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斜線堂有紀 『楽園とは探偵の不在なり』 : 「特殊設定ミステリ」とは何か。

書評:斜線堂有紀楽園とは探偵の不在なり』(ハヤカワ文庫JA・早川書房)

斜線堂有紀を初めて読んだ。すでに人気作家の地位を確立しており、「日本SF大賞」の選考委員なども務めていたから、決して「若手」などと呼べる人ではないだろう。

だが、1980年代末に始まる「新本格ミステリ」ムーブメントを、ミステリファンとして身近に体験し、その後ミステリファンを引退したつもりの身としては、斜線堂有紀は私の「引退後」に活躍を始めた若い作家であり、だからこそ、今回初めて読むことにもなるのである。

新本格ムーブメントの渦中にあった私は、綾辻行人法月綸太郎我孫子武丸麻耶雄嵩清涼院流水といった「京都大学ミステリー研究会」出身作家たちとおおむね同世代であり、綾辻行人のデビュー直後に自覚的なミステリファンとなり、法月綸太郎以下については、その作家デビューに立ちあった。
今やその大半が「還暦」を過ぎているが、彼らが、二十歳前後の学生作家としてデビューしたのに立ちあい、当然、日本推理作家協会の前会長であった京極夏彦や、現会長である貫井徳郎などのデビューにも、同時代に立ちあっている。

だから、そんな私からすれば、斜線堂有紀は「ついこないだデビューした作家」という印象になってしまう。
そんな斜線堂有紀が、すでに日本のミステリ界の中核作家なのだとすれば、私の感覚としては「あの赤ちゃんが、こんなに立派になって」と驚く、おじいさんの感覚だと言えばわかりやすいだろうか。

だが、ミステリファンとして、読書の中核にミステリを据えたがために、他のジャンルの本を自制していた時代は、もはや過ぎた。

私としては、最愛のミステリ作家であり、それが転じて最大の批判対象となった笠井潔が、ミステリ界を去ってひさしく、さらにはほとんど過去の人となった今では、ミステリというジャンルにこだわる理由を見いだせなくなった。

だから、私はミステリから自覚的に距離を置き、それまでは読みたくても読めなかった、純文学やSF小説を優先的に読むことにした。

そもそも、私が「活字の本」を読むようになったきっかけは夏目漱石『こころ』だったのだし、その後にハマったのは日本の短編SFだった。徳間ノベルスから刊行されていた、筒井康隆編の「日本SFベスト集成」シリーズで、SFの魅力を知ったクチなのである。

とは言え、今でもミステリが気にならないわけではない。

ただ、昔であれば、年末に刊行される、その年のベストミステリ作品を占う『このミステリーがすごい!』などの「年間ベスト本アンケート」の「ベスト10」結果を見て、その中で「まだ読んでいない本」があればそれを読み、「ベスト10」作品をすべて押さえるなんてことをしていたのだけれど、今では、そうした結果が出てから、せいぜい「ベスト3」に入った作品のその中から、さらに好みに合いそうなものだけ読んでみる、というふうになった。
「ベスト10」に入った作品だからといって、必ずしも自分の趣味に合うわけではないし、面白いわけでもないからである。

とは言え、「ベスト3」に入るような作品なら、私個人の趣味には合わなくても、それなりの魅力を持った作品であるのは、おおよそ否定し難いことなのだから、勉強のために読んでも損はないと、そうも考えるのである。

したがって近年の私は、年に3、4冊程度しかミステリを読んでいないのだが、その中には、昔読みたくても読み逃していた本なども含まれていたりするから、その年の作品となると、それこそ年に1、2冊程度ということになってしまう。
またそのために、斜線堂有紀という特徴的な名前を何度も目にしながら、なかなか読む機会ができなかった。

斜線堂有紀は平均して高い評価を受けているようだが、年間ベストワンになるようなこともなかったので、私も手に取る機会を逸してきたのである。

ではなぜ、今回、斜線堂有紀を読むことにしたのか?
一一それは前々から「特殊設定ミステリ」の代表的な書き手(らしい)と注目していたからであり、その意味で、気になる存在だったからである。

そして、今回読むことにした直接のきっかけになったのは、ミステリの今年の話題作のひとつ、櫻田智也『失われた貌』を読んだ際だったか、あるいは、昔、途中まで読んで放置していたSFミステリ漫画、三部けい『僕だけがいない街』を読んだ際だったかに、またちょっとミステリが読みたくなって、その時に思い浮かんだ名前が、斜線堂有紀だったのである。

そこで私は、ひとまず斜線堂有紀の代表作を読もうと思い、Wikipediaを見てみると、本書『楽園とは探偵の不在なり』『廃遊園地の殺人』が評判が良さそうなので、まずは、より評判の高い本作を読むことにしたと、そういう次第だったのだ。

 ○ ○ ○

さて、本書『楽園とは探偵の不在なり』だが、どうだったのかと言えば、さすがに評判になるだけの作品ではあった。

ミステリとしてよく出来ているし、泣かせる作品でもある
つまり「情理」の両面に訴えてくる、実にバランスの良い作品なのだ。

斜線堂有紀は、綾辻行人ら「新本格ミステリ第1期生」のようなミステリマニア出身ではなく、1993年生まれという、二回り以上も後の世代の人らしく、ラノベ(ライトノベル)出身の作家だというが、なるほど、ミステリマニア出身作家ほど、尖ってはいないが、読者を楽しませるツボを押さえている作家だと言えるだろう。
つまり、よく言えば、バランスが良く、悪く言えば、突き抜けたところがない

だからこそ、「ベスト10ランキング」で第1位が取れない反面、コンスタントにベストテン入りを果たすこともできるのであろう。
そういう作家なのである。

私の場合、どちらかと言えば、尖った作家、クセの強い作家の方が好きである。
当然、当たり外れはあって、ハズレることの方が多いのだが、そのぶん、ごく稀に大当たりをすることもあって、その時の喜びが忘れられないから、その種の作家を読んでしまうのだが、斜線堂有紀は、明らかにその手の作家ではない。
良くも悪くも、安心して読める、あるていど質の保証された作家なのだ。

だから、本作『楽園とは探偵の不在なり』を読んで、まず最初に感じた不満は、「文章が軽い」「登場人物がマンガっぽい」ということだった。
しかし、これはラノベ出身の作家としては致し方のないところなのであろうと、そこは諦めた。

では、ミステリとしての仕掛けや作りがどうかなのだが、これはさすがによく出来ている

ただし、ここにもラノベ出身作家らしいところがあって、要は「完成度は高いが、突き抜けたところはない」。
「よく書けている。よく出来てはいるが、驚くような傑作ではない」という感じなのだ。

そして、こうした特徴は、私が注目した「特殊設定ミステリ」という部分にも、よく表れている。一一どういうことか?

それは、「特殊設定ミステリ」の「特殊」性とは、本格ミステリを書く上で「作家に有利」だという、その特性に由来するものだった。

一般読者の立場からすれば、「現実世界」ではない、「特殊な世界」で展開される「本格ミステリ」の物語たる「特殊設定ミステリ」は、言うなれば、「ファンタジー」と「本格ミステリ」の面白さを同時に味わうことのできる「一粒で二度おいしい」作品ということになるだろう。
「本格ミステリだからといって、何もその舞台を、地味な現実世界に限定する必要なんかないじゃないか」というのは、たしかに正論ではある。

けれども、「現実世界」を舞台にするのが当たり前であった頃には気づかれなかったことが、「特殊設定ミステリ」が多数書かれるようになって、初めて意識されるようにもなった。

いや、まだそのことに気づいていない人の方が多いのだろうが、私のような旧世代のミステリファンの中には、そのことに気づく人が出てきたようである。

では、そこで気づかれたこととは何なのか?

それは、「現実世界」を舞台にして書かれていた「本格ミステリ」は、「現実世界」の物理法則や基本的なルールに縛られていたけれど、「現実世界」そのものではない、なんらか意味での「異世界」を舞台とする「特殊設定ミステリ」では、「現実世界」を舞台にして書かれていた本格ミステリには課されていた「厳しい条件」がしばしば解除されており、そのぶん、「本格ミステリとしては、縛りが少なくて、楽に書ける」という特性の存在である。

無論これは、「現実世界を舞台にした本格ミステリ」では、現実世界の法則性やルールを前提とした「トリックやロジック」が出尽くしたに等しい、という現実的な困難があったればこそ、なのではあろう。
つまり、本格ミステリにおける「新しいアイデア」は、すでに掘り尽くされたにも等しい状況にあった。

だからこそ、アガサ・クリスティージョン・ディクスン・カー が開拓した「叙述トリック」に匹敵するような斬新なトリックは最早生み出されないその一方、「叙述トリック」もののバリエーション作品だけは次々と書かれていって、「原型(オリジナル)」を知っている古いファンを、「またか」とウンザリさせることにもなったのである。

そんな事情だったから、少なくとも日本における「特殊設定ミステリ」の元祖と呼んでも良いだろう、山口雅也『生ける屍の死』の登場は、まったくの新機軸として、衝撃と絶賛をもって歓迎されたのだが、今の「特殊設定ミステリ」の大半は、この『生ける屍の死』直系の子孫だと言っても、決して過言ではないのである。

しかしながら、『生ける屍の死』では「新機軸」であったがためにほとんど注目されなかったものが、「特殊設定ミステリ」として大量生産され始めると、その「特性」が、良かれ悪しかれハッキリと見えてくる。
一一それが、先に書いた、

『「特殊設定ミステリ」では、「現実世界」を舞台にして書かれていた本格ミステリには課されていた「厳しい条件」がしばしば解除されており、そのぶん、「本格ミステリとしては、縛りが少なくて、楽に書ける」』

ということなのだ。

つまり、「現実世界」を舞台にした従来の「本格ミステリ」では、物理法則や社会のルールなどが、作家の都合に関係なく、「自明の前提条件」として、言うなれば、公平に課されていた。
ミステリ作家たちは、その「前提条件」をクリアしたうえで、読者を「あっと驚かせるもの」を書かなくてはならなかったのだ。

だが、「特殊設定ミステリ」の場合、それまでの「現実的ルール」は、強制される外在的な前提条件ではなく、作家自身の自由に選択し得るものとなった
つまり、物語の舞台となる世界は、その法則性までも含めて、作家の裁量に服することになったのである。

それは、具体的に言うなら、山口雅也『生ける屍の死』における「死者が蘇る世界」であり、本作『楽園とは探偵の不在なり』では「天使が実在して、2人目を殺した殺人者を地獄に落とす世界」ということになる。

(単行本版)

『生ける屍の死』における「死者が蘇る世界」ということが意味するのは、「そんな世界で殺人が犯されるとしたら、その意味とはどういうものなのか?」という、シンプルにわかりやすくも、ミステリの本質に関わる「特殊設定」だった。

しかし、本作『楽園とは探偵の不在なり』での「天使が実在して、2人目を殺した殺人者を地獄に落とす世界」という設定になると、最早そうした、メタジャンル(メタミステリ)的な意味は失われて、もっぱら「前例ないロジックを生み出すため」の特殊設定になってしまっている。

しかも、ここで言う「前例がない」とは、「現実世界を舞台としたミステリでは」という「条件付き」のものでしかない。同じ「特殊設定」で、いくつも作品が書かれることは、まずないのだ。
なぜなら、それをすると「作家が世界のルールを決めて良い」というメリットが、最初のものほどではなくなって、むしろ「縛り」になってくるからである。

そんなわけで、「世界設定=条件設定」が「現実世界」と違っているのであれば、「新しいこと=違ったこと」が出来ても、それは当然であって、さほど自慢できるものではない。

例えば、人間では超えられない、四方を高い壁に囲まれた空間で発見された他殺死体の謎とは、人間の世界(=現実世界)を前提とするから成立するのであって、そこに宇宙人や怪物や天使が存在したのでは、そもそも「謎」にはならない、というのと同じことなのである。

無論、本作『楽園とは探偵の不在なり』は、最初から「(空を飛ぶ)天使が存在している世界」だと明示している作品なのだから、「四方を高い壁に囲まれた空間で発見された他殺死体の謎」なんてものは登場しない。
本作に登場するのは「2人以上殺せば、その場で確実に地獄送りになる世界における、2人以上の連続殺人は、いかにして可能なのか?」というような「謎」である。

もちろん、この謎も、それなりに難しいものであり、よほど頭を捻らなければ、その方法を案出できないからこそ、本作も本格ミステリとして成立するし、その方法を示されると、読者も感心することができる。

ただし、こうした「特殊設定ミステリ」では、現実世界を舞台にした従来の本格ミステリに比べると、作者と読者の力関係として、断然、作者の側の方が有利になる
なぜなら「その世界のルールを決めるのは、作者だから」である。

現実世界を舞台にした本格ミステリでは、「世界のルール」は所与のものであり、作家の自由にはならなかった。
つまり、その点では、作家と読者は、対等の立場で「知恵比べ」をすることができた
のだ。

ところが、「特殊設定ミステリ」の場合は、その「世界のルール」を決めるのは作者の側なのだから、そんな作者と読者の知恵比べとは、要するに「世界の創造神と人間の知恵比べ」みたいになってしまうのである。

当然のことながら、「世界のルールを作った創造神」は、その世界のルールを端から端まで承知している(に等しい)のに対し、その物語世界に、何の「予備知識」もなく放り込まれた読者の方は、世界の創造神である「作者の語るペース」で、その世界のルールを学んでいくしかない。
したがって、創造神たる作者と、仮初の旅人でしかない読者の知恵比べは、決してフェア(公平)なものにはならないのである。

無論、「現実世界を舞台にした本格ミステリ」だって、その世界を実際に創造する(書く)のは「作者」なのだから、読者に対して、完全に公平だとは言えないのだけれども、しかし最低限の約束として、「現実世界のルールに従ってプレイする(知恵比べをする)」という点では、作者と読者の知的対決は、比較的フェアなものたり得ていた。

だが、その「最低限のルール」が存在しない、明らかに世界創造神たる作者に有利な「特殊設定」の世界においては、それまでの本格ミステリにあったような、最低限のルールに則った「作者と読者の知恵比べというゲーム」は、もはや成立しなくなった。

仮に、まだそうした「対等のゲーム性」が保証されているかのように感じられたとしても、それこそが、作者のレトリックによる欺瞞でしかない。

「私はこのように、この世界のルールを、あらかじめ明示しているのですから、私(作者)とあなた(読者)は対等なのですよ」というのは、立場の非対称性を偽るためのレトリックでしかない。

例えば、ある国の独裁者が、国民に対して「自分の意見を自由に表明しても、決して罰せられるようなことはない」と「言論の自由」を保証したとして、それを真に受けて、独裁者に向けて「おまえは馬鹿野郎だ。死んでしまえ」などという本音を口する人は、まずいないだろう。
なぜなら、その独裁者が、そのルールを守ってくれるという保証はないし、仮に守ってくれたとしても、例えば「それは、意見ではなく、単なる誹謗中傷だから、あなたは罰せられることになりました」などと言われる怖れがあるからだ。

つまり、「特殊設定ミステリ」における「作者と読者の対等性」というのも、この例と同様に、所詮はレトリックによる「見せかけ上のもの」でしかないのだ。
作者はいつでも、上の「独裁者」のように「明言したルール」だけは守りながらも、暗示に止めたルールによって、読者の裏をかいて、騙し討ちにすることが出来るのである。

したがって、「現実世界を舞台にした本格ミステリ」と「特殊設定世界を舞台した本格ミステリ」では、明らかに後者の方が有利であり、要は書きやすい

無論、「特殊設定ミステリ」の場合は、読者を楽しませるための「ユニークで魅力的な世界」を創造するためのセンスが求められはするが、そもそもそれは、どんな小説にだって求められるものなのである。小説とは、本来的に「世界創造」だからだ。

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そんなわけで、以上のような「特殊設定ミステリ」の「特殊性」というものを踏まえて評価するならば、「特殊設定ミステリ」が「よく出来ている」というのは、(現実世界を舞台にしたものに比べると、やれて)当然のことでしかない。平たく言えば、あらかじめ「ハードルが低い」

したがって本作は、たしかに、よく考えられており「よく出来てはいる」ものの、だから「すごい」とまでは思えなかったのだ。

つまり、「特殊設定ミステリ」で、抜きん出た作品であるためには、「特殊設定」であることの有利さを超えたものがなくてはならなかった一一のだが、残念ながら本作には、そこまでのものは無かったのである。

最初に書いたとおり、本作には「泣かせる」テーマも盛り込まれており、若い読者はその部分でも、本作に「やられる(感動させられる)」のかも知れない。

だが、ノンジャンルで小説を読んできた私のような「すれっからし」にとっては、「善人の努力が報われない世界」「正義が報われない、不条理な世界」などといったことは、「なぜ?」と問うべきような問題ではなく、それは否定し難い現実(前提)だと受け入れた上で、「ならば、どうすべきか?」という問題でしかない
だから、こうした「いまさら」なテーマに対しても、いまさらナイーブに感動することもできないのである。

本作『楽園とは探偵の不在なり』は、「特殊設定ミステリ」としては、とても良く出来ている。

しかしながら、「本格ミステリ」としても「小説」としても、どこかで甘いし弱いと、そう感じずにはいられない、言うなれば「楽園育ちの本格ミステリ」なのである。


(2025年11月21日)


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