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東浩紀 『クォンタム・ファミリーズ』 : 東浩紀自身の「世界像」

書評:東浩紀クォンタム・ファミリーズ』(河出文庫)

2009年に刊行された、東浩紀最初の単著長編小説であり「三島由紀夫賞」の受賞作である。

(2009年、新潮社刊行の初版単行本)

その前に、SF作家桜坂洋との共作『キャラクターズ』があるし、その後も何冊かの小説作品を刊行しているが、近年、東は小説作品を書かなくなっているようで、「Wikipedia」で確認するかぎり、最後の小説は、2014年に『文藝』誌に発表した短編「時よ止まれ」のようだ。

『2007年10月には『新潮』に桜坂洋との共作で『キャラクターズ』を発表。これが、東浩紀の処女小説作品となる。『キャラクターズ』は、筒井康隆の『大いなる助走』のパロディ作品として構想されたものである。その後、2009年には『クォンタム・ファミリーズ』を刊行し、前述のとおり2010年第23回三島由紀夫賞を受賞した。『クォンタム・ファミリーズ』は平行世界を扱ったサイエンス・フィクションであった。『クリュセの魚』は、火星を舞台にしたサイエンス・フィクションである。『パラリリカル・ネイションズ』は、高校生が7世紀頃の飛鳥浄御原宮にタイムスリップするサイエンス・フィクションである。平安時代以前の日本史に関心を持った東浩紀は、梅原猛の著作などを読んだ上で、この作品を構想した。

東浩紀の小説作品は、非常にスペキュレイティブ・フィクション的であり、本人もそのことを自覚し、できるだけ幻想的で現実性のない「思弁小説」を書いていきたい旨を表明している。』

(Wikipedia「東浩紀」

私の場合、東浩紀の評論は何冊か読んでいるものの、小説の方は読んだことがなかったし、小説作品が書かれなくなってひさしい今となってみれば、本作『クォンタム・ファミリーズ』が東浩紀の小説代表作だと考えても良さそうなので、これだけは読んでおこうと考えた次第である。

ちなみに、東浩紀が小説を書かなくなったことについては、当たっているかどうかは別にして、当人としては「小説という表現形式は、自分の才能を活かすものではない。自分が期待するほどのものは書けていないし書けない」と、そうした断念に至ったからではないかと、私はそのように見ている。

「Wikipedia」にもあるように、東浩紀『自身の半生については2019年に振り返って以下のように述べている。』

『ぼくは平成の批評家だった。それは、平成の病を体現する批評家であることを意味していた。だからぼくは、自分の欲望に向きあわず、自分にはもっと大きなことができるはずだとばかり考えて、空回りを繰り返して四半世紀を過ごしてしまった。
ぼくは新元号では、そんな空回りを止めて、社会をよくすることなど考えず、地味にできることだけをやっていきたいと思う。それはおそらくは、批評家の資格をなくすことを意味している。敗北主義で冷笑主義で現状肯定だと批判されることを意味している。おまえらがそんなヘタレだから日本はこうなったんだと、若い世代からは非難されることも意味している。けれども、もう偽りの希望はうんざりだと、平成という病を生き抜いた四七歳のぼくは心の底から思っている。

そして、その疲労は、きっと、ぼくと同世代の多くの日本人が共有しているはずだとも思うのだ。ひとの人生は無限ではない。』

「東浩紀が時代の節目に自らを振り返る――「平成という病」」・サイト「BookBang」より)

このように、2019年の段階ですでに東浩紀は、自身を「批評家」であると規定しており、それに「小説家でもある」とわざわざ付け加えるだけの意思は持っていないようなのだ。

私の印象でも、東浩紀という人は「自身を信じてチャレンジしては、その限界にぶち当たって挫折し、それから反省してまたやり直す」ということを、繰り返してきた人だと思う。
そうしたことの結果が上の言葉であり、2023年の訂正可能性の哲学』『訂正する力というかたちで結実しているのではないだろうか。

したがって、東浩紀という人は、悪く言えば「失敗を繰り返す人」だし、良く言えば「反省して軌道修正のできる人」だということであろう。だから、ある意味では、上のような「反省」にもかかわらず、やはり「自身を過大評価してしまう人」でもあり、それでまた失敗しても「反省してやり直せる人」だと言えるだろう。そして私は、後者の美徳をこそ、稀有なものとして高く評価したい。
「自信家」というのは、世に掃いて捨てるほど存在しているし、それは東浩紀に遠く及ばないレベルの者であってさえそうで、かくいう私だって、かなり身の程知らずの自信家なのだが、こうした自信家で、東浩紀のような「反省の努力」ができる人は、本当に滅多にいない。
反省し切ることできないまでも、しかし、ひとまず反省できるというだけでも、それは十分に素晴らしい才能だと、私はその点を高く評価したいと思うのだ。

で、そうした「反省する才能」というのは、「失敗したから、反省できるようになった」というようなものではなく、もとからその人に備わっていた美質としての「才能」だと、私は考える。

人間というのは、「失敗経験」を何度かしたくらいで、なかなか「反省できる」ようになるようなものではない。そう簡単に変われるものではないのだ。
例えば、「詐欺に遭う人」というのは、くり返し詐欺に遭うものであり、だからこそ詐欺グループは、詐欺被害者リストを売り買いしたりする。要は、これまで詐欺被害に遭わなかった人を騙すより、被害に遭ったことのある人を騙す方が容易であると、彼らはそれを経験的事実と知っているのである。

だから、東浩紀が今後もまた多少なりとも失敗をくり返すとしても、それでもその「反省」を生かして、賢明にも「やれることをやろう」と、その活動領域を縮小しながら、自身の身の丈に合わせようとしている態度は、完全に正しいと思う。それなら、また失敗しても、大きな被害にはならないし、傷口も小さくて済む。特に、歳をとってからの失敗は取り返しがつかない、ということもあるのだ。

そんなわけで、東浩紀には、「自己過大評価の結果として失敗し、しかしそれを反省してまたやり直し、また失敗してまたやり直す」という、独特の「才能」に基づく「行動パターン」がもともとあって、その内実を見極めるには、代表作となる小説を読むのが一番だと、私はそう考えた。
「批評文」に比べれば、どんなに「作って」みたところで「小説は正直だ」と私は考えるからである。殊に「初期作品」や「代表作」には、多少ひねったかたちではあれ、その人の「素」が現れやすい。
こうした観点から、私は本作を読むことにした。一一私が興味を持つのは、いつだって「作品」よりも、「作者(人間)」の方なのである。

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さて、本作『クォンタム・ファミリーズ』だが、本作は「量子論」「平行宇宙」をモチーフとした、SF作品である。
本作中には村上春樹フィリップ・K・ディックについて言及がくり返されているし、キャラクターの名前は、昔、東浩紀がよく論じていた「美少女ゲーム」などから採られているようだ。

しかし、私は「美少女ゲーム」をほとんどやったことがない人間なので、そのあたりのことは、それこそ東浩紀の著作を通してしか知らないし、あまり興味がない。
また、小説を論じるのに「あれとこれとそれを足して2で割ったような作品」とかいったような「外形的な評価」には興味がない。それは、ほとんど「説明的紹介」であって、そこに「批評」の醍醐味はないと考えるからだ。

だから私は、本作が「どのような内容の小説か」ということについては説明しない。
それに、すでに多くの人が指摘しているように、本作は極めて複雑な作りの作品であり、一度通読したくらいでは、その「作品構造」すら把握できない代物なのだ。

だが私は、作品の作りを正確に把握するためだけに、本作を再読三読するつもりはないし、作品の構造については、すでに「Wikipedia」で比較的シンプルな説明がなされているので、興味のある方は、是非そちらを参照してほしいと思う。
したがってここでは、Amazonの本書ページから、ごくシンプルな紹介文を引用して済ませたい。

『2035年から届いたメールがすべての始まりだった。モニタの彼方には、まったく異なる世界の、まったく異なるわたしの人生があるのだ──。壊れた家族の絆を取り戻すため、並行世界を遡る量子家族の物語。
批評から小説へ、ゼロ年代のラストに放つ東浩紀の新境地!』

2009年刊行の、初版単行本版の紹介文

『27年後の未来の娘からメールが届いた。でもぼくには娘はいなかった。そしてぼくは、これまでとは違う世界に生きることになる……並行世界を行き来する量子家族の物語。第23回三島由紀夫賞受賞作。』

2013年刊行の、文庫版紹介文

見てのとおり、本作は「家族」の物語であり、「並行世界(宇宙)」を行き来する「量子家族」の物語だ。

本作の描かれる「並行世界を行き来する」というのは、「よく似た、しかしどこかが違っている、いくつかの世界」の間を行き来するというだけではない。そこに「時間のズレ」まで加わって、「並行世界」間における「タイムトラベル」を伴う物語なのだ。
しかも、主人公一人だけがそうした旅をするのではなく、「家族」のメンバーが、それぞれに「異なった世界と時間」の間を旅するのであり、さらにそれが「量子」的にイレギュラーに行われるのだから、話が「複雑」になるのは、どうしたって避けられない。
本作は、わざわざ、「複雑きわまりない世界」言い換えれば「その法則性を特定しきれない世界」を描いていると言えるだろう。

そのため、本作の複雑さの中に「法則性」が見出せると勘違いして読んだ読者は、間違いなく辟易させられるだろうし、腹を立てる人もいる。
だが、私が思うには、たぶんそういう読み方は間違っていて、本作に描かれた世界とは、「量子論」的に図式化できない、閉じない世界だと、そう考えるべきなのだと思う。それは「確率論的」に、開いたままの世界なのだ。一一そして、これこそが「東浩紀の世界観」なのではないかと、私は睨んだのだ。

無論、小説として作られたものを、そのまま著者の「世界観」だと考えるのは乱暴すぎるし、間違いでもあろう。
けれども、考えれば考えるほど、作り込めば作り込むほど、その人の「根源的な世界観」は、嫌でも作品に反映してしまうものだと、私はそう考えている。

だから、本作で描かれた「複雑さ」や「先の読めなさ」や「うまくいかなさ」というのは、作者である東浩紀の、この現実世界に対する「実感」を反映したものだと考えられる。

つまり、私たち、あるいは、私の進むべき「正しき道(選択)」とは、「確率論的」にしか存在しない、ということだ。「おおよそ正しい方向」というのは考えられても、事前に「正解」を得ることはできない。
だから私たちは、結果として「失敗」することもあるのだが、それは避けられないことなのだ。

したがって私たちにできることは、既成の「正しい道」を信じて、その道を突き進むのではなく、確率論的な「試行錯誤」の中で「よりマシな道」を選びながら「漸進」することなのではないか。

「理想というイデオロギー」に捉われず、堅実に「よりマシ」を選び続けるのが、結局のところ「最良」でもあれば、「それしかできない」のではないか。一一と、そんな「諦観」とも「覚悟のなさ」ともつかないものを、私は本作に感じた。

物語の最後の方で、主人公が「結局は、自分の愛するものを愛することしかない」というようなことを独白するのだが、これが東浩紀の「世界観」なのではないかと、私は考える。

そして、ここで言う「私が愛するもの」というのは、もちろん「娘」に象徴される「愛する家族」でもあるのだが、やはり、その前に「この私自身」があるというのは、間違いないところだろう。

その意味で本作は、大変な才能の持ち主であり、またしばしばその自信を語りながら、しかしどこまで行っても、自信の持てない人である東浩紀の、いささか「しんどい(重苦しい)世界像」を、そのまま描いた作品のようだと、東とはかなりタイプの違う私には、そんなふうに感じられたのである。


(2025年4月1日)


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