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イシコ 『邪神の弁当屋さん(1)』 : 「やさしさ」の社会心理学

書評:イシコ『邪神の弁当屋さん(1)』(講談社・コミックDAYSコミックス)

先日、1ヶ月ぶりに映画を見に出かけた際、紀伊国屋書店梅田本店の新刊の棚に本書を見つけ、とても可愛らしいその表紙画に惹かれるままに贖った。

無論、どんな作品かはまったく知らなかったが、タイトルに「邪神の」とあるから、この表紙の「割烹着の少女」の正体が、たぶん「クトゥルフ(クトゥルー)」なのだろうと考えた。つまり、『這いよれ!ニャル子さん』と似たような設定の、しかし、絵柄からしてもう少し落ち着いた作品ではないかと推測した。
また、帯には、

弁当箱に詰まっているのは、
ちょっぴり苦い罪とほんのり優しい愛

圧倒的反響でXトレンド入り!
総いいね数10万越えの可愛い&切ない、お弁当ファンタジー!

とあるから、コメディである『ニャル子さん』とは違い、こちらは「ちょっと泣かせる良い話」系の作品であろうと、基本、コメディに興味のない私としては、その点でも本作に期待したのである。
ちなみに、本作における「邪神」とは、「クトゥルフ」のことではなく、「異郷の神」というほどの意味であった。

さて、そんな感じで、それなりに期待して読んだのだが、一読して感じたのは「悪くはないけれど、特別良いわけでもない。感じの良い、まずまずの作品」といったところであった。

本作で私の興味を惹いたのは、見かけがとても可愛い(正体は、邪神ソランジュ)の少女レイニーが、じつに飄々として、いわゆる「カワイイ」キャラクターではない、という点である。
「可愛い」わけでもなければ、逆に振れて「性格が悪い」というパターンでもない。そうではなく、いかにも「神さま」らしく「ほほう、人間とはそんなふうに考えるのか。興味深いな」と、そんな感じで、達観というのとはまたちょっと違う、「退いた視点」で人間を見ているのだ。

だから、「弁当屋」をやっていることについても、自分としては、ただ淡々と、しかし興味を持ってその職務を果たしている、という感じで、要は「熱くもなければ冷たくもない」のだ。

現在彼女が、今の姿で「弁当屋」なんかやっているのは、かつては一国をあげて崇拝された「神」(部族神的なもの)だった彼女への信仰が原因で「戦争」が起こり、多大な犠牲を出してしまったので、それへの罰として、彼女は「上位の神らしきもの」によって人間の姿に変えられ、人間への奉仕を課せられた、といったような事情のようだ。
そこで、彼女の始めたのが「弁当屋さん」というわけである。なぜ、そういう発想になったのかは不明だが、とにかく、お弁当で人間に奉仕するのである。

こうした「設定」からもわかるように、本作にはかなり「すっとぼけた」部分があって、登場人物たちのやりとりも、そんな「すっとぼけた」ものが多い。その意味では「コメディ」的な要素も少なくないのだ。

だが、そうした、善なる邪神の少女と、基本、全員が善人である人間との「すっとぼけた、微笑ましいやりとり」の間に、回想シーン的に「過去」の描写が挟まれるのだが、こちらは、「現在」のすっとぼけた感じとは違って、その全体像は窺えないものの、なにやら「悲しい過去」だというのがわかる。

つまり、登場人物たちは、それぞれに「悲しい過去」を抱えながらも、それを乗り得て、今は明るく前向きに生きているというのがわかるのだ。彼ら彼女らは、決して「能天気でお人よしなだけの善人」ではないのである。

したがって、本作の主たる登場人物たちは、基本的には「平和そうな良い人」ばかりであり、それでいて単なる「善人」ではなく「悲しい過去」を持っている点で、キャラクターに「さびが利いている」。単に「甘ったるく良い話」なのではなく、ピリッとひき締める部分があるから、かえってその「甘いだけではない甘さ」を美味しく味わえるのだ。

一一だが、私としては、こういう作品は、いささか「物足りない」

要は、「暗い過去があって、明るい今がある」というのは良いのだが、その「暗い」と「明るい」の双方向において、どちらも「ゆるい(不徹底)」という印象が否めないのだ。
いわゆる「ギャップ萌え」的な線を狙うのは結構なのだが、そのギャップがささやかなものでしかなく、「徹底的なものが面白い」主義者の私としては、本作の「微温さ」が、いかにも物足りなかった。

で、この作品が、どのくらい人気があるのかと「Amazonの紹介ページ」を覗いてみると、本巻は本年1月の刊行で、刊行後3ヶ月ほどの現在、評価が「936」も集まっており、その大半は「5点満点」だ。
大半が短いものだとは言え、カスタマーレビューも少なくはなく、この作品が多くの人に歓迎されているというのは間違いない。

ただ、本作への賛嘆の言葉には、あるハッキリとした傾向が見られる。

『独特な世界観と可愛い絵に惹き込まれる』『チュンちゃんかわいすぎ』(トレードマーク

『絵が可愛い、ボケも面白い、レイニーと旦那のなんとも言えない人間関係も萌え。ちょっと切ないのも良い!これからの話も楽しみでなりません。』(テスタメント

『可愛い絵柄と深みのあるお話です。』(ネプター

『どこか切ないけれど暖かい気持ちになれる作品』(soysoupsan

『人間味があってほっこりします。』(聖。

『心温まる物語』『かわいい絵柄に個性的なキャラクター、そしてどことなく憂いを帯びたような世界。』(Mage San

『おとぎ話みたいなのに、泣きそうになる。』(nico

『お兄ちゃんの心の美しさ最高すぎる。』(カクカカ

『ちょっぴり切なくてほろ苦い、でも味わい深いストーリーですね。』(まるちゃん

『ほのぼの〜 とっても癒されます』(marron

つまり、「可愛い」「萌え」「暖い(温かい)」「ほっこり」「ほのぼの」「癒される」というような「良い話」だけれども、それだけではなく「どことなく憂いを帯びた」「ちょっぴり切なくてほろ苦い」「泣きそうになる」という側面もあって、それが本作に「深みがある」と感じさせる厚みを与えているのである。

だが、カスタマーレビューの中では、最も評価の低かった、と言っても「(5点満点の)3点」と付けているレビュアー「kindle」氏の評価は、次のようなものである(※ なぜか個別記事へのリンクが見つからなかった)。

『 Kindle 『面白い』(5つ星のうち3.0)
2025年1月23日
面白くて読切から追っていたが大きな筋がなく見切り発車ではじめたのか、話が動かず平坦である。その点以外は世界観やトーン含めてとても良い。』

つまり、作品の「雰囲気」自体は好きだし褒めてもいるのだが、「物語の作りが弱い」という評価だ。一一そして、私の評価も、まさに、この「kindle」氏と同じなのである。

したがって、私としては、もはや以降の巻にも期待しないし読もうとも思わない。だから、これ以上、本作を語るつもりもない。

ただ、私が、気になったのは、本作自体ではなく、本作の「歓迎のされ方」の方なのだ。
こういう作品が、ここまで多くの(たぶん若者)読者から高く評価され、熱心に歓迎される現状に、今の若者の「心的傾向」を見たように感じられたのである。

 ○ ○ ○

そうした「今の若者の心的傾向」とは、主に次のような2点である。

(1)真面目
(2)傷つきやすい

(1)の点については、先日読んだ、住吉雅美『あぶない法哲学 常識に盾突く思考のレッスン』(講談社現代新書)から、次の言葉を引用すれば足りるだろう。

殺人的豪雨の中でも登校する大学生
 上から命ぜられたことをただ守る。「法律だから」「規則だから」「政府が言うから」という理由で何も考えずにひたすら守る。それは、保身のために思考を止め、ただ多数派の群れの中にいたい、そして支配されていたい、その結果何が起ころうと自分は責任を負いたくないという心根の表れである。しかし、命令を下した権力者や法律は、自分らに忠実なそういう人々がどうなろうと知ったことではない。結局、法律や規則、命令と向き合って、それに従うことによってどういうことが起こるのか、それが良いことなのかどうか、自分で真剣に考えて行動する方がましであろうと思う。そのように考える姿勢は、一般的に法を尊重する生き方と矛盾するわけではない。
 最近の大学生は真面目である。痛ましいほど真面目である。たとえば、未明から防災速報アラームが次々と鳴り、気象情報は大雨警報を発し、早朝からJRの一部区間が運転を取りやめ、さらにその区間が拡がりそうな気配の中でも、「大学から休講の連絡がないから」といって危険を冒して一時間目の講義出席のために登校するのである。
「こんな大雨じゃ外出したらヤバいかも。帰れなくなるかもしれない。安全のために休もう」と自分で判断せず、ひたすら「大学からの指示」の有無で行動するのである。理由は「もしかしたら講義があって、出席をとるかもしれないから」というものだ。出席と身の安全と、どちらが大事なのだろう。
 とはいえ、現代の大学生を「自分で判断しない指示待ち」と批判するのは彼・彼女らに酷である。現代の大学生がこんなに悲しいほど真面目にならざるを得ないのは、大学なのに出欠をとるようになったこと(小学生じゃあるまいし)、そして(昔はなかった)半期一五回講義のルールができて、大学が極力休講にしなくなったことなど、文部科学省による大学への縛りがきつくなったことによる。
 今から四〇年近く前までは、一五回ルールはおろか、シラバスもレジュメも板書もなく(休講も結構あったなぁ)、今の文科省から目一杯ダメ出しされていたであろう大学教育だったが、それだからこそ学生は「こんな教授陣には頼れない」(但し研究面ではすごい教授陣が多かったが)と危機感を覚え、「自分でどうすべきか」と真剣に考え、自力で必死に勉強した。それだからこそ山中伸弥教授など、ノーベル賞を受賞するような優れた人々が現れたのである。
 今の大学も大学である。とにかく近年は、私立大学さえお上の言うことを無批判的に、アホみたいに聞くから、純粋培養されたよい子たちの学生までそうなってしまった。こんなに真面目な学生たちは卒業して就職しても、たとえ豪雨だろうが、ヤリが降ろうが、川が決壊しようが、火山が噴火しようが、地球が滅亡しようが、会社から指示がない限り、ひたすら時刻を気にしながら職場に向かうのだろう。
 私のような不良教員から現代の学生に言いたいことはただひとつ、「いのちだいじに」。』(P110〜112)

『あぶない法哲学』の著者である住吉雅美が、同書において訴えているのは、要は「なんでも鵜呑みにするな。むしろ、どんなものであろうといったん疑ってみろ。従順な優等生ではなく、もっとヤンチャになるべきだ」といったことなのである。

一一だが、前述のとおり、本書『邪神の弁当屋さん』の読者というのは、残念ながら、住吉雅美が言うところの「真面目すぎる」「よい子」の典型にしか見えないし、住吉が言うところの『純粋培養』にしか見えない。つまり、少し「混じり物(混入物)」があるだけで途端にお腹をこわしてしまう(拒絶反応が出てしまう)というような、「ひ弱さ」があるようにしか見えないのだ。

したがって、そんな彼らの「真面目さ」とは、住吉の指摘しているとおりで、「真面目に(害のない良い人を)やっていれば、他者から加害されることもないだろう」といった「自己防衛意識」に発するもののように感じられてならない。
優しくしたいのではなく、優しくされたい、優しい人たちなのだ。

また、(2)「傷つきやすい」という特性におけるこうした「真面目さ」というのは、なにも日本に限った話ではなく、「先進国」に共通の現象のようにも思える。
例えば、私は未読だが、次のような本もあって、さもありなんと感じられるところがあるのだ。

ジョナサン・ハイト、グレッグ・ルキアノフ著
『傷つきやすいアメリカの大学生たち 大学と若者をダメにする「善意」と「誤った信念」の正体』(草思社・2022年刊)

日本だけではなく、どうやらアメリカの若者たちも「傷つきやすく」なっているようなのだ。一一だが、問題は、同書の内容が、

『「不快」を理由とする講演妨害が横行
言葉尻を捉えて教員を糾弾、辞職へ追い込む
大学教員の政治的多様性が低下。左に偏向
未熟で脆弱、不安・うつが多い「Z世代」
親はすべてを危険と捉え過保護に育ててきた
大学が極端な市場重視に。学生はお客様扱い

立場の異なる論者の講演に対し、破壊と暴力をともなう激しい妨害を行う学生たち。
教員の発言の言葉尻を捉えて糾弾し、辞任を求める激しいデモを展開。
さらには教授や学部長、学長までを軟禁し、暴言を浴びせる――。
アメリカの大学で吹き荒れるこれら異常事態の嵐は、Z世代の入学とともに始まった。
彼らはなぜ、そのような暴挙を振るうのか?
言論の自由・学問の自由を揺るがす現象の実態と背景、
さらには対策までを示して高く評価された全米ベストセラーがついに邦訳。
キャンセルカルチャーポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)問題を知るための必読書。』

といった具合で、「傷つきやすい若者たち」が、いつでも・24時間「羊のようにおとなしい」のかといえば、どうやらそうでもなさそうだという点である。

無論、この本の著者の立場は、明らかに「昔はマトモだった」という「保守主義」者のそれであり、若者たちの「過激さ」に対して否定的にすぎる印象は否めない。
だがまた、こうした「今どきの若者」観が、完全に間違いだとも思えないのだ。

つまり、日頃は(個人としては)「被害」を怖れて大人しくしている分、自身の「安全」と「正義」が保障された途端「過剰に攻撃的になる」という側面もあるのではないか?
例えば、「匿名」のネット言論などに、そうした悪しき側面が表れてはいないだろうか?

無論、すべての若者がそうだというわけではない。だが、

抑圧の反動としての過剰な攻撃性

とか、

直接的に傷を負う経験の乏しさから、他者が負う傷の痛みへの想像力を欠く

といったことも、十分に「あり得る」ことに思えるのである。

「昔は良かった」わけではない。だが、少なくとも昔は「傷つきながら成長する」ということが当たり前ではあった。傷つく体験をしないで、頭だけ(知識だけ)では、人間は本当の意味での成長をなし得ない、といった感覚は、当たり前のこととして存在したのだ。

だが、ネット社会の今、「たった一度の失敗」が致命傷になるという実例を見せつけられている若者たちが、過剰に「失敗を怖れ、傷つくことを怖れる」というのは、むしろ当然のことなのでもあろう。
だが、だからといって「このままで良い」とは思えない。

昔のSF小説には、未来の人類は、その恵まれた環境による「純粋培養」性と、それに由来する「脆弱性」において、いったん「想定外な状況」が発生したときには対応不能となって、呆気なく絶滅してしまう、というような物語がしばしば見られたのだが、私には、今の若者たちの「優等生」的な特徴が、そうした「ひ弱さの裏返し」に見えてしまう。
そして、かつてのSF小説が想定したような事態も、十分「あり得る」のではないかと、そんなふうに危惧されてならないのだ。

だが、仮にそうだとしたら、これはもうすでに避け得ない「傾向」なのだろうか?

これからの若者たちは「ちょっとしんどいけれども、味わい深い作品=歯応えのある作品」を楽しむことができなくなってしまうのだろうか?

2時間の映画は長すぎるからと3倍速で内容だけをチェックして、あとはTikTokのようなお手軽なものばかりで満足するのだろうか?

だがこうしたことは、人間が「しぶとさ」を失ってきているというのを、意味しているのではあるまいか?

例えば、往年の傑作アニメ『機動戦士ガンダム』の主人公アムロは、年上の軍人からビンタ(平手打ち)をくらうと、自分の頬を押さえて「殴ったね、親父にも殴られたことないのに!」と「口答え」したとされているが、今の若者なら、いきなりビンタされたり、顔を殴られたりしたら、びっくりしてしまって、反撃はおろか口答えさえできないのではないだろうか。今どきは、原因や理屈はどうあれ「手を出したら負け」で、普通は手を出さないからである。

しかし、現実の世の中では、いきなり手を出す者だっているし、例えば「戦争」などでは「いきなりガツンと一発(宣戦布告なしの奇襲)」なんてことも、今や当たり前に行われている。それが「剥き出しの現実」なのだ。
つまり、決して現実は「優しくない」のだが、「決して他者を傷つけてはならない」という「建前のベール」を外された「剥き出しの現実」に直面したときに、今の若者は、それに抵抗する力を持っているだろうか。

むしろ、もしかすると「手を出さない、優しそうな(弱そうな)相手」だけを「悪」と名指し、「正義」を振り翳して「皆で袋叩きにする」なんてことを、「安心」して、やってしまうのではないのか?
それが「恥ずかしい」とも思わず、「当然のことだ」とボコボコにやって、うっかり殺してしまったりはしないだろうか?

だが、そんな世界こそ、少しも優しくはないのである。


(2025年4月12日)


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