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三部けい 『僕だけがいない街』 : いまこの時を問う過去

書評:三部けい僕だけがいない街』(全9巻/KADOKAWA)

単行本としては、2013年から2017年まで全9巻が刊行され、最後の第9巻は「番外編」のスピンオフエピソード集なっているため、ストーリーとしては8巻で完結している作品である。
漫画原作の完結以前に、映画化アニメ化がなされたヒット作なので、本作をご記憶の方も少なくないだろう。

ではなぜ今ごろになって本作を読んだのかというと、ネットを見ていた際に、本作の映画版に関するページに行き当たって、「そう言えばこの作品、連載中に単行本で読んだから、最後までは読んでなかったんじゃないかな?」と、そう考えたからである。

たしかに読んだ範囲では、ものすごくよく出来た面白い作品だったという記憶があるのだが、結末が思い出せない。
たぶん、私が読んだ当時はまだ、最後の方の巻は未刊行で、それを待っている間に、興味が別のものに移ってしまい、そのまま失念してしまったのではないかと、そう思ったのである。読みたいものが色々ある私には、ありがちなことなのだ。

そこで、そこそこ古い作品だし、ブックオフオンラインなら安く出ているはずだと確認したところ、案の定、よく売れた作品らしく、全巻揃いで安く出ていたので、仮に最後まで読んでいたとしても、もう一度読んでもかまわない傑作だという思いもあって、あらためて全巻を購入し再読したのである。

そんなわけで、今回再読してみた結果としては、第7巻までは読んだのであろう断片的な記憶が残っていたが、8、9巻は、間違いなく今回が初読だとわかった。
つまり、物語完結の第8巻とその後に刊行されたスピンオフストーリー集の第9巻だけ、読んでいなかったというのが判明したのだ。

では、再読で最後まで読んでみてどうだったかというと、やはりとても面白かった。再読した価値のある作品だったのだ。

ただし、犯人(児童連続殺害犯)との直接対決となる第8巻は、それまでが面白すぎたためか、やや物足りなさを感じされられた

やはり、この犯人の場合は「姿を見せず、策略を巡らせて、人を追い込む」という、その謎めいた存在感に魅力があるのであって、犯人の正体が明かされた第6巻以降は、犯人の異常な人間性が描き込まれはしたものの、やはり第8巻での直接対決となると、正体を明かしての行動だけに、「読めない犯行の不気味さ」といったものは半減してしまったようである。

第5巻の帯には、本格ミステリ作家の法月綸太郎が、

時間を忘れて読みふけった。
今までスルーしていたのが恥ずかしい

という推薦文を寄せていて、そのことからも、本作が「よく作り込まれた完成度の高いSFミステリ作品」だということがわかる。

しかしながら、法月綸太郎が誉めているから、本作が「本格ミステリ」なのかというと、そうとは言えないだろう。
やはり本作は、「トリックとロジック」を主眼とする「本格ミステリ」ではなく、「次の展開が読めない」が故のサスペンスで読ませる「サスペンスミステリ(スリラー)」だと理解すべき作品なのだ。

犯人の正体がわからないうちの方が面白かったというのは、本作のそうした基本性格に由来するものなのであろう。

本格ミステリの場合は、犯人の正体自体が重要なのではない。
本格ミステリが本格ミステリたり得るのは、例えば、犯人の特定に至る「ロジックの緻密さ」であり、犯人がわかればよいとか、意外であればよいとかいうものではないのである。

その点、本作『僕だけがいない街』は、たしかに「犯人の意外性」はあって、それが売りのひとつではあるのだけれど、そこはヒッチコックなどがそうであるように、「サスペンスもの」ではありがちな「サイコ(異常心理)」寄りの設定になっていて、それまでは「とても良い人」に描かれていた、ある人物が、あることから、突然その「おぞましい正体」を明らかにするという展開、つまり「豹変する」というパターンで、これは「論理的」たらんとする本格ミステリのものではあり得ない。
本格ミステリなら、探偵役が犯人を「論理的に追い詰め」、それによって犯人が明らかになるという「段取りの緻密さ」が重要なのだ。

だから、本作における犯人の本性自己暴露のシーンでは、たしかに驚かせれはするものの、若干無理があると感じないでもなかった。
いちおう、正体を明かすに至る理由があった(描かれていた)とはいえ、その理由の発生(伏線)は偶然に頼ったものでしかなかったし、その人物が一連の児童誘拐殺人犯だったというのは、そもそもリアリティを欠くところがあったためであろう。

また、そうした点でも、本作は「意外性」優先の作品であり、本格ミステリ的な「合理的説得力」は二の次で、要はサスペンス重視の作品だったと言えるのである。

そんなわけで本作は、犯人の正体が明かされる第6巻、正確には第5巻のラストまでが一番盛り上がるところであり、あとは犯人の正体がわかった上での、直接対決となるわけだが、そうなると、本作の本来の魅力がどうしても弱まってしまう。

犯人は、正体がわからないからこそ魅力的なだったのであり、正体がわかった後に、いくらその異常性や非凡な能力の理屈づけをしたところで、見えなかった犯人よりは怖くはない、ということになったのではないだろうか。

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本作についての私の総評を語ったところで、次は本作が、どのような作品なのかを、簡単に紹介しておこう。

本作の現在時は「平成」で、主人公は、ピザの配達アルバイトで食いつないでいる、売れない漫画家の青年・藤沼悟である。

そんな悟には、時々「特異な現象(症状?)」が発生していた。
悟が名づけたところの「再上映(リバイバル)」という超常的な現象で、ある瞬間、悟は「いま体験していることは、前にも体験したことがある」という「既視感(デジャヴ)」に似た感覚にとらわれると、その直後に必ず「不幸なこと」が発生するのだ。

そして、そうした不幸を食い止めるためには、悟は、「今」の状況(リバイバルとしての今)の中から「違和感」を覚えるものを見つけ出し、それに干渉することで、かつて体験したはずの「過去の現実」を改変し、そのことで、到来するはずだった不幸や悲劇を回避するのである。

そんなある日、悟のアパートに泊まりに来ていた母親が、部屋で何者かに刺殺されているのを、悟は発見する。
悟は、部屋から逃げ去った人影を慌てて追跡するのだが、その結果、悟自身が現場から走り去った人物として容疑者となり、警察に追われる身となる。そして、警察に見つかり、追い詰められたというところで「リバイバル」現象が起こって、今回のリバイバルでは、なんと悟は小学生時代にまで戻ってしまう。

つまり、悟が小学生時代に経験した「不幸・悲劇」をリバイバルによって改変することで、未来において殺害された母を救うことができるかも知れない、ということになったのだ。

では、悟が小学生時代に体験した「不幸・悲劇」とはどういうものだったのかというと、母親から虐待を受けているらしいクラスメートの孤独な少女・雛月加代に声をかけてやることができず、そのために彼女が誘拐殺人の被害者となり、さらには仲良しだった男子・杉田広美(ヒロミ)も被害に遭い、しかも、悟に優しくしてくれていた孤独な青年・白鳥潤が、一連の事件の犯人として逮捕され、有罪が確定してしまうという、そんな理不尽な事件であった。
悟は、白鳥青年を「ユウキさん」と呼んで絶対の信頼をおいていたし、警察にもそう訴えたのだが、子供であった悟の証言は、大人たちには届かなかったのである。

大切な友人知人の3人を救えなかったという、つらい思い出を抱える悟は、今回の「リバイバル」で、雛月加代を救うことにより、一連の不幸を食い止めようと奔走する。一一と、大筋そんな物語である。

つまり、すでに発生した「不幸・悲劇」を食い止めるために悟が奔走し、その悲劇を食い止めはするものの、犯人もまた、その干渉によって行動を変えるので、別の悲劇が発生してしまう。
したがって、犯人を捕まえないかぎり、悲劇が終わることはないので、悟は繰り返される「リバイバル」の中で、徐々に犯人に迫るのだが、逆に悟が犯人の魔手にかかって殺されかけ、その結果、植物人間状態で、20年後に目を覚ますという、驚きの展開にもなるのだ。

そんなわけで、本作の魅力は、その「先の読めない、サスペンスフルな展開」にあると言って良いのだが、しかし今回読み返してみて、本作に「新たな魅力」を見つけることができた

それは、誰もが多かれ少なかれ抱えているであろう「後悔=あの時こうしていれば良かった」という思いに訴えかけるところのある作品だという点である。

人生がもう一度やり直せるならば、今度は必ずこうしたのにという、つらい思い出の一つや二つは誰にもあるはずなのだが、そんな人間の、決して満たされることのない感情に訴えるところが、本作にはあるように思う。

本作の主人公である藤沼悟が、同じ悔いを残さないために、「リバイバル」において友人知人を救おうと奔走するのは、直接のきっかけとしては、まさしく「リバイバル」の発生ゆえであろう。
そもそも「リバイバル」という特異現象が起らなければ、悟にも過去の後悔を解消するチャンスが与えられることはないのだから、「取り返しのつかない過去の不幸」は、否応なく心の底に封印しておくしかなかったのだ。

だが、この「連続児童殺害事件」の以前、悟が「やるべきことをやっておくべきだった」と後悔した体験としては、さらに幼い頃、拾って帰った捨て犬の仔犬を、ろくに面倒も見ないうちに、数日で死なせてしまった、という経験があった。
死なれるにしても、ちゃんと面倒を見てやっていれば、ここまで後悔することもなかったのに、という経験である。

で、私はこれによく似た経験をしていたから、この話には深く共感させられたのだが、この思い出が書かれていたのは、今回初めて読んだ第8巻においてであった。
だからこそ、今回の再読では、「サスペンス漫画」としての面白さだけではなく、「それまで人生において思い残したこと」に対する「もしもやり直せたなら」という思いを描いた作品、という側面を強く感じることにもなったのであろう。

また、無論これは私自身が歳をとり、還暦を過ぎて、自らの死を意識して生きるようになったためでもあろう。
つまり、今後は「出来るかぎり思い残すことのないように生きたい」と、そう考えるようになったということだ。

例えば、アニメ『伝説巨神イデオン』『けものフレンズ』といった、こだわりや愛着のある作品を見直して、自分なりのレビューを書くことで決着をつけたとか、先日は、クリストファー・ノーラン監督の「ダークナイト三部作」のレビューを書いたというのが、そうだし、今はザック・スナイダー監督の「ジャスティス・リーグ三部作」のレビューを書いているのもそうだ。

また、若い頃にはミステリ中心の読書をしていたせいで、後回しにしたまま読めなかった、SF小説の古典だとか、日本の戦後文学(純文学)だとかをぼちぼち読んでいるのも、そうした「思い残し」を減らしたいという気持ちに発するものだった。

もちろん、他にもいろいろあって、アニメ関係なら「杉野昭夫論」と「出崎統論」だけは書いて死にたいとか、小説としては『泣き虫弱虫諸葛孔明』(全5巻)を読んで、酒見賢一の著作を読破したい。

また、ビデオテープの全巻セットを買ったほどの昔から愛着のある、デイヴィッド・リンチ監督の『ツイン・ピークス』を、最初から見直した上でさらに未見の続編シリーズを見、その上で『ツイン・ピークス』論を書きたいといった、積年の課題もまだ残っている。

もちろん、こうした趣味の話に限らず、そもそも私が、半年とはいえ早期退職して隠居生活に入ったのは、思い残すことなく老後を過ごしたいと考えたからだ。

そんなわけで、自分に残されている時間というものが、本質的には未確定な以上、こうした課題をまず優先してというのが、いちおうの理屈にはなるのだろう。

だが、これまでと同様、歳をとったからといって、すぐに死ぬかどうかもわからないのに、他の新しいことはぜんぶ諦めて、過去から持ち越された課題ばかりを優先するという気にもならない。一一そんなジレンマもある。

そんなわけで、人というのは、いつでもある程度は、過去を振り払いつつ、やはり過去にとらわれて生きるしかない。

実際、たとえ不幸な過去や辛い過去であっても、それがその人を作っているとも言えるのだがら、単純にそれが無かったら幸せになれたのかといえば、そうではない。
消された過去の不幸は、そのことによって、その人にプラスをもたらすかもしれないし、マイナスをもたらすかも知れず、それはその人自身の「今」次第だということになるはずなのだ。

本作の主人公である藤沼悟が、過去の不幸に立ち向かえたのは、無論、「リバイバル」という超常現象が起こったからなのだが、それが起こったからといって、誰もが過去の不幸に立ち向かえるわけではない。

つまり、私たちは誰もが持っている「取り返しのつかない過去」というものに対し、「いま現在、どのように対峙しているのか」という、その姿勢こそが問われるのであろう。

もちろんすでに書いたように、いまさら如何ともしがたい不幸な過去の記憶に対しては、日頃は「蓋をしている」のかも知れない。
けれども、心のどこかで、その不幸を直視して、どうすれば良かったのかということを考えている人だけが、「リバイバル」が起こらなくても、いまこの時を「後悔なく生きる」ことができるはずだ。

つまり、本作の主人公・藤沼悟の果敢な行動とは、過去を生きなおす為のものであるよりも、今を正しく生きるための勇気を示したものだと、そう言えるのではないだろうか。

だからこそ、本作の読者は、単にサスペンスを楽しむに止まらず、悟の勇気に感動を与えられるのではないか。

そして、その時に読者が問われているのは、

「あなたは今この時、後悔せずとも良い、人に恥じない生き方をしているか?」

ということなのではないだろうか。


(2025年10月31日)


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