ザック・スナイダー監督 『ジャスティス・リーグ〈ザック・スナイダー カット〉』 : 勝利の栄冠ではなく。
映画評:ザック・スナイダー監督『ジャスティス・リーグ〈ザック・スナイダー カット〉』(2021年/アメリカ映画)
映画『ジャスティス・リーグ』は、もともとは、ザック・スナイダー監督による、スーパーマンの登場を描いた『マン・オブ・スティール』、スーパーマンとバットマンの対決を描いた『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』に続く、「ジャスティス・リーグ三部作」の完結編となる作品であった。
しかしながら、スナイダー監督による撮影が完了してのポストプロダクションの最中に、スナイダー監督の実娘が急逝。精神的に参った同監督が、急遽監督を辞任降板して、後事をジョス・ウェドンに託すことになった。
一一と、公式には以上のような事情から、ジョス・ウェドンによって『ジャスティス・リーグ』は完成させられ、スナイダー監督の名義で劇場公開されることになるのだが、私は、スナイダー監督の降板理由は、これだけではなかったと見ている。
このことについては、上記の劇場公開版『ジャスティス・リーグ』のレビューに詳しく書いたので、ここでは簡単にしか説明しないが、要は、『マン・オブ・スティール』と『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』の2作が、期待の大作であったにも関わらず、期待したほどのヒット作とはならず、しかも批評家筋からは、内容的に「暗い」「ユーモアに欠ける」などの厳しい批判が寄せられたために、製作会社側としては、3作目の『ジャスティス・リーグ』をそのままの路線で完成させたくはなかった、という事情があったものと、そう推察した。
つまり、スナイダー監督には、「路線変更して、明るい活劇作品に仕上げろ」という会社側からのプレッシャーが掛かっていたはずなのだが、無論、スナイダー自身は、三部作構想の大作として注力してきたものを、いまさら最後の作品で方向転換なんてことは、当然したくなかった。
だから、作品を殺すも同然の路線変更など自分の手では到底できなかったから、監督を降板することで「作品を潰すのなら、おまえらが勝手にやれ」と、その死活的な選択を会社側に投げ返したと、そういうことだったのではなかったろうか。
事実、スナイダーから後事を託されたジョス・ウェドンは、追加撮影も加えて『ジャスティス・リーグ』を、スナイダー監督の意図した方向性とは違った、「明るい」調子の作品へと改変して完成させた。

したがって、この改変が、ウェドンの一存で、ウェドンの「好み」だけによってなされたとは考えにくい。
むしろ、作品を「明るく」出来る人物として、会社側がウェドンを指名したと考えるべきであろう。
そんなわけで、スナイダーの『ジャスティス・リーグ』からの降板理由も、単に「娘の死」のせいばかりではないと、容易に推察されたのである。
ともあれ、ジョス・ウェドンによって完成させられた劇場版『ジャスティス・リーグ』は、「明るくなった」からといって特にヒットしたわけではなかったし、前の2作を見てきたファンとしては、いささか肩透かしにも感じられる「軽さ」があった。
つまり、三部作としては、いかにもバランスの悪い作品だったのである。
そんなおり、徐々にスナイダー監督による本来の構想が明らかになり、多くのファンが、そうした本来の構想による『ジャスティス・リーグ』を見たいと訴えるようになった。
当初、ワーナー・ブラザース社は「スナイダー版の『ジャスティス・リーグ』を新たに作ることはない」と明言していたのだが、最終的にはファンの声に押されて、本作『ジャスティスリーグ〈ザック・スナイダー カット〉』が作られ、デジタル配信されることになった。
そして、上映方式がデジタル配信に変わったことで、作品の上映時間の制約が外れて、ウェドンによる劇場版が当たり前に120分だったのに対し、本作〈ザック・スナイダー カット〉は、劇場版ではカットされた部分と新規撮影分を含めた242分という、倍の長さの作品として完成することになった。
したがって、ウェドン版(以下「劇場版」と略記)とスナイダー版(以下、〈スナイダーカット〉と略記)を単純に比較するわけにはいかない。
それは、映画とTVのシリーズドラマを比較するようなもの(あるいは、編集縮約版とオリジナル版を比較するようなもの)だからである。
当然のことながら、満足度や納得感ということでは、おのずと〈スナイダーカット〉版の方が圧倒的に優位なのだが、そのあたりを条件の違いを考慮しつつ、以下では、〈スナイダーカット〉版の持つ意味について論じてみたい。
なお、本作〈スナイダーカット〉では、復活したスーパーマンのスーツがモノトーンに変わったことに象徴されるように、映像そのものが「劇場版」に比較して、全体に青黒くモノトーンに近いものに変更されている。
あと、「劇場版」の倍の長さになった本作の「増補」部分とは、主に次のような点である。
(1)スーパーマンの復活に至る事情の描写
(2)アクアマン、サイボーグ、フラッシュの個人的な事情の描写(背景描写)
(3)強敵ステッペンウルフを倒した本編以降の、ポストクレジットシーンで紹介される、ジャスティス・リーグの未来の様子
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まず、最初に断っておくと、前記のとおりで、ジョス・ウェドンによる劇場版『ジャスティス・リーグ』と、ザック・スナイダーによる『ジャスティス・リーグ〈ザック・スナイダー カット〉』を比較するなら、これは後者の方が、圧倒的に「面白い」。
もちろん「好み」の問題はあって、単純に「明るい活劇」の好きな向きには「劇場版」の方が「面白い」と感じられるかも知れない。
しかしながら、スナイダー監督による「ジャスティス・リーグ三部作」の「個性」としての「ヒーローの苦悩を描く」内面重視という点に価値を見るならば、それはもう圧倒的に〈スナイダーカット〉の方が面白いのだ。
そしてその魅力とは、「劇場版」からは、わざわざ削られた部分なのである。
〈スナイダーカット〉を含む「ジャスティス・リーグ三部作」には、ザック・スナイダー監督の「ヒーローとは」というヒーロー哲学が込められている。
つまり、それを「面白い」と思うか、「そんなことはどうでもいい。楽しいエンタメ活劇を見せてくれれば、それで良い」と思うかによって、評価は大きく違ってくるのである。
無論、私個人は、ザック・スナイダー監督の方向性を断然支持する。
単純なエンタメ活劇もそれはそれとして楽しみはするが、そうしたものならすでに数多く作られているのだから、同じようなものを作って欲しいとはあまり思わないのだ。
作るのなら、何か新しいことを付け加えて欲しいと、私はそう考えるタイプなのである(例えば、既成情報の寄せ集め的なレビューではなく、その人ならではの独自性があるレビューというものを、私自身は常に意識している)。
そして、そうした「発展性を求める」好みからすれば、「ジャスティス・リーグ三部作」でスナイダー監督の取り組んだ「ヒーローとは」というテーマは、意外に斬新なものであり、とても面白い挑戦だと、私は高く評価しているのだ。
どういうことかというと、「スーパーヒーローもの」というのは、あまりにも長きにわたって量産されてきたために、いまさら「ヒーローが、ヒーローであることに悩む」などというナイーブな作品は、ほとんど作られないためである。
ヒーローとは、そんな「人間としての当たり前の葛藤」を超えた境地にある「超越的な存在」として作られることのほうが、当たり前に多かったのだ。
無論、スパイダーマンのように、当たり前の人間が、事故などにより突然超人的な力を身につけ、事件に巻き込まれることで悪と対決していくという展開の中で、正義の使命に目覚める、といったパターンの作品ならば、当然のこととして、主人公の「ヒーローとして生きていくことへの葛藤と決意」といったものが描かれる。
しかし、それは「普通の人から超人へ」の移行に、リアリティを持たせるための段取りであって、「ヒーローとは何なのか」といった本質的な問いにまでは深まりにくいし、だからこそそうしたヒーローものは、誕生エピソードの際に語られた葛藤も、2作目からはほとんど語られなくなってしまう。
2作目以降は、すでにそうした葛藤は乗り越えられたものとされ、難敵にどう立ち向かうのかといった、目の前の難題を中心に展開することになりがちだからだ。
だが、私が見たところ、スナイダー監督による「ジャスティス・リーグ三部作」における「ヒーローとは何か」という問いでありテーマは、そうした「段取り」的なものではなく、三部作を通して一貫した、本質的なものだと感じられた。
「ヒーロー」であることとは、「重い使命」を背負い続けるということであり、だから、そう簡単に解答が出て、乗り越えられてしまうようなものではない、「重い(解き難い)宿命」として描かれいるのだ。
だからこそ、「重い」し「暗い」のである。
例えば、劇場版『ジャスティス・リーグ』のポスターは、ワンダーウーマンを中心に、その両脇にスーパーマンとバットマンを同等に配する構図のものが多いのに対し、〈スナイダーカット〉版『ジャスティス・リーグ』のポスターは、バットマンが一番手前に来ているものが多い。またそれに対し、スーパーマンが一番手前に来ているものは見当たらないのだ。


これは明らかに、スナイダーが、スーパーマンよりもバットマンに肩入れしているからであり、なぜバットマンに肩入れしているのかといえば、彼が超人ではないからこそで、『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』で描かれたとおり、指揮官として仲間に対し「死んでくれ」と指示しなければならないというような、ヒーローとしての重責を担うことにもなるからだ。
〈スナイダーカット〉のポスターが、モノトーンで「暗い」のも、それは作品のテーマそのものが、そのように重いものだからなのである。

ともあれ、スナイダー監督による三部作は、まさにそうした「重さ」や「暗さ」を楽しめるかどうかにかかっており、その点において「観客を選んでいる」。
そして、私自身はどうかというと、当然のことながら、スナイダー監督に選ばれた者の一人であると、自信を持ってそう自認することができる。
なぜなら、私は仮面ライダー(1号)の時代から、ヒーローは孤独であり、世間の誤解を受けながら、それでも世界のために戦う「孤高な戦士」だと、大筋でそのように考えてきた人間だからだ。
つまり、ヒーローというのは、元来「重い」「暗い」宿命を背負った存在なのだ。
世間にチヤホヤされたり賞賛されたりするような存在ではない。
独り傷つきながらも、世界の平和のために戦い続ける孤影こそがヒーローのものであって、明るく楽しくというのは、真のヒーローのものではないと、そう考えてきた。
だから、私はいまだに、『秘密戦隊ゴレンジャー』に始まる「スーパー戦隊」ものというのが、あまり好きではない。「5人で一つ」というような、役割分担的ではあっても個性の薄いセット売りみたいなものでは、ぜんぜん物足りない。
仮に共闘することがあったとしても、それは「数の力」で強いのではなく、個々の個性が際立っているのを前提としたうえでの、共闘でなければ物足りない。
だから、私は「スーパー戦隊」ものでも「複数(仮面)ライダー」ものでも、彼が、いくら強敵だとは言え、ひとりの敵を複数で倒すというパターンには、どこか「袋叩き」や「イジメ」的なものを感じて、好きにはなれないところがあった。絵として、そう見えてしまうのである。
したがって、とうぜん基本的には「1対1」が望ましいし、2人以上で1人の強敵を倒さなければならないとしても、その場合は、ヒーローの側の個々の個性が際立っており、個々が全力で戦っているというところを見せなければならない、と感じていた。
理屈としては「チームプレイ」だとしても、そのために「個人が弱いから、数の力で」となっては、ヒーローではなくなってしまうと感じていたのである。
また、「スーパー戦隊もの」はもとより、令和以降の「仮面ライダー」で顕著なとおり、仲間内で戯れあうような、あまりにも「明るい」ノリは、私の好みではなかった。
「暗くて重い」のは、今どき流行りではないと言われても、やはり、普通に考えて、ヒーローというのは「つらい運命(さだめ)」を背負っているのだから、そうあっけらかんとふざけ合ったりなどはしていられないものだと思うし、そうでないと、そもそもリアリティがない。
「ヒーローだって人間だ」というのは、「だから、ふざけもするし、普通の生活もある」と言うよりは「普通の人間だからこそ、並外れて重い使命に、時にうちひしがれるような、つらい生き方」ということにしかならないと思うのだ。
たまに、おふざけやユーモアの描写があったとしても、その陰にはいつも「悲しみ」のようなものがなくては、本物のヒーローではないと、私には感じられるのである。
したがって、超人であるが故の葛藤や苦悩が特には無いようなヒーローが活躍する作品も、それはそれとして娯楽作品として見ることはできるし、楽しむこともできるけれど、それで満足できるかと言えば、私の場合はそうではない。
スカッとする物語の中にも、一抹の悲しみや翳りのないような作品は、所詮は、その場かぎりの消費財でしかないのである。
だから私の場合は、『マン・オブ・スティール』も『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』も、「ヒーローの葛藤」を描いた作品であったからこそ、強く惹かれた。
ヒーローが、ただ強いだけではなく、悩み苦しむ姿を描いているからこそ、私はそこに「人間を描いた作品」の魅力を、強く感じたのである。
したがって、『ジャスティス・リーグ』についても、〈スナイダーカット〉の魅力とは、そうした「ヒーローの葛藤」を描いているという点において、ジョス・ウェドンによる「劇場版」に勝っていると評価する。
単なる娯楽作品ではなく、「人間を描く」という点において、〈スナイダーカット〉は、言うなれば「文学的」なのだ。
エンタメ小説しか読まない人は、「暗い」純文学作品になど興味はないだろう。
だが、純文学系の「暗い」作品のもつ「暗さ」とは、人間や人生というものの持つ本質的な「暗さ」を描くからこそ「暗い」のだし、だからこそ、そこが面白い。
人間や人生の「暗い運命(さだめ)」から逃避するための消費財でしかないエンタメの面白さとは、そこが決定的に違うのだ。
甘いばかりの子供向けの駄菓子も、それはそれで美味しいけれど、苦さや渋味の利いた「大人の味」というのも、たしかに存在するのである。
さて、今回『ジャスティス・リーグ』の〈スナイダーカット〉を見て、私がこれまで、『マン・オブ・スティール』や『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』を論じた際に主張してきた「読み」を、一部訂正しなければならなくなった。
私はこれまで、上の2作について「この2作が暗いのは、ヒーローの孤独を描いているからであり、それが解消されるのは、完結編である『ジャスティス・リーグ』においてで、それまで孤独に生きてきたヒーローたちの間で、チームが結ばれてからになる。つまり、それまでは、暗くて当然なのだ」と、大筋そのように主張してきた。
しかし、この読みは、〈スナイダーカット〉においては、半分しか当たっていなかったのだ。一一どういうことか?
たしかに、本作〈スナイダーカット〉においては、ついにヒーローたちが手を取り合い、ジャスティス・リーグを結成することで、強敵を倒すことができ、その意味では、晴れやかなハッピーエンドを迎えもするのだが、しかし、このハッピーエンドは、あくまでも今回の、侵略者ステッペンウルフをめぐるエピソードに限られる「限定的な解決」であって、「すべての解決ではない」という事実が、明確に語られもしている。
つまり、喜んでばかりもいられない、さらなる難問、さらなる来るべき難敵ダークサイドの存在が、明確に描かれているのだ。

そして、この部分が、ジョス・ウェドンによる「劇場版」では、完全に切られていた部分なのである。
「劇場版」では、強敵ステッペンウルフを倒せば、それで完全なハッピーエンドであり、その先のことまでは問題とされていなかった。
ところが、〈スナイダーカット〉では、そのステッペンウルフは、先遣部隊の将とでも呼ぶべき存在にすぎず、ステッペンウルフが怖れる存在であるラスボス・ダークサイドの存在が本作〈スナイダーカット〉では描かれ、ラストでジャスティス・リーグによってステッペンウルフが敗れたことを知ると、ダークサイドが本隊を率いて地球に襲来するという様子が、「次作への予告」的に描かれているのである。

つまり、今回は、バットマン(ベン・アフレック)とワンダーウーマン(ガル・ガドット)を中心にして、アクアマン(ジェイソン・モモア)、サイボーグ(レイ・フィッシャー)、フラッシュ(エズラ・ミラー)の3人が協力したばかりではなく、前作『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』のラストで強敵ドゥームズデイと差し違えて死んだスーパーマン(ヘンリー・カヴィル)を復活させることで勝利を得たものの、やがて襲来するダークサイドは、ステッペンウルフの比ではない強敵であることが示されるのである。
当然、その来るべき戦いは、今回のそれを遥かに超えて困難なものとなるというのは容易に予想でき、ジャスティス・リーグは、もっともっと仲間を増やさないことには、ダークサイドの軍勢に勝つことができないというのも明白だ。
ダークサイドとの戦いは「また、みんなで力を合わせれば勝てる」というほど、お易いものではないのである。
だから、ステッペンウルフとの戦いが終わった後、「劇場版」でも描かれたように、レックス・ルーサーJr.(ジェシー・アイゼンバーグ)が、バットマンに恨みを持つヴィランのデスストロークことスレイド・ウィルソン(ジョー・マンガニエロ)を招くシーンがあるだけではなく、〈スナイダーカット〉では、さらにその数年後のことであろうダークサイドたちの地球侵攻がすでに始まっている時期の、ジャスティスリーグの面々の様子が描かれる。
だが、驚くことにそこには、スーパーマンもワンダーウーマンもアクアマンもサイボーグもいないし、フラッシュらしい赤い特殊スーツを着た人物も、本編のフラッシュとは別人のようなのだ。

そして、その代わりにジャスティス・リーグに加わったと思しき面子には、なんと先のデスストロークがおり、そのほかには本編でアクアマンに心を寄せていたらしいアトランティス人の女性メラ(アンバー・ハード)が加わっていて、メラとバットマンとの会話では、アクアマンは死亡したらしいことがわかるのだ。
また、どういう経緯かわからないが、バットマンが、スーパーマンの恋人であるロイス・レイン(エイミー・アダムス)を「殺した」と語られて、そのせいでスーパーマンが敵方に寝返ったことも示唆されるのである。

つまり、ステッペンウルフ戦で決定的な働きをしたスーパーマンが敵方に寝返り、アクアマンが死んだとなれば、当然、ワンダーウーマンもサイボーグもフラッシュ(初代)も死んだ公算が高いということになろう。
そうした悲惨な戦いを経た後だからこそ、そこには敵であったはずのデスストロークが加わっており、さらに驚くことには、かのジョーカー(ジャレッド・レト)も、その場にいるのだ。

ただし、ジョーカーの場合は、ジャスティス・リーグに加わったわけではなく、バットマンとの永遠のライバル関係はそのまま、しかし、一時的な戦略的共闘をしているようなのだ。
ジョーカーは「おまえは俺を決して殺せない」と憎まれ口を叩き、バットマンは「必ず殺してやる」と言い返すが、それは「今この場所で」の話ではないのである。
つまり、ダークサイドとの戦いにおいては、ジョーカーの協力さえ仰がなければならないほどの苦しい戦いを、バットマンたちジャスティスリーグは強いられていたのである。
つまり、〈スナイダーカット〉で描かれるのは、強敵ステッペンウルフを倒して、やれやれ一段落だとなり、それでもまた、レックス・ルーサーJr,が生きてもいれば、デスストロークのような新たな敵も登場して、ジャスティスリーグの戦いはこれからも続くのである一一というような、地球上規模の「呑気な戦い」では済まされない未来なのだ。
そもそもステッペンウルフは宇宙からやってきた侵略者だったのだがら、それを退治したからといって、ジャスティスのヒーローたちの戦いが、ふたたび地球上規模に落ち着くという保証などは無く、当然のことながら、ステッペンウルフよりも強力な敵が、宇宙から襲来すると考える方が自然なのである。
つまり「ヒーローの宿命」とは、このように「終わることのない戦い」であり、仲間を得たとしても、それを失ってでも続けなければならない「終わりなき戦いの宿命」なのだ。
そんな絶望的な宿命が、「重く」て「暗い」のは当然のことなのである。
したがって、たしかにザック・スナイダーによる「ジャスティス・リーグ三部作」は、完結編となる『ジャスティス・リーグ〈ザック・スナイダー カット〉』において、ジャスティスリーグがめでたく結成されて、強敵ステッペンウルフを倒すという、一応のハッピーエンドを迎えはするが、だからといって、彼らが「ヒーローとしての重く暗い宿命」から解き放たれたというふうには描かれていない。
彼らを待ち受けているのは、さらに過酷な運命なのである。
つまり、ザック・スナイダーによる「ジャスティス・リーグ三部作」は、基本的には、最後まで「重くて暗い作品」なのだ。
観客を「ああ、楽しかったね」と安心させ、喜ばせて帰してくれるような、当たり前の作品ではなかったということなのである。
だから、ジャスティス・リーグが結成され、ステッペンウルフを倒したところで、シリーズ完結編としての『ジャスティス・リーグ』を終えた方が、作品としても「スッキリ」しているし、完成度も高くなっただろうにと、そう考える人も当然いるだろう。
作られることもないだろう「さらに暗い続編」の予告部分をわざわざ付け足して、見る者に暗い予感だけを与えて終えるというのは、あまりにも酷なやり方なのではないかと、そう感じた人もいるはずだ
そうした考え方は、映画をエンタメ的な完結性において見る分には、たしかに正しい考え方だとは言えるだろう。
だが、私はあえて、この意地の悪い「完結なき完結編」を支持したい。
なぜなら、本作〈スナイダーカット〉が示しているのは「この世にハッピーエンドなど存在しない」という事実なのだ。
現実は、終わりなく続くものであり、いったんはハッピーエンド的な結果を迎え得たとしても、その先にはまた新たな問題が出来(しゅったい)する。
だから、ヒーローは、いや私たちは、命あるかぎり戦い続けなければならず、そんな「重くて暗い宿命」を背負っているのだ、ということを、本作は描いているのではないだろうか。
ほとんど嫌がらせにも近いような〈スナイダーカット〉のラストは、だからこそ稀有であり素晴らしいのだと、私は肯定的に評価したい。
一時的な気休めによる現実逃避の具にしなかったところに、ザック・スナイダーの「作家的な良心」を、私は見たいと思うのである。
「ヒーローとは、勝利の栄冠ではなく、過酷で救いのない未来にも、目を逸らさずに立ち向かう戦士のことである」
ザック・スナイダーはこの三部作で、そのような「ヒーロー観」を描いていたのではないだろうか。
また、そのような作品だと評価するからこそ、私はこの『ジャスティス・リーグ〈ザック・スナイダー カット〉』を、稀有な傑作であると、高く高く評価したいのである。
(2025年11月6日)
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