反時代的「男」論 : 兵頭新児 『ぼくたちの女災社会』 批判
本書の著者は、私が「北村紗衣」批判を始めた当初に、「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」関連か「北村紗衣による山内雁琳に対するスラップ訴訟」関連の記事かを、参照させていただいた方だ。
たしか、元オタクだというような自己紹介をなさっていたから、準オタクである私の印象にも残ったのだが、そんな元だか現だかのオタクである本書の著者が、(たしか)保守系のネットメディアで、アンチ・フェミニズムの記事を書いているという事実の方も、それなりのインパクトを感じた。
元来オタクというのは、快楽原則に従って生きている(動物化するポストモダンだ)から、政治向きの話には関わりたがらないのが普通だと、私はそう思っていた。
けれども、本書の著書である兵頭新児の場合は、フェミニズムなんか無視して趣味の世界に耽溺する、というわけにはいかなかったのであろう、オタクとしては、不幸な人だったようだ。
まあ、オタクとて現実世界に生きているのだから、政治向きの話と無関係ではいられない(例えば、エロ漫画の法規制問題など)。
そこで、それでも現実を無視し切る人もいれば、現実と向き合わざるを得なくなった人もいて、兵頭の場合は、後者だったということなのであろう。
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さて、本書は、端的に言って「アンチ・フェミニズム」の書である。

さらに言えば、学術書的な書き方ではなく、ぶっちゃけ本音で話しましょう的な、くだけたスタイルで書かれており、その端々にオタクネタが散りばめられてもいて、著者は決して文化人っぽく威張ろうとするようなタイプの人ではない。だから、じつに親しみやすい読み物となっている。
無論、単著として刊行するからには、それ相応のリサーチを行った上で書いており、決して書き飛ばしの本ではない。
本書には、著者の本気がこもっており、その点で好感の持てる著書なのだ。決して、金儲けだけで書いたような、何でも屋による本ではないのである。
しかしながら問題は、著書の本気は、その目を血走らせ、曇らせることにもなっている。
冗談めかした軽い調子で書いてはいても、その根底にあるのが本気であればこそ、その軽い調子ほどには、自己を相対化しきれてはおらず、「フェミニズム憎し」が「女性憎し」にまで嵩じている。
本書のタイトルが『ぼくたちの女災社会』のなっているのも、「フェミニズム災害」あるいは「フェミニスト災害」に止まらず、ほとんど、女性そのものへの憎悪にまで発展しているからで、そのために「女災社会」という表現にもなっているのだ。
「そりゃ女だって馬鹿は多いよ。男にだって馬鹿が多いのと同様に」というような冷静さを、本書は端的に欠いている。
無論、馬鹿ほど悪目立ちして、悪貨は良貨を駆逐するということもあるのだが、それにしてももう少し、女性に対してフェアな態度が採れなかったものかと、そう悔やまれるものとなっている。
もちろん、正しい指摘も数多くなされており、学ぶべきところの少ない本なのだが、総じて言えば、著者の女性一般に対する恨みつらみ(ルサンチマン)がだだ漏れで、せっかくの指摘をも無駄にしてしまっているのだ。
つまり、著者が嫌うようなフェミニストに言わせれば「ミソジニー(女性嫌悪)」丸出しの本になってしまっており、そう指摘されても否定できない代物なのだ。
もちろん著者は、程度の低い女性たちによって、それほどまでに傷つけられてきたということなのであろうし、またそうした立場から世の中を見て、危機意識を募らせたのであろう。
その点で、著者の本気やその意味での「誠実さ」は疑い得ないのだが、いかんせん「冷静さ」や「客観性」に乏しすぎる。
無論、当人は客観的に書いているつもりであろうとも、その文体に感情(怨念)がこもりすぎていて、とうてい客観的な叙述にはなっていない。
しかしまた、私のこうした、数歩も退いたスタンスは、本書著者によれば「女性の仕掛けた罠に、まんまとハマっている」ということになるのであろう。
どういうことかと言えば、一一「男は強くあらねばならない。女性に優しくあらねばならない」という、女性が男性に強いてきた、不平等な倫理を内面化しきっており、そのせいで、まんまと女性の利益に自らを供して、わざわざ損をしている、というようなことだ。
だが、私に言わせれば、「男性らしさ」が強いられていると思うのであれば、それを堂々と拒絶すれば良いだけの話である。
なのにそれを、社会的な対面や何かで、嫌々引き受けて「男らしぶっている」というのならば、それはぜんぜん「男らしくない」ということにしかならない。
男らしい「男らしさ」とは、自ら進んで引き受けるものであり、だからこそ価値もあるのだから、著者のように「男は男らしさを強いられて損をしている」みたいな主張は、まったく違う。

たしかに世の中には、「男らしさ」を強いられて、嫌々ながら男らしく振る舞っている男性が多いだろう。だが、そんなものを「男らしさ」と呼ぶべきではない。
「男らしさ」と「エセ男らしさ」を混同すべきではない。
男は強いから「男らしい」のであって、強くない男は、見せかけだけの「男らしさ」など演じるべきではない。
それはインチキの偽物なんだから、身の程を知って、「凡庸なオス」らしくしていればいい。ただし、その自覚を持ってだ。
そんな「凡庸なオス」でしかない男が、無理をして「男らしさ」を引き受けようなどとするから、「女に男らしさを強要されました。私は被害者です」みたいな泣き言を言わなければならなくなるのである。
繰り返すが、男は強くあってこそ、初めて「男らしく」あることができるのだ。弱い男は、男らしくあることなんてできない。
例えば、女性と飲みに行って、いつも奢らされるのが嫌なら、見栄を張って嫌々ながらに奢り、後で「あの女は…」なんて陰口を叩くのではなく、「今回は君が奢って」と言えば良いのだ。それが「男らしさ」である。
そのせいで、相手の女性から「男らしくない」と言われたら、「それは君の了見違いだよ」と言えばいいのだし、納得するまで説明してあげればいい。
それでその女性が泣いたって、それは仕方のないことであり、その女性がその程度の人間でしかなかったというだけの話である。
無論、それで嫌われて絶交されたって、それは望むところではないか。
変に、嫌われたくないから本音を口に出来ないとかいうのが、そもそも「男らしくない」のである。
また、「嫌な性格の女だけど、見栄えだけはいいから、連れて歩くのにはちょうどいい。それに性の捌け口として必要だしな」などとケチなことを考えて、そんな女性を繋ぎ止めておこうなんて考えること自体が、完全に「男らしくない」のである。
したがって、「男らしい」男ならば、女性から「男らしさ」を強いられるようなことにはならないし、「世間」からそれを強いられることもない。
女性一般や世間がどう言おうと、自分の正しいと思うところを貫ける男が「男らしい」のであって、それ以外は「凡庸なオス」なのだ。
だから、「男らしい」男ならば、「馬鹿な女にも優しくしよう。なにしろ私は男なのだから」と考えることもできる。
与えた分だけ返してもらおうなんて、ケチな考えは持たない。
白州次郎ではないが、これは「ノブレス・オブリージュ」みたいなものだ。
しかし、それでも「優しくしてやるべきではない」と判断された際には、厳しくすれば良い。それだけのことだ。
人から「女性に対して、そこまでするか」と非難されても、「いや、私は同じことを男に対してもやるよ。つまり、女性だからと言って差別はしない。同じ人間として、同じように扱ってるだけだ」と、そう説明することもできるだろう。
このように「男らしさ」とは、世間に迎合することでもなければ、無論、女性に迎合することでもない。
「本気と書いて、マジと読む」ではないけれど、「男気(おとこぎ)」を「侠気」と書く場合の「侠(おとこ)」、「侠客(ヤクザ)」の「侠」とは「任侠」の「侠」であり、「任侠道」とは、自らの倫理に生きるということである。

そしてそれは、しばしば世間の常識や法律さえ踏み越えていくものだから、任侠道に生きる者は「ヤクザ者」とか「極道」などとも呼ばれるのである。
つまり、男とは、自分で決め、その倫理に従って生きる者のことであり、他人に何かを強いられて、泣く泣くそれを受け入れ、あとで泣き言や恨み言を言うような者は、男ではないし、男らしくもないのだ。
したがって、「男らしさが強いられている」などというのは、被害妄想にすぎない。
その女性が間違っており、殴ってでも正してやらなければならないのなら、自分が犯罪者になってでも、殴ってやるのが男なのだ。
その女性のために、あえて損な役回りを引き受けられるのが男なのだ。
もちろん、そんな男など滅多にいない。
無論、私だって、そんな立派な男ではないけれど、しかしそういうものでありたいと思っている。
いつも引用しているとおりで、SF作家のシオドア・スタージョンは、
「SFの9割はクズである。ただし、あらゆるものの9割がクズである」
と断じたが、まさに至言であろう。
女性の9割はクズなのである。だから、滅多に素晴らしい女性にお目にかかれないのは当然なのだ。
したがって男性は、自分が、その1割の女性が寄ってくるほどの男がどうか、胸に手を当てて考えてみればいい。顔の問題だけではないのだ。
ともあれ、当然、男性の9割もクズなのだから、体力的な優位に任せて、女性を虐げてきたという歴史も事実なのだ。
クズがそれをしないわけがなかろう。
だが、自分も「男」ならば、女性に対して、そんな「クズ男性」の責任をも負わねばならない。なにしろ同じ男なのだ。
日本人の恥は、日本人が雪ぐというのと同じようなことだ。法的な責任など無くても、男の倫理としての責任はある。いや、責任を感じないではいられない。一一それが、男であり、日本人なのだ。
本書著者は、女性の男性に対する過酷な要求の裏には「ルサンチマン」があると、そう指摘している。
それはもちろんあるだろう。すべての女性ではなくとも、「俗人」というのは、性別を問わず「ルサンチマン」を持つものなのだ。
ニーチェの指摘を待つまでもなく、誰よりも本書の著者自身が、女性に対して「ルサンチマン」を持っていることからも、それが明らかなように。

しかしながら、そんな「似たもの同士の泥試合」など、男の関わるべきものではない。
男だから「男組」として女に抵抗しなければならないとか、女だから「女組」のために働くのが当然だなどというのは、どっちにしろ「9割のクズ」の論理でしかない。
そんなものは「右を向いても左を見ても、馬鹿と阿呆の絡み合い」でしかない。
しかし、だからと言って「どこに男の夢がある」などと嘆くのも、男のすることではない。
男は黙って、我が道を行く。
女も黙って、我が道を行く。
それで良いのだ。
女性を代弁している女だとか、男性を代弁している男だとか、そんなものに碌な者はいない。
最後は、男でも女でもない、たった一人の「私」がいるだけなのだ。
私が判断し、私が責任を取るだけなのである。
(2025年12月29日)
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