犬怪寅日子 『羊式型人間模擬機』 : あわあわとした世界を立ち上げる文体
本作は「第12回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作」である。カスガの『コミケへの聖歌』との同時受賞だ。
私は先に『コミケへの聖歌』を読んでおり、そちらの巻末にも掲載された5人の選考員(東浩紀・小川一水・神林長平・菅浩江・塩澤快浩)の「選評」の読んでいたので、本作が多少評価の分かれる作品だというのは、あらかじめ承知の上で読んだ。
それらの選評によれば、今年の最終候補作は、ことのほか「水準が高かった」そうなのだが、しかしまた、最終候補作6作のうちの5作までが、商業誌に執筆経験のある者の作品であり、純粋な「新人」を言える人は、1人だけだったそうである。
つまり、いったんは他所で作家としてプロデビューしたものの、当人としては必ずしも満足できる活躍ができなかったため、メジャーと言って良いだろう「ハヤカワSFコンテスト」で受賞再デビューを果たし、心機一転やり直そうとした候補者が多かったと、そういういうことのようだ。
本作『羊式型人間模擬機』の著者・犬怪寅日子(いぬかい とらひこ)もズブの素人というわけではないようで、Amazonで検索してみると、独自の公募新人賞を持ち、その受賞作家の作品を中心に掲載している『文芸ムック あたらよ』(既刊2号)という文芸雑誌に小説を発表しているほか、『ガールズ・アット・ジ・エッジ』というコミックアンソロジー誌に漫画原作を提供してもいるようである。つまり、小説家としても漫画原作者としても、一応は商業誌デビューしているものの、どちらもかなりマイナー誌なので、犬怪も今回の受賞でメジャーデビューを果たした、ということになろう。
さて、本作に対する、選考委員たちの評価は、次のようなものであった(掲載順)。
『犬怪寅日子「羊式型人間模擬機」。じつは筆者は当初本作に最低点を入れた。死ぬ前に羊に変身する一族。その一族に奉仕するアンドロイドの視点から家族間の葛藤やジェンダーの問題が描かれる。全篇を通して独特の文体が貫かれ、それはまたアンドロイドの不完全な知性の表現にもなっている。力作であるのはまちがいない。しかし筆者には読むのが辛く自己満足にも思われ、最低点となった。ところが選考会では神林長平選考委員から強く推す意見が出て、筆者はむしろそちらに心を打たれた。文学に正解はない。ぼくは良い読者ではなかったが、それほどにだれかの心を掴んだのであればなんらかの真実があるだろう。そこで最終的に大賞に推した。』(東浩紀)
『大怪寅日子「羊式型人間模擬機」。今回もっともオリジナリティに富んだ一本だった。小川はこれがなんなのか理解しきれていない。ある一族にまつわる話だが、そこでは男が死ぬと必ず羊になる。そして一族はその肉を食わねばならない。語り手の召使ロボットが屋敷の内外に出かけてみなに触れ回る。一族の人々はジェンダー不適合や性転換の予定、両性具有、あるいは童貞のまま子を残したなどの性別にまつわる特徴を持ちつつも、この機に当たって何かをするわけではない。ただ生い立ちと性格が語られていく。これだけなのだが、様々な景色と手ざわり、匂いと仕草の美しさ、人々の個性を描いた文章が散りばめられて、どんどん読まされてしまう。選考委員によって意見が分かれたものの、文体の跳ねるようなリズムが好ましく、引きこまれた。結末はロボットによる自己言及で、本機と一族の来歴がかすかに垣間見えるようでいて、不可解。しかしこれが刺さる読者は必ずいるという確言も抱かせる。』(小川一水)
『 じつは今回の六作中、一作が、なんとも変な小説で、しかも内容や書き方がぼくの個人的な琴線に触れたので最高点をつけた。選考会での議論中も、初読時に覚えた「凄み」の印象は揺らがなかった。「羊式型人間模擬機」だ。本作は主人公の非生命体が、生命体である人間の生きる有り様と人工物である自分自身の存在意義というものについて語る小説だ。人間によって実存について語られる内容ならばさほど惹かれなかった。だが、非生命体から、たとえば「生命の意義は死ぬところにある」などと指摘されれば、ある種の神託のようなものに感じられる。いつ死んでもおかしくない年齢になった評者のぼくは、おおげさに言えば、この作品から生きる力をもらった気分になったのだった。ごく私的な読み方ではあるものの、語り手の設定がそういう読みを可能にしているのは間違いない。文体は主人公アンドロイドの一人語りで、その視点から外れた物語世界における環境についての説明や解説は一切なされない。いわば「説明」を省いた「描写」のみで成り立っている小説空間だ。選考会では、可読性が低く読者を無視している、独りよがりの文章だ、という意見も出た。が、ぼくは逆に、むしろそれらに小説の可能性を見た。それも推した理由の一つだ。結果として大賞になったのは嬉しいが、選考会としては、理屈ではなく、ぼくの感性をじての授賞だろう。ぼくの読後感に共鳴する読者は多くないにしても、ともかくも読んでみてほしい。』(神林長平)
『「羊式型人間模擬機」
とても好みの作品でした。語り口も世界観も、幻想文学に慣れている人には嬉しくなるたぐいです。羊になってしまう現象については選考中もいろいろな読み解きが出てきましたが、これも幻想文学であるならば絶対に設定を書かなければならないというものではありません。書かなかったけど察してくれ、なら、問題があります。
ネーミングによって人物が混乱し、語りに紛れてせっかく書き分けたキャラクターの特徴が活かされなかったきらいがあります。シープとスリープ、アンドロイドが眠りによってリセットされること、など、もっとテーマを押し出してほしかったという欲が出ました。』(菅浩江)
『犬怪貨日子「羊式型人間模擬機」の、土俗と象徴がひとつながりになったような筆致のオリジナリティは高く評価するが、やはり中盤は読み通しにくく、イメージの強さがプロットの弱さに勝っていないと感じられた。』(塩澤快浩)
この5つの選評をまとめて言えば、要は、東浩紀と塩澤快浩が「読みにくい文体」だと感じ、小川一水、神林長平、菅浩江は「独特の文体ではあるが、読みにくくはなかった(楽しく読めた)」ということになろう。一一ここらが、本作を評価できるか否かのポイントのようである。

なお、ストーリー的には、小川一水の内容要約が、私の印象に最も近かった。
だが、『語り手の召使ロボットが屋敷の内外に出かけてみなに触れ回る。』という部分については「そんなの、あったか?」と疑われた。少なくとも、小川文から感じられるように「にぎやか」な描写は、一切なかったはずだ。
『ある一族にまつわる話だが、そこでは男が死ぬと必ず羊になる。そして一族はその肉を食わねばならない。語り手の召使ロボットが屋敷の内外に出かけてみなに触れ回る。一族の人々はジェンダー不適合や性転換の予定、両性具有、あるいは童貞のまま子を残したなどの性別にまつわる特徴を持ちつつも、この機に当たって何かをするわけではない。ただ生い立ちと性格が語られていく。これだけなのだが、様々な景色と手ざわり、匂いと仕草の美しさ、人々の個性を描いた文章が散りばめられて、どんどん読まされてしまう。選考委員によって意見が分かれたものの、文体の跳ねるようなリズムが好ましく、引きこまれた。結末はロボットによる自己言及で、本機と一族の来歴がかすかに垣間見えるようでいて、不可解。』
また、本作を高く評価している菅浩江が、あえて、
『 ネーミングによって人物が混乱し、語りに紛れてせっかく書き分けたキャラクターの特徴が活かされなかったきらいがあります。シープとスリープ、アンドロイドが眠りによってリセットされること、など、もっとテーマを押し出してほしかったという欲が出ました。』
と注文をつけている点や、本作をあまり高く評価していない様子の塩澤快浩が、
『イメージの強さがプロットの弱さに勝っていないと感じられた。』
と注文をつけているとおりで、本作は、ストーリーらしいストーリーが無く、プロットというほどのプロットもない、基本的には「特殊な一族」の現在の様子とその過去を、召使アンドロイドの目を通して、ひたすら淡々と描いた作品で、明確に読み取れるテーマ性も無いと言えよう。また、東浩紀や小川一水の指摘する「フェミニズム」的なテーマがあるとしても、それは極めて暗示的で曖昧なものに止まっている。一一あるいは、止められている。
したがって、本作の評価の分かれ目は、次の二点というようなことになろう。
(1)独特の一人称文体に馴染めるか?
(2)おぼろにその輪郭だけを描く作品世界を楽しめるか?
で、私はどうだったかと言えば、
(1)については、アンドロイドの言語能力の不完全さ(それゆえの、幼さや素朴さ)を意図した「一人称の文体」だったので、たしかに「日本語」としては少々奇妙だが、作者自身は決して下手ではないし、馴れれば読みにくくもないと感じた。
また(2)について言えば、そんな「古風かつ幼い」感じの一人称の語りは、「懐かしくて優しくて、少し残酷な」独自の世界の構築に成功しており、ストーリー的な進展はなくても、この一人称の語りの特殊な味わいと、描かれる人物たちの魅力だけで、十分に楽しめる作品になっていると評価したい。
たしかに独特な一人称の語りは、最初は少々取っ付きにくいけれど、馴れればかえって魅力的でもある。したがって、作者自身は、読者を惹きつける魅力的な文体の持ち主だと評価できた。
今どきは「リーダビリティーの高い文章」がそのまま「上手い文章」だと勘違いしている人が多いようだが、それはあくまでも「ビジネス文書」や「文章鑑賞力の低い人でも楽しめる、エンタメ作品用の文章」の話であって、「文学」における「文章の魅力」のことではない。
例えば、古井由吉や大西巨人といった作家の文章は、きわめて「個性的」なのだが、それはその作家の「思想」や「世界認識」が「文体」にまで昇華されているのであって、一般には「読みにくい文章」だとしても、「芸術作品(文学作品)」のための文章としては、決して「下手」だということにはならない。
そうした様々に「歯応えのある」文体的な個性こそが、他には代えられない「文学の魅力」なのだ。
したがって、小説文というものを「可読性」だけで判断するというのは、「エンタメ小説」しか読んでいない人のそれでしかない、とも言えよう。
文学における「文章(文体)」の魅力というのは、そんな単細胞なものではないし、それこそが、本作を評価できなかった東浩紀が言うところの、『文学に正解はない』という言葉の意味なのだ。
つまり、少なくとも東浩紀は「どんな文学作品でも、良いものならわかるはず」などと考えるほど、文学の広大さに対して無知ではなく謙虚だ、ということである。
少なくとも、「幻想文学」や「純文学」や「海外文学」に馴れている者にとっては、本作の文章は、決して「可読性が低い」ということにはならない。作品の「可読性が低い」のではなく、読者の「可読能力が低い」ということになる。
この程度の文章で「読みにくい」と言っているような読者は、他にいくらでもある、もっともっと読みにくい文学作品や世界文学を読んでいないから、そんな太平楽を口にできるのだ。
したがって、本作の評価において私自身は、「刺さる人もいれば、そうでない人もいて、どっちも正しい」というような「事なかれ主義的な立場」は採らない。
本作が、名作文学や世界文学水準の文体を持っているとは言わないし、作者が現在、それほどの文体の持ち主だとまでは言わないけれども、現在の日本における、SF作家を含む当たり前の「エンタメ小説家」の平均的な文章よりは、よほど魅力的なものを、本書作者は持っていると、そう評価する。
現在、一応のところ「純文学」作品を対象とするとされる「芥川賞」でさえ、「読みやすい文体(可読性の高い文体)」が求められるようになってきているようだから、本作作者のような「文体的個性」で推していくタイプは、職業作家として難しいところではあろう。けれども、もはや希少種なればこそ、こういう奇特な作家には、是非とも生き残っていってほしいと切に願う。
むしろ、私が危惧するのは、この作家は、まず間違いなく「当たり前に読みやすい文章」も書ける人だろうから、身過ぎ世過ぎのために、そんな「当たり前な文体による、当たり前のエンタメ小説」など書くようにはならないでほしい、ということだ。
そういうことをやりだすと、作家自身も意識しないところでも、文章の匂いは確実に失われていくからである。
「読みやすいね、わかりやすいね、楽しいね」というような作家なら他にいくらでもいるのだから、犬怪寅日子にあっては、このまま、幻想小説系あるいは純文学系の作品を書き続け、徐々にでも内容の充実を図りつつ、いずれ「一世一代の代表作」をものにしてほしいと期待する。
(2025年3月23日)
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