあるけれど、それだけではない。それだけなら、私は長らく「古本屋もの」の小説やエッセイなどをあえて避けてきたのだから、きっと買わなかっただろう。
では、なぜ本書に「特に」惹かれたのかといえば、それは「本なら売るほど」というタイトルが、無視できないものだったからだ。

一一どういうことか。
この「本なら売るほど(あるよ)」というのは、ふた昔前の古本屋の主人が、よく口にした「定番のジョーク」だったからである。
つまり、本書の作者は、それなりに「年季の入った古本好き」なのだというのがわかったので、そのあたりで、当たり前の「古本屋もの」以上の何かがあるのではないかと、そう期待したのである。

そして、そうした期待に、本書は一応のところ応えてくれた。
それは、ある「一点」においてであり、たぶんこれまでの「類書」では描かれなかったことであろうはずだ。

だがまた、それ以外の点については、あまりマニアックにはならない程度に、当たり前の「古本屋もの」漫画になっている。
したがって、悪くはないが特別に良いとも思わなかったので、ひとまず今の私には、続巻を購入するつもりはない。忌憚なく言えば、その程度だったということだ。

本書は、「古本屋もの」では定番の、「ある本」をめぐって、それに関わる「本好きたちの人生」を切り取って描いた連作短編集だ。
そしてそれはおおむね、「リアル」であるよりは「良い話」に近い。だから、私としては、そこが少々もの足りなかった。

だが、私を満足させた「ある一点」について書くだけでは、さすがに愛想がなさすぎるので、収録の6話分で扱われる「実在の小説本」などにからめて、個人的な思いなどを「寄り道」的に書かせてもらおう。

第1話「本を葬送る(おくる)」
第2話「コーヒーにこんぺいとう」
第3話「アヴェ・マリア」
第4話「201号室入居者あり」
第5話「当世着倒気質」
第6話「さよなら、青木まり子」

第1話「本を葬送る(おくる)」に登場するのは、エイモス・チュツオーラ『やし酒飲み』である。しかし、このアフリカ文学の傑作を私はまだ読んでいないので、当然、語るべき感想も思い出もない。
ただ、当エピソードでは、この本が特に重要だというわけではない。主人公の若い古本屋が、故人の蔵書の買取りに入った際の、その中の1冊が同書だったというのが、本作中での位置づけである。

当エピソードのポイントとは、前述の、私の期待に応じてくれた「ある一点」なのだ。そして、それは何かというと「本のつぶし(廃棄)」である。

故人にとってどんなに思い入れのある本であろうと、まとめて買い取った本の中には「売り物にならない」ものが、少なからず含まれている。
だから古本屋は、蔵書整理などで買い取りをする際、現場で本を選別して購入するのではなく、全部引き上げて、後日「一括でいくら」と支払いを済ませたあとに、「売り物にならない本=在庫としても残しておく価値のない本」を廃棄するのだ。古本屋にだって、無駄に本を置いておくスペースなどないからである。

しかし、ほとんどの古本屋は、本好きが嵩じてなったのだから、「本をつぶす」ということには、むろん抵抗を感じる。
つまり、できれば廃棄したくはないし、引取り手があるなら無料で譲っても惜しくはないのだが、商売となれば、そんな悠長なことは言っていられないので、涙を呑んで「廃棄」する。一一そんな「古本屋の現実」を描いているところに、私は少々感動したのだ。普通の「古本屋もの」なら、「本への愛」は語っても、「本をつぶす」という現実を語ることなんかないからである。

私たち「本好き」は、たいがい「古本屋」も好きであり、古本屋に憧れたりをするのだが、現実とは、決して甘いばかりのものではない。
実際、古本屋になれば「店番をしながら本を読める」などと考えるのは、大甘だ。本を読む暇が欲しければ、古本屋になどならないほうがマシ、ということも十分あり得るのだ。

例えば、近年は、へたな文学賞をよりも注目度の高い「本屋大賞」や、紀伊国屋書店主催の「キノベス!」などは、「書店員が選ぶ、年間ベスト本アンケート」なのだが、こうした「ベスト投票」が意味をなすのは「書店員なら、本をたくさん読んでおり、本のことなら何でもよく知っているはずだ」というのが、その前提となっているためだ。一一だが、言うまでもなく、これは「幻想」でしかない。

たしかに書店員は「一般の若い本好き」よりは、本を読んでいるかもしれないし、ある程度は詳しくもあろう。
だが、若くても「マニア」と言われるような本好きより詳しいとは言えないし、ましてや年季の入った本好きより詳しいわけでもない。単に「書店員」という肩書きが、本のことをあまり知らない人たちに、「幻想の権威」を抱かせているだけなのだ。
「古本屋は、金儲けはできなくても、本を愛でていられる幸福な職業」だといった「幻想」と同じように、である。

そうした意味で、このファーストエピソードは、じつに「本をめぐる人生」の本質的な部分を鋭く突いた、類例のない物語となっている。
もちろん「名物古本店主のエッセイ本」などを読むほどのマニアには目新しい話ではなくても、「古本屋フィクション」(漫画や小説)止まりであろう多くの若い読者には、「人生」の「甘くはない部分」を伝えて、趣きのある作品となっているのだ。

第2話「コーヒーにこんぺいとう」は、寺田寅彦の本が扱われている。テーマ的には「理系と文系」の問題。
昨今は、「文系学問(文学部)なんていう役に立たないものは潰してしまえ」と主張する自称「理系」の人がいるようだが、私に言わせれば、そういう薄っぺらいことを言う自称「理系」とは、所詮「三流の理系」でしかない。
なぜなら「一流の理系は、一流の文系に通づる」ということがあるからで、その何よりの実例が、寺田寅彦なのだ。

第3話「アヴェ・マリア」では、森茉莉の本が扱われている。
森茉莉の本は、私のコレクション対象でもあったから、このエピソードで描かれていることは、その誇張まで含めてよくわかる。
ちなみに、私は、森茉莉の「初版本」の多くを所蔵していたが、欲しくても最後まで手に入らなかったのは、第1著書である『父の帽子』の初版完本であった。
しかしながら、そうした蔵書も昨年の蔵書整理で、「森茉莉全集」まで含めて全部処分してしまった。森茉莉は、読んで面白い(好み)というよりも、本書で紹介されているとおり、その「浮世離れした耽美世界」が「面白い(ユニークだ)」と思ったのである。私は「変人」が好きなのだ。

第4話「201号室入居者あり」は、蔵書のために、自分の部屋に壁を覆うほどの手作り本棚を作ろうとする青年の話である。それに協力することになる、マンガしか読まない青年が、その本好き青年に感化されてドストエフスキーに挑もうとするが、実はその本好き青年の方も‥‥‥。という、オチのついた作品である。
少々「極端なオチ」ではあるが、本好きの一面を捉えた良い作品だ。多少「BL」臭を漂わせているが、それは気にならない程度のものである。

第5話「当世着倒気質」は、「和装の着付け」に関わる「自分なりの着崩し方」を通して、型にとらわれない「美意識」の重要性を語っている。
無論これは「読書」についても同じで、「作者が(あるいは、解説者が)こう言っているから、この作品はこういう作品なんだ」などという読み方(考え方)は、まったく「美しくない」し、悪い意味での「優等生的な感想(読み)でしかない」。
だがまた、そんなものの蔓延っているのが、今どきの自称「本好き」の言説である。だからたぶん、本書の感想でも、そうしたものが大半なのではないかと、容易に推察される。「粋」な人間など、そうそう、いはしないのだ。このエピソードに描かれる老若の二人も、当然のことながら「毒舌」ぎみである。

第6話「さよなら、青木まり子」は、本作の主人公である「古本屋の青年」が、古本屋になるに至る経緯を描いた「懐旧譚」である。つまりこのエピソードも、「ある特定の本をめぐって展開される、良い話」ではなく、第1話と同様「古本屋の経験する苦さ」を描いた作品である。
しかし、そんな「苦さ」があっても、古本屋をやりたいという「奇特な愚か者」がいるからこそ、「古本屋」は存続しているのだということでもあろう。この世に「奇特な愚か者」は必要不可欠なのだ。

どっちにしろ、この世間において、「賢い」人間は「本バカ」になどなりはしない。「本バカ」とは、文字どおり「バカ」でなければなれないものなのだが、ひとつ言えることは、「賢い生き方」が、必ずし幸福だとは限らない、ということであろう。

本とは、そんな「浮世離れした真実」を教えてくれるものなのである。


(2025年4月17日)


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