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出崎統監督 『劇場版 エースをねらえ!』 : 友情の人・出崎統

映画評:出崎統監督『劇場版 エースをねらえ!』(1979年)

私は本作を出崎統杉野昭夫コンビ」の、最高傑作だと評価している。

また、私がこれまで鑑賞してきた全アニメ作品における、私の「オールタイムベストワン」だ。
「ベストテン」でも「ベスト5」でもなく、「ベスト1」である。

(映画パンフレット)

もちろん、このペア自身、他にも傑作がある。
だが、劇場用長編とテレビシリーズを、単純に比較するのは困難だから、まずは話を劇場用長編に限定するならば、本作が出崎統杉野昭夫コンビの最高傑作であり、テレビシリーズのドラマ性とはまた違った、「完璧」としか評しようのない、破格の完成度を誇る傑作なのだ。

出崎統杉野昭夫コンビのテレビシリーズの傑作といえば、『エースをねらえ!』のほかに『あしたのジョー2』家なき子』『宝島といった作品がある。
(※ なお、旧テレビシリーズ『あしたのジョー』は、杉野昭夫荒木伸吾金山明博の三人作監体制であった)

もちろん、出崎統杉野昭夫コンビではなく、それぞれが別のスタッフと組んで作った傑作テレビシリーズもあるが、ここでは、出崎統杉野昭夫コンビの作品を中心に、論をすすめていきたい。

出崎統杉野昭夫のコンビは、他に類を見ないほどの、斯界でも有名な名コンビだった。このコンビだからこそ生み出し得た、奇跡のような傑作がいくつもあった。

だが、劇場版に限っていえば、このコンビの作品で、真に「傑作」と呼べるほどのものは、本作『エースをねらえ!』しかない。
最初に書いたとおり、劇場用作品の中では、本作が頭抜けているのだ。

ではなぜ、そうなったのかと言えば、その主な理由は2つある。

(1)テレビシリーズを編集した「総集編」で、そもそも無理があった。
(2)このコンビの個性に合わない原作を元にした作品であった。

(1)に関しては、わかりやすいところだろう。もともとテレビシリーズとして作ったものを切り貼りしても、そこにはおのずと無理が生じ、限界がある。
しかも、総集編を見に行くほどのファンなら、つまりテレビシリーズを見ている者ならば、どうしたって縮約版に物足りなさを感じずにはいられないためだ。

したがって、問題は(2)である。
「総集編もの」ではない、出崎統杉野昭夫コンビの劇場用アニメには、『エースをねらえ』のほかにSPACE ADVENTURE コブラ』『ゴルゴ13』『ブラックジャックなどがある。
だが、『エースをねらえ!』以外は、失敗作だと断じても言い過ぎではないと、私は思う。
単なる「凡作」なのではなく、せっかくの二人の持ち味が発揮できなかった作品だから、「失敗作」なのだ。

では、なぜ持ち味が発揮できなかったかと言えば、それはこれら「物語」が、出崎統杉野昭夫コンビの個性に反していたからだろう。

どういうことか?

これらの作品は基本的に「ハードなアクションドラマ」として作られているのだが、それこそが、この二人の個性には合わないところだったのだ。

では、どうして、個性に合わない作品をいくつも作ることになったのかといえば、それはたぶん、二人が全精力を傾けて作った、テレビシリーズ『あしたのジョー2』の成功が、世間に誤解された結果なのだと、私はそう見ている。

つまり、この『2』を含めて『あしたのジョー』という作品が、「ハードな対戦もの」だと「誤解」されてしまったばかりに、『2』の成功以降、そういう仕事ばかりが、このコンビに回って来るようになってしまい、二人の本来の持ち味が、出せなくなってしまったという流れだ。

では、この二人の「個性」であり「持ち味」とは、どんなものだったのだろうか?
それを、出崎統杉野昭夫の順に考えてゆきたい。

出崎統の「本来の持ち味」とは何か。
一一それは、「アクション」ではなく、「友情物語」である。

たしかに『エースをねらえ!』『あしたのジョー』『2』を含む)といった作品では、テニスやボクシングの「対戦」が、物語の主筋として中心的に描かれる。
だから、表面的にそこだけを見る人からは「出崎監督は、ハードな対戦もの(格闘もの)が得意なんだ」と、そう勘違いされてしまったのであろう。

だが、例えば、『家なき子』『宝島』あるいは『ガンバの冒険』杉野昭夫とのコンビ作品ではない)といった傑作で描かれるのは、何であっただろう?
それは決して、「対戦」的な格闘などではなく、言うなれば「人生における困難な運命との格闘」とでも呼ぶべきもので、決して「対戦」になど特化されてはいなかった。

そもそも、出崎統の描く「対戦」や「格闘」は、決して「リアル」ではないという事実の「肯定的側面」に、私たちは明確に気づくべきであったのだ。

なぜならそのことは、出崎演出の特徴とされる「止め絵」「繰り返しショット」「画面分割」「回り込み」などに、あまりにも明らかだったからである。

当たり前に見てすぐにわかるように、出崎は、リアルなテニスやリアルなボクシングを描きたかったのではない。
そうではなく、そうした対戦シーンで描かれるのは、あくまでも登場人物の「心理」であり「心情」なのだ。

「苦しい」「うまくいかない」「怖しい」「なぜ、どうして」「負けたくない」といった内的な葛藤が、前記のような技法によって描き出されるのである。

言い換えれば、出崎統は、アクションそのものには、大して興味がなかったはずだ。
アクション映画を作りたかったのではなく、あくまでも人間ドラマが好きだったのだ。

また、そのあたりが、アニメーター出身でありながら、とにかく絵を動かしたいというタイプの人ではなかったのである。

ところが、『エースをねらえ!』『あしたのジョー』での成功と、そのイメージが強すぎたために、出崎統は「ハードアクションが得意な監督だ」と、そう勘違いされてしまった。
本来なら、「対戦」そのものには、さして興味のなかった人が、そういうものばかりを作らされるはめになってしまったのである。

そしてこれは、出崎作品の多くでコンビを組み、二人の連名で呼ばれる傑作を生み出して来た、アニメーター杉野昭夫についても同じだった。

杉野昭夫を「ハードな劇画調」の画風を得意とする人だと考えることなど、本当なら見当違いも甚だしい。

だが、『あしたのジョー2』以降、杉野昭夫はそういうイメージを持たれてしまったところに不幸があり、そのため元来趣味ではないものばかりを求められてしまったところがあった。
また、そのせいで、『あしたのジョー2』以降、杉野昭夫の関わった作品に傑作が少ないのである。

アニメ専門誌『アニメージュ』で、人気アニメーターを扱う特集記事〈アニメ人物INSIDE〉の第2回(1979年9月号)で、杉野昭夫が扱われた。
特集タイトルは、「絵の詩人 杉野昭夫

その扉ページには、盟友出崎統による、

情感を表現できる、ただ一人の作監と言えるね…。

という、インタビューからのコメントが添えられている。

また同じ出崎の言葉として、特集記事の見出しのひとつとなっているのは、次のような言葉であった。

子どもの頃の孤独の体験を、美しく表現できる人だね

つまり、「絵の詩人」という特集タイトルと出崎の言葉に、杉野昭夫というアニメーターの資質は、すでに端的に示されていたのである。

ところが、その「詩人」が、後年「ハードなアクションもの」ばかり、描かされることになってしまったのだ。

なるほど、杉野昭夫は「劇画調」の絵も描けるけれど、しかしそれとて、繊細な「心情」をリアルに描くためのものであって、決してアクションものにありがちな、派手とも大味とも言えるようなものを描くためのものではなかった。むしろそうしたものには、向いてはいなかったのだ。

勝った負けた、殺した殺されたなどという、粗雑な二分法による感情表現などに、杉野昭夫繊細な絵を使うのは、まさに「鶏を割くになんぞ牛刀を用いん」というような、はなはだしい見当違いだったのである。

前記の『アニメージュ』誌の特集では、「詩人」杉野昭夫の個性をよく象徴する作品として、『まんが世界昔ばなし』の第20話として放送された「フランダースのいぬ」の、全カット紹介に誌面が割かれていた。
「フランダースの犬」の犬といえば、テレビシリーズがあまりにも有名だが、あれではなく、一回完結の全カットの原画を杉野が描いた、実に貴重な作品である。

だが、この作品が実質的に埋もれてしまってしまっていることからもわかるとおり、『あしたのジョー2』以降、杉野昭夫の個性は誤解されたままになってしまったと言っても過言ではないと思うし、その「唯一の例外」と呼んでも良いのが、1981年の劇場用アニメ『ユニコ』平田敏夫監督)であった。

この作品を見れば、出崎統の言った、

『子どもの頃の孤独の体験を、美しく表現できる人だね』

という言葉の意味が、はっきりと目に見えるかたちで理解できるはずだ。

人を幸せにする能力を持ちながら、誰かに幸せを与えるたびに、その人から引き離される運命にある、ユニコーンの子供ユニコ

時には、「孤独という名の悪魔」の子である、 悪魔くんをもその孤独から救い出して仲良しになるのだが、その悪魔くんともすぐに引き裂かれざるを得ない、そんな運命に生きるのがユニコなのだ。
それでも、みんなが幸せになってくれるのなら、自分の孤独には堪えられると。

(『ユニコ』)

杉野昭夫の絵は、単に愛くるしいだけのユニコではなく、ユニコのそんな孤独を見事に描出していたのだ。

そして、杉野昭夫の絵のそうした魅力の本質に鋭く反応した演出家・出崎統にも、やはり「孤独」の感覚が抜き難くあったはずだ。
だからこそ出崎には、「絆」を求める気持ちが強かったのだ。

そして、その「絆」とは、単なる「仲良し」には止まらず、例えば、『あしたのジョー』の矢吹丈と力石徹のような「宿命のライバル」といった関係、余人に立ち入る隙などない、「強い絆」としても描かれた。

「お世辞」や「建前」や「おためごかし」なんてものが介在する余地のない、グラブとグラブを交わし、全力で打ち合った者にだけ許される、嘘偽りのない絆。
一一そうしたものが、矢吹丈と力石徹の間にもあった。

そしてその同じものが、本作『エースをねらえ!』では、主人公・岡ひろみ高坂真琴)と、お蝶夫人こと竜崎麗香池田昌子)の間にも生まれることになる。
二人の関係は、矢吹・力石と同様の「追う者と追われる者」の、特別な絆だったのだと言えよう。

最初は、お蝶夫人へのファン的な憧れからテニス部に入部した新入生の一人でしかなかった岡ひろみが、転任してきたテニス部コーチ宗方仁野沢那智)にその才能を見出されて、見る間に竜崎麗香を追う存在へと成長しはじめる。

当初は、そんな昨日今日テニスを始めたばかりの者と、同じコートに立つこと自体が屈辱だとまで思っていた竜崎麗香は、やがてひろみの才能と実力が本物であり、そして正真正銘のライバルだと認めた時に、心の中でこうつぶやくのだ。

「ひろみ、今のは素晴らしいエース。よくここまで上達したわ。
この試合、あなたにはワンゲームもわたさない。
あなたがわたくしを追ってくる以上、それがわたくしの、あなたへの愛…。
さあ、いらっしゃい、ひろみ。力一杯」

しかし、本作『劇場版 エースをねらえ!』の魅力は、こうしたライバル関係における「友情」に限られるものではなかった

そう、本作でクローズアップされたのは、親友・愛川マキ菅谷政子)との「当たり前の友情」だったのである。

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いささか長い前説になってしまったが、無論これは、本作『劇場版 エースをねらえ!』の魅力を語るために必要なものであった。

本作は決して「ストーリー」を紹介で、その魅力が伝わるような作品でもなければ、その寸分の隙もない完璧な演出技巧を指摘しても、やはり十分に伝わるものではない、そんな特別な魅力を持っていた。

(ひろみは今度こそテニスを辞めようと宗方に電話する。しかし言葉が出ないでいると、しばらくして宗方が「岡だな…」と察する。ひろみは、以前も同じことがあったのを思い出して「どうして私だと分かったんですか?」と尋ねると、宗方は「俺が考えていることと言ったら、いつもお前にことだけだ」と言われ、ひろみはもう一度テニスに向き合う決心をする。一一このシーンにおける「沈黙の間」を電車が通り過ぎていくワンカットを挟むことで表現している。これが出﨑演出だ)

本作は、かつて出崎統杉野昭夫コンビによって作られた、テレビシリーズ版『エースをねらえ!』には無かった魅力が、新たにしっかりと描き込まれていた。

それが、ひろみとマキの「女の子らしい友情と、その二度とない青春の輝き」である。

(このオープニングが、本作の方向性を示している)

テレビシリーズの愛川マキは、「主人公ひろみの親友」キャラの域を出ない、言うなれば、純粋な「脇役」だった。

当たり前の女子高生だった主人公・岡ひろみが、特別なテニスプレイヤーへと成長していくドラマには、「当たり前の少女」だったひろみの部分を支える脇役が、どうしても必要だった。
登場するのが、全員特別なライバルというのでは、人間描写が一面的にもなれば、ドラマが単調にもなってしまうためである。

だが、テレビシリーズでなら、ひろみの成長を描くのに、手を替え品を替え、回数(話数)をかけ、物理的な時間をかけることで、そのあたりをしっかりと描くことも出来た。
原作にあるエピソードを丁寧に拾い、ひろみの人間としての部分を掘り下げることも出来たのだ。

(テレビ版では意地悪な先輩に描かれていた音羽京子が、本作では当たり前の葛藤に苦しむ少女として描かれている)

だが、この『劇場版』は、テレビシリーズが26話で打ち切られたところよりも、さらにその先の物語までを、90分の尺に収めることになった
周知のとおり、テレビシリーズでは描かれなかった「宗方仁の死」までが、本作で初めて描かれたのだ。

90分の尺に収めるため、多彩なライバルたちとのエピソードはすべて切られて、ひろみと竜崎麗香、ひろみと宗方仁という2つの関係に絞って、物語が構成されることになった。
これは、当たり前に手堅い戦略だったというべきであろう。

だがまた、岡ひろみの成長を描くのに、描かれるライバルが竜崎麗香一人というのは、いかにも無理がある。
『あしたのジョー』がそうであったように、普通ならば多彩な強敵との対戦を通して、その成長が徐々に、段階を踏んで描かれるのだが、本作においては、それが出来ない。

では、どうしたのか?

正解は、「ライバルとの対戦」を、ひろみの成長を描くための主たる手段とするのではなく、こう言ってはなんだが「平凡な親友」である、愛川マキとの友情を描き込むことで、ひろみが、平凡な、あるいは、普通の少女以上のものに育っていく姿を、間接的に描いたのだ。

そしてこの場合、驚くことに、よりくっきりと描き込まれたのは、主人公のひろみではなく、愛川マキの方だった。

ひろみの、どこかとらえどころのない性格に対して、愛川マキは、ごく当たり前にハッキリとした性格であり、そんな彼女が、親友でいてくれることの「ありがたさ」をしっかり描くことで、特別な人間への道を歩んでいく岡ひろみを、際立たせることに成功したのだ。

(上の2枚は、映画館での名シーン。一番下は、マキの魅力をよく表現している)

つまり、本作は「特別な人たちの、特別な世界の物語」ではなく、常に「凡人の目を通した特別な世界」として描かれていたのだ。だから、私たちは、本作に「特別な親近感」を覚えるのである。

『あしたのジョー2』では、丈のことをひそかに慕う林紀子、つまり林食料品店の一人娘の「紀ちゃん」が「普通の人間=平凡な庶民」を代表して、丈の過剰なまでにストイックな、闘いのためだけの生き方に疑問をぶつける。
どうしてそこまで、そんなに苦しい思いをしてまで闘わなくてはならないのかと。

(『あしたのジョー2』より、紀子とジョー)

これに対して、丈は「俺には、その当たり前の青春ってのがよくわからないが、ただ俺は燃えかすなんか残らねぇ、完全燃焼がしたいだけなんだ」と語って、紀子の生きる世界とは、まったく別種の世界に生きていることを悟らせるのである。

その点、本作における岡ひろみは、女性主人公ということもあるし、成長物語の序盤を描いた作品だからこそであろう、愛川マキとの友情物語がまだまだ十分に機能していたし、それが大切なものとして、美しく描かれていた。

それに、そもそもの話、出崎統というリアルに生きる人は、矢吹丈や岡ひろみのような「超人」へと駆け上がっていくような存在ではなく、当たり前に身近な「友情」というもののありがたみを知り、それを求めた人でもあったはずだ。

勿論、フィクションとして「究極的な友情」の姿、つまり「矢吹丈と力石徹」「岡ひろみと竜崎麗香」、『宝島』の「ジム・ホーキンズとジョン・シルバー」のような、特別な関係を描くことも出来たが、それはあくまでも「特別な友情の理念型」みたいなもので、決して当たり前のものではなかった。

だから、出崎統の「日常的な感覚」を反映したものとして、『あしたのジョー』には、下町の少年少女たち、すなわちサチやキノコや太郎たちが生き生きと描かれ、矢吹丈の日常を彩り、支えもしていたし、『家なき子』の主人公レミには、親友となるマチヤが登場する。

(『家なき子』より、マチヤとレミ)

つまり、愛川マキもまた、そんな重要な「脇役」の一人だったのだ。
いなければいないで気づかれない存在かもしれないが、彼らがいるからこそ、作品世界に厚みが与えられる、そんな不可欠な存在だったのである。

脇役ではあるけれど、出崎統作品においては、主人公を支える脇役こそが重要であり、主人公は、超人的ではあっても、決して「孤高の存在」などであってはならない

あの矢吹丈だって、子どもたちに励まされる一方、減量に失敗するマンモス西にために悔し涙を流し、落ちぶれたかつてのライバル・ウルフ金串のために本気になれる、情に厚い男なのだ。
強敵にしか興味のない、そんな化け物ではなかったからこそ、矢吹丈は並外れてストイックではあっても、その人間らしさを失わなかったのである。

(『あしたのジョー2』より、ジョーとドヤ街の子供たち)

つまり、実のところ出崎統にとっては、「ライバル(強敵)」よりも、やはり「仲間」こそが大切だったのだ。
平凡であっても、いつもそばにいて力を貸してくれる「親友」こそが大切だった。

そして、実のところそんな「寂しがり屋」だったからこそ、出崎統の描く脇役たちは生き生きしていたし、逆に「仲間としての脇役」を登場させられない「孤高の主人公」を描かなければならない作品を、出崎はむしろ、苦手としたのだ。

絵に描いたような「孤高の人」ゴルゴ13はもとより、ヒューマノイド・レディ以外には「仲間」を持つことの許されなかったお尋ね者コブラも、出崎には描きにくい存在だったろう。
ゴルゴ13やコブラの周囲には、「普通の友達」など、存在し得なかったからだ。

杉野昭夫との作品ではなかったが、ネズミたちの冒険を描いた、斎藤惇夫による児童文学『冒険者たち ガンバと15ひきの仲間』を原作としたガンバの冒険』が、出崎統の代表作のひとつとなり得たのは、それが「仲間たちとの物語」だったからであろう。
そして、そのガンバの「仲間たち」が、他の出崎作品では、姿を変えて「脇役」として登場し、ドラマに厚みを加えた。
逆に、彼らの出る幕がなかった作品は、おのずと失敗したのである。

だからこそ、本作『劇場版 エースをねらえ!』が成功したのも、「脇役としての愛川マキ」に、しっかりと活躍の場を与えられたからなのである。

「竜崎麗香・お蝶夫人の孤高」も、「弱い女であった母の面影を岡ひろみに見て、ひろみを強い大人に育てたいと願った宗方仁の、命を賭した献身」も、いちおうの筋は通っているし、ドラマチックなものではあるが、しかし、あえて言えば、リアリティはない

(宗方の回想カット)

この二人はあくまでも、岡ひろみを「超人」へと導くための役割を担った象徴的な役割キャラであって、生き生きとした「生身の人間」ではない。

だが、愛川マキには、そんな「使命」などなかった。マキは、ひろみの親友として、当たり前に笑い、怒り、泣いたのである。
だからこそ彼女は生きていたのだし、「スポ根もの」の枠には収まらない、「青春映画」としての並々ならぬ厚みを、本作に加えたのだ。

そう、『劇場版 エースをねらえ!』は、その主題歌にも歌われているとおり、「青春の輝きを描いた」映画だったのである。

もちろん、この点で、脚本の藤川桂介の功績は決して無視できない。
ひろみとマキ、あるいは、東堂と尾崎と千葉の三人男の、日常会話の妙は、たぶん藤川の功績であったはずだ。

(左から、尾崎、藤堂、千葉)

だがまた、そんな藤川桂介の脚本が特別に輝き得たのは、私が知るかぎり本作と、あとは最初の『宇宙戦艦ヤマト』だけだったと、そんな印象が強い。
ということは、やはり、脚本の力だけではどうにもならないものが、集団芸術としてのアニメには絶対的にある、ということなのであろう。

それでも、ここでは本作における「ひろみとマキ」の数ある名シーンの中でも、特に印象的なワンシーンを、最後に紹介しておきたい。

それは、竜崎麗香が宗方仁から、岡ひろみとダブルスを組んで試合に出るように言われ、それに反発してテニス部を休んだ後の話だ。

部活には出ず、自宅で独りトレーニングをしていた麗香だったが、そんな竜崎邸を宗方が訪問する。
てっきり、自分を呼び戻しに来たのだと思った麗香は、宗方に向かって、突っぱねるようにして言う。
「わたくしを説得なさろうとしても無駄ですわ。絶対に岡さんとはダブルスを組む気はありません」
だが、宗方からから返ってきた言葉は、
「勘違いするな、竜崎。俺は説得にきたんじゃない。コーチとして命令に来たんだ」

そう言われて憤然とする麗香だったが、しかし、彼女をテニスに導いた、尊敬する父からも以前、
「私は宗方くんに全幅の信頼をおいて、すべてを任せている。麗香、一流のプレイヤーというものは、ただ黙ってコーチを信頼するものだよ。私がお前を信頼するように」
と、そう宥められていたので、宗方の「命令」に納得はできないまま、岡ひろみとのダブルスを受けることになる。

だが、麗香がクラブ活動に復帰したその日、麗香はひろみをコートに立たせて、自分のサーブを受けるように命じる。
そして、それを一本として打ち返せないひろみに対して、
「フォアー、バックハンド、ボレー、どれひとつとして満足なシャットは無くてよ。でも、わたくしのパートナーである以上、そんなことでは絶対に許せない」
と、そんな厳しい言葉をぶつけ、見放すようなコートを去っていくのだった。

その後、夕暮れのコートの片隅に、長座して並んでいるひろみとマキの姿があった。

マキはひろみを励まそうと、なぜか「母親孝行な息子の昔話」を聞かせていたのだが、その途中で、ついに感情が爆発して、昔話語りの口調「〜じゃ」を引きずりつつ、こう叫ぶ。

「あんまりじゃ! ひろみに、あんなきついこと言うなんて、お蝶夫人あんまりじゃ! ひろみ、可哀想!」

ひろみの肩に顔を伏せて、マキは大泣きするのである。

このシーンの素晴らしさを含め、本作における「ひろみとマキ」の数々の名シーンの魅力は、もう実物を見てもらうしかないのだけれど、ひとつだけ最後に言っておけば、出崎統という人は、こういう人だからこそ、「出崎統杉野昭夫コンビ」と呼ばれるような名コンビを組むことができたのだと、私はそう確信している。

たぶん、出崎統にとって、杉野昭夫という存在は、愛川マキにおける岡ひろみのような、才能ある「特別な存在」であり、それと同時に、かけがえのない「親友」だったのではないだろうか。

作品作りを通して深く語り合った、得がたい「戦友」であり、「親友」であったのだろう。


(2026年1月4日)


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