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ジョージ・キューカー監督 『マイ・フェア・レディ』 : 人形がお人形さんになった物語

映画評:ジョージ・キューカー監督『マイ・フェア・レディ』(1964年/アメリカ映画)

オードリー・ヘプバーン主演作品で、アカデミー賞8部門を受賞した、ヘプバーンの代表作のひとつにして最大のヒット作である。

とは言え、ヘプバーン自身はアカデミー賞の主演女優賞の候補にも挙がらなかったところに、歴史的な傑作とされる本作の「問題点」が見出し得ると、私は見た。

私自身は、当初は単に「ヘプバーンの代表作のひとつ」だという理由だけで、本作を見ることにした。

ヘプバーンについては、女優としてよりも、後年の「ユニセフ親善大使」として『1988年から1992年にはアフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身』(wiki)したという経歴に、尊敬の念を持っていた。
映画の中の彼女ももちろん美しいけれど、第三世界の貧しい子供たちの中に入っていき、子供たちを励ます姿は本当に美しいと、かねてから感服していたのである。

そうしたことから先日、ヘプバーンの初の映画主演作で出世作となった『ローマの休日』(1953年/ウィリアム・ワイラー監督)を見て、若いヘプバーンの可憐な姿にすっかり魅了され、それで「ヘプバーンの主演作は、ひと通り見よう」と考えるようになったのだ。

そこで、『ローマの休日』あとは、ミステリ映画の『シャレード』(1963年/スタンリー・ドーネン監督)を見て、私のヘプバーン3作目のなったのが、ミュージカル映画である本作『マイ・フェア・レディ』だという次第である。

本作は、アイルランド出身の多才な劇作家ジョージ・バーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』を、作詞・脚本アラン・ジェイ・ラーナー、作曲フレデリック・ロウがミュージカル化した舞台作品『マイ・フェア・レディ』の、映画化作品である。
したがって、直接的な原作は、このブロードウェイミュージカルで、ハリウッドの名作ミュージカルの多くがそうであるように、本作も、舞台でヒットしたミュージカルを、映画化した作品のひとつだ。

ちなみに、原作者のジョージ・バーナード・ショーの名は、どういうわけだかは知らないが、日本でもかつては、かなり有名だった。

もちろん、大ヒット作である本作の原作者ということもあるのだろうが、ショーは『文学者、脚本家、劇作家、評論家、政治家、教育家、ジャーナリスト』(wiki)として幅広く活躍した人だし、何よりノーベル文学賞受賞作家だから、そのあたりで日本でも知名度だけは高かったのかも知れない。

しかしまた、ノーベル文学賞受賞作家とは言え、現在の日本で読まれるほどの作品は遺しておらず、私もショーの著作は読んだことがない。
したがって、昭和生まれの私よりもずっと若い世代なら、ショーの名前を知らない人も多いのではないかと思う。

ちなみに、ジョージ・バーナード・ショーの名前を、今の若者に伝える作品としては、私も大好きな「読書マンガ」、施川ユウキ『バーナード嬢曰く。』がある。

同作の主人公である、女子高生の町田さわ子は、(登場当初は)あまり本を読まないくせに、知ったかぶりで読者家ぶりたがる、お惚けキャラなのだが、そのさわ子が自分につけたニックネームが、バーナード・ショーとお嬢さんの掛け言葉である「バーナード嬢」と、なかなかマヌケなものだった。
当然さわ子は、私と同様、ジョージ・バーナード・ショーなど読んだことはなかったのだ。

なお、本作『マイ・フェア・レディ』の原作となった、バーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』だが、これは無論、ギリシャ神話のピグマリオンの物語に材を採って、現代の物語にしたものである。

『現実の女性に失望していたピュグマリオーンは、あるとき自ら理想の女性を彫刻した。その像を見ているうちに彼女が服を着ていないことを恥ずかしいと思い始め、服を彫り入れる。そのうち彼は自らの彫刻に恋をするようになる。さらに彼は食事を用意したり話しかけたりするようになり、それが人間になることを願った。その彫像から離れないようになり次第に衰弱していく姿を見かねたアプロディーテーがその願いを容れて彫像に生命を与え、ピュグマリオーンはそれを妻に迎えた。』

(Wikipedia「ピュグマリオーン」

つまり「男が、理想の女性を作り上げる物語」だと要約できるわけなのだが、もとの神話では「人形が人間の女性になる」一種の変身譚なのを、バーナード・ショーは、これを人間の物語に移し替え「育ちの悪い女性を、非の打ちどころのない淑女に育て上げる物語」へと改変したわけである。

当然、ここには露骨に当時のイギリスの「階級意識」や「性倫理」が反映されている。

当時とは、ジョージ・バーナード・ショーが生きた『ヴィクトリア朝時代から近代にかけて』(wiki)の時代であり、ヴィクトリア朝時代とは、よく言えば「紳士淑女」の時代であり、悪く言えば「建前の綺麗事と現実の汚さのギャップが激しかった時代」だとも言えるだろう。
私は、ヴィクトリア朝と言えば、ヴィクトリア女王の他は、シャーロック・ホームズしか思い浮かばない、同時代のイギリス社会には詳しくない人間なのだが、しかしホームズ関連の書を読んでいるだけでも、当時のイギリス社会の「陰の面」が、しばしば語られていたのである。
(ちなみに本作『マイ・フェア・レディ』には、のちにテレビドラマでホームズを演じてそれが代表作となる、若きジェレミー・ブレットが出演しているが、若すぎて、そうと思って見なければ気づけない)

(アスコット競馬場でイライザに一目惚れする良家の青年フレディ役のジェレミー・ブレット

そんなわけで、ヴィクトリア朝後期から近代の人であったジョージ・バーナード・ショー『ピグマリオン』を原作とする本作『マイ・フェア・レディ』は、端的に言って「性差別」的な内容であり、平たく言えば、女性の人格を蔑ろにした、男による手前勝手な内容の作品だと、そう総括できるだろう(あるいは、そうしたものを批判した風刺作品である)。

なにしろ、主人公イライザの元となっているのは、ピグマリオンの作った「人形」なのだから、人形に「人格」など認められていなくても当然なのだ。

だが、そこに「問題(難点)」を見ることが出来なかったところが、ヴィクトリア朝時代の子であるジョージ・バーナード・ショーの限界であったのか、あるいは、そこに気づいて風刺したのが、ショーの『ピグマリオン』なのである。

無論、この問題点について、今でも理解できない人が、男女問わず少なくはないだろう。
「育ちが悪いよりは、育ちの良い方が、当人にとっても、周囲にとっても、社会にとっても良いことではないか。貧しい人には同情するが…」というような考え方である。

一一しかしながら、これは単なる「偏見」でしかない。

当たり前の話だが、金持ちの上流階級の中にも良い人もいれば悪い奴もいるし、貧乏人の中にも良い人もいれば悪い奴もいる。
ただ、貧乏人の場合は、その貧乏のゆえに、時に犯罪に走らざるを得ないこともあるから、貧乏人であることが、そのまま犯罪者予備軍であるかのような「偏見」を持たれることも、ままあったのだ。

だが、繰り返すが、財産の有無や多寡が、そのまま犯罪の階層的な発生率に繋がるわけではない。
要は、社会階層によって、その犯罪の性格が違うのだが、その点が看過されがちなのだ。

貧乏人は必要に迫られて、即物的な犯罪な走りがちだが、金持ちはその経済的な余裕のおかげで、手の込んだバレにくい犯罪を犯すことが多い。当然、後者の方が、目立ちにくいのだ。
窃盗犯や粗暴犯は、わかりやすく「犯罪者」の印象を与えるが、上流階級における汚職だの、立場を利用した性犯罪だのは、隠蔽されがちだから、さも犯罪自体が少ないかのような印象を与える。

だが、それは発生数の問題ではなく、質的に目立つ目立たないの問題でしかない。
人間の質といったものは、階級には関わりなく、そう大差のないものなのである。

ともあれ、原作の『ピグマリオン』は読んでいないから確かなことは言えないが、本作映画版『マイ・フェア・レディ』には、原作由来であろう、金持ち階級から見た時の、貧乏な「庶民」階級への差別意識というものが、ハッキリと刻まれている。
(なお、Wikipediaによれば、バーナード・ショー『ピグマリオン』を風刺作品として書いた、とのことである。たしかにショーは、階級的な差別意識を自覚的に批判してはいたかも知れないが、しかし性差別的な偏見については、どこまで自覚的であったかは疑わしいと思う)

そもそも「淑女」なる存在は、当時の男性中心主義的な「理想の女性像」でしかなく、無条件に肯定できるものではないというのは、フェミニズムの知識がある程度は広まった現代においては、常識に類する話でしかない。

例えば、現代日本の女性が、ヴィクトリア朝の「淑女」像を押しつけられれば、黙っていられるわけがないし、黙って受け入れるべきものでもない。
「そんなものは、昔の、一地方の価値観にすぎない」と、そう明確に拒絶すべきものなのだ。
無論、個人的な「趣味・美意識」から、それを選ぶのなら、それはその人の勝手だとしてもである。

本作映画版『マイ・フェア・レディ』において、主人公のイライザ・ドゥーリトルオードリー・ヘプバーン)は、物語の冒頭では、下町訛りの下品な話し方しかできない、いささかガサツな花売りの女性として登場する。

そして、そんな彼女を、「下品な言葉が、差別を生むのだ。我々には誇るべき英語がある(アメリカ人とは違う)」と考える言語学者ヘンリー・ヒギンズ教授(レックス・ハリソン)が、遠目に観察研究しているところから、物語の幕は上がる。

何やら自分の言葉をメモしているらしいビギンズを見て、イライザは、売春婦を取り締まる刑事ではないかと疑い、自分はそんな人間ではない、ただの花売りだと、わあわあ大騒ぎするのである。

ストーリー

階級文化が色濃いイギリスを舞台に繰り広げられるロマンティック・コメディである。

言語学が専門のヒギンズ教授はひょんなことから、下町生まれの言葉遣い(コックニー英語)の花売り娘イライザをレディに仕立て上げられるかどうかをめぐって(※ 友人の)ピカリング大佐と賭けをすることになる。

たやすいことだと高をくくっていたヒギンズだったが、イライザは自分が訛っているのすらわかっておらず、連日深夜まで特訓が続くことになる。だがやがて、矯正のための詩「スペインの雨」をマスターしたのをきっかけに、イライザは見る見る上達を果たした。人前で成果を披露しようと、ヒギンズは紳士淑女たちの社交場であるアスコット競馬場にイライザを連れ出す。しかし美しく着飾ってもレディとしての素養までは身につけていないイライザは騒動を起こしてしまう。イライザは落ち込み、ピカリングやヒギンズの母親はこれ以上続けても無駄だと反対するが、ヒギンズには手応えがあり、次は舞踏会へ連れていくと言う。

さらなる特訓を重ねた6週間後、舞踏会に臨んだイライザはその美しさで上流階級の人々を魅了し、実験は大成功を収めた。だがその結果に驕ったヒギンズの言動はイライザを深く傷つける。彼女はいつしかヒギンスに恋していたが、彼にとって自分は実験動物も同然とわかったからだ。ヒギンズとの大喧嘩の末に家を飛び出したイライザは、花売り娘の生活に戻ることもできず、ヒギンズの母親の家に身を寄せる。彼女を連れ戻しにヒギンズがやってくるが、イライザはきっぱりと拒絶し、あなたから自立すると宣言する。ヒギンズは動揺しながらも強がって、イライザと、そんな風に彼女を育て上げた自分を褒め称えて帰宅の途につく。だが、イライザとの暮らしが当然のように今後も続くものだと思っていたヒギンズは、密かに肩を落としていた。そんなヒギンズのもとに静かにイライザが帰ってくる。』

(Wikipedia「マイ・フェア・レディ (映画)」

(アスコット競馬場デビュー。左は付き添いのピカリング大佐)
(舞踏会デビューのイライザ。左がヒギンズ、右がピカリング大佐)

見てのとおりで、ヒギンズから見たイライザの難点、つまり「非淑女」性とは、主にその「言葉遣い(下町訛り)」であり、さらに言えば、上流社会人が理想とした「淑女」像には当てはまらない、その「自由奔放さ」であった。

「淑女」とは、少なくとも人前では「上品に澄ましていなければならない」存在であり、それが「美徳」だと考えられていたのである。言い換えれば、人前で明け透けに本音を口にするような正直者は「弁えていない=育ちが悪い=下品だ」と評価されたわけで、これがヴィクトリア朝の「上流文化」を支えていた、「建前的な綺麗事の倫理」だったのである。

したがって、ヒギンズの「言葉が生む階級差別をなくすために、言葉の教育的な洗練が必要だ」という考え方は、うわべは「反差別」を語っていながらも、要は「庶民言葉(訛り)」を露骨に見下した上で「われわれの優れた上流言葉に合わせろ」というものでしかない。

元から差別的に見下しでいながら、そんな自分たちの差別意識にはまったく自覚を持たず、ただ「あいつら庶民は、下品だから下品なのだ」と、同語反復的に決めつけているにすぎないのである。

実際、本作のなかでもヒギンズは、かなり「嫌な奴」として描かれている。
彼の親友であるピカリング大佐や、ヒギンズ宅のメイド頭の中年婦人などは、しばしばヒギンズのイライザに対する、非人情な「実験動物扱い」を非難するし、そもそも、アメリカ映画の中で、アメリカ人を露骨に見下している人物なのだ。

では、そんな「嫌な奴」であるヒギンズに、どうしてイライザは「(上流的)標準語(キングズイングリッシュ)」を習おうとしたのかと言えば、それは、それが話せないと、花屋の店員になることすら出来なかったからである。
21歳にして、まだ花売り娘をすることしか許されなかった貧乏人のイライザは、せめて花屋の店員となって、安定した給金がもらえる身分になりたいと、そう考えたのだ。

その結果、ヒギンズの「教育実験」は大成功して、外国の王子が彼女のことを、外国の皇女だと思い込むほどに、完璧な淑女ぶりを身につけることになる。
それでヒギンズは、ピカリング大佐との賭けにも勝ってすっかり有頂天になったのだが、その様子を見ているイライザの様子は、いかにも悲しげだった。一一なぜか?

無論それは、いつの間にかイライザは、ヒギンズに恋していたからである。

しかし、映画を見ているかぎりにおいては、このイライザがヒギンズを愛してしまうというのが、あまり説得的ではない。

なにしろ、ヒギンズは終始一貫して、自分のことしか考えていない、じつに子供っぽいまでの男性であり、しかも、女性嫌いを公言する独身主義者なのだ。
「女はすぐに群れたがって騒々しく、落ち着いて物を考えることもできない動物である。だから、そんなものと結婚して、わざわざ苦労を背負い込むような馬鹿な真似を、私は選んだりはしたい」と、そう(ミュージカル映画だから、歌いながら)語るような人なのだ。

だから、いくらヒギンズが必死になってイライザに「言葉と礼儀のレッスン」をつけたところで、それはイライザのことを思ってのものでないことくらいは、いくら学のないイライザにも伝わるはずだし、その点、ヒギンズは、じつにわかりやすい男だった。

それなのに、それでもイライザがヒギンズを好きになってしまうところが、かなり「ご都合主義的」な印象を与えるのである。

無論、一応の理由付けはなされている。
それは、イライザがまだ、ヒギンスに言葉を習おうと考える以前、飲んだくれのひとり親の父に苦労させられている彼女が、自分の夢を語る歌「ステキじゃない?」の中で、「私を守ってくれる人がいれば、それだけで私は幸せ」と歌うところ(歌詞)があるのだ。

(「ステキじゃない?」を歌うシーンのイライザ)

つまり、日々の生活に苦労していた彼女は、自分を守ってくれるような「頼りになる男性」が現れてくれたら、という願望を持っていたというのは確かなことで、結果としてはそれがヒギンズだったということになるのだが、それにしてもヒギンズは、あまりにもわかりやすく嫌な奴なので、いくら「庇護願望」を持っていたイライザでも、さすがにヒギンズにはそれを期待しないだろうと、映画を見ている者は、そう感じてしまうところがあるのである。

また、そう感じてしまう理由のひとつには、ヒギンズを演じた、レックス・ハリソンの年齢や外見の問題もある。

というのも、ハリソンはブロードウェイの舞台版でヒギンスをやり、定評のあった俳優だったとは言え、舞台ならまだしも、アップになる映画で、オードリー・ヘプバーンの相手役をするには、いささか老けていたし、わかりやすい二枚目(イケメン)でもなかったのだ。

本作制作当時、ヘプバーンは35歳で、イライザの年齢設定からすれば、決して若くはない。だが、そこは美人女優だから、なんとかなる範囲ではあったものの、ヒギンス役のレックス・ハリソンは当時56歳で、ヘプバーンの親に近い年齢だし、ましてヘプバーンは若作りしているのだから、その年齢差はよけいに明らかだ。

それでも、、ハリソンが典型的な二枚目俳優なら、その美形ぶりで誤魔化しもきいたのだろうが、ハリソンは、そういうタイプの俳優ではない。

実際、ヒギンズ役には、当初ケイリー・グランドへ出演依頼がなされて断られ、次に『アラビアのロレンス』出演直後のピーター・オトゥールに依頼がなされてこれも実現せず、そのほかに、ロック・ハドソンローレンス・オリヴィエといった、わかりやすく男性的な二枚目俳優に出演依頼をしたもののうまくいかず、その結果として、舞台版で実績のあるレックス・ハリソンが、映画版でもヒギンス役を演ずることになったのだ。

つまり、本作映画版のヒギンス役は、当初は「男性的でたくましい二枚目俳優」が考えられていた。
それならば、多少の年齢差があり、ヒギンズが変人学者であったとしても、イライザがヒギンスを好きになるのにも、「見た目の説得力」はあったからであろう。

ところが、レックス・ハリソンの外見は、いわゆる「わかりやすい二枚目(イケメン)」でもなければ「男性的なたくましさ」を感じさせる外見でもなく、まさに「癖のある学者」タイプの外見なのだ。
だから、ヒギンズ役に合ってはいるけれども、イライザにも恋される役としては、説得力を欠いたのである。

(ヒギンズ教授と、イライザのと実父アルフレッド)

しかし、それでもハリソンが、アカデミー賞主演男優賞を受賞し得たのは、純粋に彼の「歌える演技力」と、舞台を含めたヒギンス役の実績が評価されたからだろう。

そして、アカデミー賞の審査委員の多くが、当時の男性だあったからではないだろうか。

つまり、ケイリー・グランドのような「わかりやすい二枚目(イケメン)」ではなくても、ヘプバーンのような年下の女性から思いを寄せられるという「男性に好都合なファンタジー」を、選考委員の多くもまた、多くの観客たちと同様に、素直に楽しむことが出来た(時代だった)からではなかったろうか。

今なら、一歩退いた目で「こんな大人気ない変人学者が、多少の恩義があるとはいっても、こんな年下の美人に惚れられるわけない」と、そう感じてしまうのだが、まだ男性中心主義的な価値観がさほど疑われていなかった当時にあっては、多少高齢であっても、地位やそれに伴う財産のある男性が、若くて美しい女性に愛されるというのは、それなりにリアリティがあった、ということなのではないだろうか。

言うまでもなく、作中のイライザのヒギンスへの思いは、そうした打算抜きの純粋なものではあったのだけれど、イライザの父が認めるとおりで、当時としてそれは、わかりやすい「玉の輿」であり、当時の女性は、「色男、金と力は無きにけり」と言われた時代の若い男よりも、地位も財産もある、それなりに歳をとった男の方を、むしろ選んだという現実もあって、それが本作にも一定の説得力を与えていたのではないだろうか。

したがって、今にちの観点かすると、イライザがヒギンスに惚れたという点で、本作は今ひとつ説得力を欠いている。
そうしたイライザの内面が、十分に説得力を持つほどには、丁寧に描かれてはいないのだ。

あの、いささか粗野だったイライザが、たかが数ヶ月、言葉と礼儀作法の特訓を受けただけで、それを見事に身につけたとしても、それだけで「性格」までが変わってしまうとは思えない。
だが、外見的に立派な淑女となった後のイライザは、いつの間にか、精神的にも「淑女化」してしまった感じになっている。あまりにも「しおらしい」し「健気」な印象ばかりが強いのである。

で、どうしてこうなったのかと言えば、これはやはり前述のとおりで「男性視点による男性の願望の反映」としか思えない。

だから、オードリー・ヘプバーンが、アカデミー賞の主演女優賞の候補にもならなかったのは、故なきことではないのだ。

本作の場合、主演のわりにはヘプバーンが出ずっぱりというわけではなく、ヒギンス役のハリソン方がむしろ目立つシーンが多いし、本来なら「脇役」の一人でしかないはずの、イライザの父アルフレッド(スタンリー・ホロウェイ)の歌うシーンが、もういいよと言いたくなるほど延々と続いたりするのだ。しかも一度だけではなく。
当時、ホロウェイがそれほどの実力派の人気俳優だったという事なのかもしれないが、作品としては、いかにもアンバランスなのである。

こうしたことには、ひとつには主演のオードリー・ヘプバーンが、必ずしも歌唱を得意としているわけではなかったという事情も関係していよう。
ヘプバーンはそれでも、歌唱に真摯に取り組んだのだが、当人には隠して、実は最初から「吹き替え」を使う予定だったようである。

私はDVDで、マーニ・ニクソンによる吹き替え版と、ヘプバーン自身による歌唱とを、両方聞いたが、たしかにニクソンの方がうまいというのは間違いない。
しかし、ヘプバーンの歌が聞けないほど悪いというわけではないし、下町の娘が歌う歌としては、むしろそちらの方が自然ではあったろう。

物語冒頭付近、まだ下町の言葉でガサツな発音でガサツに話すイライザが、歌い始めた途端に美しく滑らかに歌うというのは、ミュージカルとしては「あり」なのかもしれないが、やはり唐突な印象もあったし、そのなめらかな歌いぶりにこそ、私はすぐに「これは吹き替えでは?」と疑いもしたのである。

ともあれ、そんなわけで、ヘプバーンの演じたイライザは、その人格的な成長(?)あるいは変化が今ひとつ説得力を欠くし、主役のわりには、今ひとつ活躍しない。所詮はヒギンスのお人形さんだからである。

また、ミュージカル映画であるにも関わらず、ヘプバーン自身の歌が使われなかったのだから、その面での評価が受けられず、そうしたことから、ヘプバーンはアカデミー賞主演女優賞の候補にならなかったのではないだろうか。

したがって本作は、オードリー・ヘプバーンの代表作のひとつではあるとしても、ヘプバーンが活躍できなかった作品だとも言えるだろう。

さらには、本作の「Wikipedia」にも詳述されているように、ヘプバーンはイライザの役を受けるにあたって、もう一人の候補者であった、歌は上手いが映画界ではヘプバーンほど有名ではなかった、ジュリー・アンドリュースに、とても気を遣ったようである。
かの『メリー・ポピンズ』『サウンド・オブ・ミュージック』で一躍注目を浴びた直後のジュリー・アンドリュースであり、彼女は、舞台版の『マイ・フェア・レディ』において、すでにイライザ役で定評を得てのである。

だが、プロデューサーのジャック・L・ワーナーワーナー・ブラザースの創立者)が、アンドリュースのことを「それでもまだ、彼女は映画界では無名に等しい」と考えて、スクリーンテストを受けることを条件として課したために、アンドリュースがこれを断って、話が流れることになってしまったようである。

つまり、ヘプバーンとしては、本来であればイライザ役はアンドリュースのものだという意識もあるし、歌えるアンドリュースの方が適役であるという引け目もあったので、アンドリュースにいろいろと気を使ったのだが、結局のところ、アンドリュースがやらない以上、彼女が引き受けるしかなくなり、引き受けるのなら全力でやるしかない、となったようである。だから、本作の現場は、何かと気苦労の多い現場だったようだ。

なお、このあたりの事情については、「Wikipedia」に詳述されているので、是非そちらをご確認いただきたい。
この「Wikipedia」の記述は、ヘプバーンファンの私から見ても、いささかヘプバーンにも肩入れしすぎではないかと思える部分もあるのだが、それでもヘプバーンが、周囲の人への配慮を怠らない、思いやりのある人だったというのは、間違いのない事実のようである。

そんなわけで、まとめとして言うならば、本作映画版『マイ・フェア・レディ』は、今日の観点から見れば、フェミニズム的な問題もあるし、その点で、描写や演出的にも、不十分と思える部分がある。
だから、かつて言われたほどの「名作」だとは評価しにくい。

だが、だからこそ「時代の価値観」というのが透けて見えたところが興味深いとも言える作品だった。

本作は間違いなく「男の手前味噌な願望から生まれた、可愛いお人形さんの物語」なのである。

(最後は落ち込んでいるヒギンズのもとに、こっそりと帰ってきたイライザ)


(2025年11月1日)


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